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『宣教への召し』 2022年5月15日

説教題:『宣教への召し』

聖書箇所:マルコによる福音書 1章16節~20節 説教日: 2022年5月15日・復活節第五主日 説教 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」主イエスはガリラヤ湖の漁師であったシモン・ペトロと兄弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブと兄弟のヨハネの4人にそう言われました。そして彼らは、主イエスの最初の弟子たちとなったという「弟子の召命」が今日与えられた聖書箇所です。

場所はガリラヤ湖です。ガリラヤ湖は周囲53キロあるそうで、私たちがイメージする湖よりもとても大きな湖です。都内をぐるりと一周している山手線が35キロほどだそうですから、それよりも一回りも二回りも大きいのです。このガリラヤ湖はとても良い漁場であり、歴史家のヨセフスは、330艘以上の船が湖で操業していたと記しています。多くの船が出て漁をして、日によっては大漁、日によっては釣り用語でいうところのボウズ、全く釣れずに引き上げてくる、そんな生活が続いていたことでしょう。たくさんいる漁師たちは、湖の近くに家を構え、家族たちとごく普通の暮らしをしていました。そんな活気のある様子が目に浮かびます。そんな中で、主イエスはシモン・ペトロと兄弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブと兄弟のヨハネを選ばれて声をかけられたのです。この出会いも決して偶然ではなく、神様の選びによるものだと思わざるを得ません。大いなる神様のご計画によってなされたことなのです。


■魚

さて、聖書の中で「魚」は度々登場します。有名な五千人の給食では、2匹の魚。その後の四千人の給食では少しの魚。ルカ福音書には、復活された主イエスは復活の主を信じられない弟子たちに向かって、「何か食べ物があるか?」と聞いた時、魚が差しだされ、主イエスがそれをパクリと彼らの前で召しあがったことが記されております。(ルカ24章)ヨハネ福音書には、復活の主イエスが、漁に行った弟子たちを岸で待っておられ、「舟の右側に網を打ちなさい。」と言われました。網を引きあげることができないほどの魚がかかり、主イエスは弟子たちのために朝食の用意をされており、弟子たちにパンと魚を与えらえたことが記されています。(ヨハネ21章)

そして有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐のメインディッシュに描かれているのは魚であったことをご存知でしょうか。主イエスが弟子たちと最後の晩餐を取られたのは、過越しの祭りの時でした。この祝日に欠かせないものは、いけにえの仔羊です。神に捧げて丸焼きにした後、巡礼者たちに配られました。ですから、最後の晩餐で食したと思われるのは、仔羊であったと考える方が自然です。しかし、ダ・ヴィンチは魚を描いているのです。これにはダ・ヴィンチコードのように謎解きがあります。

魚はギリシア語でイクトゥス(ιχθύς )と言います。実は、イエス(Ιησους)キリスト(Χριστος)神の(θεος) 子(Υιος)救い主(σωτηρ)という言葉の最初の文字だけを並べますと、ギリシア語の魚、イクトゥスという語になるのです。この語呂合わせから魚はイエス・キリストを象徴したものとされてきました。

主イエスは最後の晩餐の時、「これは私のからだと血である」と言って、弟子たちと食事を共にされました。ダ・ヴィンチは、魚イコールキリスト御自身として弟子たちに与えた、そのために彼は魚を描いた、と言われています。

キリスト教が公認されるまでの時代は迫害や処刑されるおそれがあり、信仰を公にすることはできませんでした。いわば魚のマークは隠れシンボルとして使われていたのです。一人の人が直線や曲線を地面に書いて、その内のひとつは半円を描きます。魚のマークの上半分です。もう一人の人が、直線や曲線にあらたに書き加える中で、半円に下側の半円を書き足して、魚のマークを完成させたら、お互いがキリスト教徒であることを確認できたというのです。こうした魚のマークを示すことは「イエス・キリスト・神の・子・救い主」という言葉を示すことと同じこととされたのです。今ではこの魚のマークの中にギリシア語でイクトゥスと入れたものをネクタイピンやブックマークなどで見ることができます。


■人間をとる漁師

さて、聖書に戻ります。主イエスは漁師である彼らに向かって、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。彼らは漁師として招かれ、召されました。人間をとる漁師、この言葉は旧約聖書のエレミヤ書16章16節から来ています。預言者エレミヤを通して主がお語りになりました。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。」とあります。エレミヤ書のこの部分は16章14節からのつながりの中で見る必要があります。新共同訳の小見出しには「新しい出エジプト」と書かれています。つまり、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を解放して救い出してくださったように、今バビロン捕囚となっている民を再び解放してくださる、という救いの預言が語られています。救いの希望が示されているのです。神の国、神の支配の実現のために、人間をとる漁師が遣わされることをエレミヤは預言しているのです。その預言の成就が、ガリラヤ湖畔で主イエスがシモン・ペトロ達にお語りになったお言葉なのです。彼らは主イエスに招かれ、そして主に従う者になりました。この世で始まっている神の国を、彼らの歩みを通して人々に示す歩みをするということです。神のみこころがなりますように、と願いつつ、主イエスに従って、主イエスの後ろを歩んでいくのです。

