top of page

『救いの先駆者』 2024年12月15日

説教題: 『救いの先駆者』

聖書箇所: 旧約聖書 士師記13:2-14

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:2-19

説教日: 2024年12月15日・待降節第3主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

今日、読んでいただきました旧約聖書は怪力と呼ばれるサムソン誕生の告知の場面です。サムソンはこの旧約聖書のタイトル通り、士師と呼ばれる者たちの一人です。士師記の時代はこの旧約聖書の並びを見ていただくと分かる通り、モーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という律法の書に続く歴史的書物の始まりにあります。モーセによってエジプトから救い出されたイスラエルの民は、モーセからヨシュアに引き継がれました。ヨシュアによってカナンの地を占領し、イスラエル諸部族に土地が分配されました。しかし、実際には外敵から攻撃を受ける不安定な時代でした。しかも、イスラエルの民は、神に従うどころか、偶像の神々を拝むという不信仰な時代でもありました。民は敵と戦い、苦境に立たされ、苦しむ時代に、神は諸部族を束ねた指導者として士師を遣わし苦境から救い出されたのでありました。イスラエル王国として成立する前の諸部族の連合体という時代、士師たちによって、イスラエルは危機を脱してきたのでした。紀元前1100年ごろのことです。今日のサムエルはその士師記の最後に登場する士師です。士師記にはオトニエルに始まって、サムエルまで12士師が登場します。イスラエルの12部族、また、新約では12使徒、この数の一致は決して偶然ではないでありましょう。神は全てを良き形に作っておられるのですから、創造のご計画の中で用意された数なのです。また、士師記の中、第5の士師としてギデオンが登場します。聖書普及のための活動、ギデオン協会の名前はこの士師に由来しています。

 

■真の王を待つ

さて、この士師記のストーリーというのは面白いほどに同じパターンが繰り返されます。つまり、民が神に背く、神による裁きが下り、民は苦境に陥る、そして士師が遣わされ、士師による安定がもたらされる、そしてその士師が死ぬと再び民が神に背く、というこの繰り返しです。神が士師を遣わして下さったにもかかわらず、民は偶像崇拝を繰り返すのです。士師記の最後、21章25節にはこのように記されています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行なっていた。」この士師記において、人間の持つ罪が何度も繰り返され、そしてその罪の現実にゆえに、真の王を待ち望んでいることが仄めかされているのです。

 

■サムソンの誕生

サムソンが与えられるにあたり、「救いの先駆者となろう」13章5節にそうありますように、主の御使いはマノアと不妊の女であった妻にそのように告げました。神はマノアとその妻を選ばれ、そしてそこに神の恵みの御業としての子どもが与えられたのです。その子どもは胎内にいる時から、ナジル人として捧げられているとあります。ナジル人とは神から選ばれ、特別な職務のために召命を受け、そしてその職務を果たすべく定