主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。その良き知らせ、神の国の実現を告げ知らせ、人々が悔い改めて救いに与るための働きを「人間をとる漁師」は命じられているのです。


■主に従う

今日の聖書箇所でとても印象深いのは、弟子となった4人は漁をしていたり、網の手入れをしていました。主イエスがご覧になり、声をかけると、いずれの4人もすぐにイエスに従ったのです。聖書はこのように記します。「『わたしについてきなさい。』という主イエスのお言葉に、二人はすぐに網を捨てて従った。」マルコはここで、たたみかけるように、主イエスの召命にすぐに応答する弟子の姿を描きます。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」主イエスが招き、彼らが従う。忠実な弟子としての根本的なものがここに示されています。彼らは「ついて行きますが、ちょっと待ってください」とか、「ついて行ったら何か良いことがありますか」など、何の質問もしていません。シモンとアンデレは「すぐに網を捨てて」従いました。漁師である彼らにとって網はその生活を支えるために重要な道具です。それをすぐに捨てたのです。さらにヤコブとヨハネは「父を雇い人たちと一緒に残して」主イエスに従いました。これは私たちにとって、これは不可思議に感じるのではないでしょうか。年老いた父を残して大丈夫なのだろうか?家族にこのことは告げなくてよいのだろうか?この唐突さ、「すぐに」従ったのはなぜなのだろうか?彼らはどう感じて、どのような心の動きがあったのだろうか?と考えます。しかし、聖書には何も記されていません。

なぜだろう?ということに、しいて答えるならば、「呼ばれたから」です。主から呼ばれる、それを召命といいますが、神様がその人を呼び出して任を与えることです。求道中の方がキリスト者になるときに問われることであり、キリスト者となった人が、この世にあってキリストを証しようとするときに問われることです、そして私のように献身して伝道者となった者ももちろん、問われたのですが、まさに「呼ばれたから」としか答えられないように思います。旧約の預言者たちも神から呼ばれ、そして拒否したり、逃げたりしながらも、結局はその「呼びかけ」に応えていくことになったのです。大切なことは、主が声をかけられたのは、この私である、ということと、主が望んでおられる、ということです。

彼らはただ、主イエスに声をかけられて、「すぐに」従った、だけなのです。私たちにおいて、この「すぐに従う」ということを重ねて見ますと、私たちはついつい理由や言い訳を考えていることに気付きます。やらない言い訳、従わない言い訳が、まずは心に浮かぶのです。それは神様よりも自分を中心に置いているからです。「主にお従いします」と告白した私たちは、神様を中心に置く必要があります。そのためには常に「これは主が望まれていることかどうか」を判断基準としていかなくてはならないのではないでしょうか。主からの招きや御声にためらいが生じるのは、自分を中心にしているからです。神様を中心にすれば、招きに対して、即答。すぐに「はい」ということができるのだと思うのです。わかっていても、なかなかできません。私たちは自分中心に生きてしまうのです。この「すぐに従った」彼らをお手本として、常に想い起こす必要があります。マルコは「すぐに」という言葉を使って主に応答することの大切さを表現しているのです。


■結び

そのようにして主イエスに従っていった弟子たちを見ますと、さすが、主のお選びになった弟子たち、私たちとは違う、私たちにはできないこと、と思われるでしょうか。

これから先の弟子たちはどうなっていったでしょうか。主イエスの招きに従った歩みはどうだったでしょうか。

弟子たちの中でだれが一番偉いかと議論し、主イエスがご自分の十字架の道を示されたときには、ペトロは主をいさめ、そして3度主を否みました。主の道が進めば進むほど、弟子たちの歩みは主から離れていったとさえいえるのです。主の道の最後の十字架では「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とマルコは14章に記しています。誰も主と共にいなかったのです。私たちと同じような情けない弟子たちの姿が示されています。しかし、主イエスはこのようにしか従いえない弟子たちのために、わたしたちのために、わたしのために、おひとりで十字架に赴かれ、おひとりで十字架にかかってくださったのです。お一人ですべてを捧げてくださいました。

主イエスは弟子たちの弱さ、私たちの弱さを十分にご存じです。十分に知っておられて、そのうえで招いてくださっているのです。

「私についてきなさい」と訳されている言葉は、原文に忠実に訳しますと、「私の後ろに従いなさい」です。私たちは主に従って、主について行く者です。主が私たちの先頭を歩んでくださるのです。私たちに降りかかってくるものは、すべて主が私たち以前に受け止めてくださっているものばかりなのです。ですから、私たちの歩みは常に主イエスが共にいて守り、すべてわかっていてくださるのです。このお方が、こんな私たちを求めてくださっているのです。ですから、私たちはこの方の御声に応えて、この方と共に、この方の後ろを歩むのです。こんな情けない愚かな私たちを召してくださり、こんな私たちのためにすべてを捧げてくださった方の後ろに従うことによって、主の御業に励むものとなるのです。この大いなる恵みに感謝して日々、主にお従いして歩むことが叶うよう祈り、主の御業を少しでも表すことができるよう、主に用いていただけるように願いましょう。



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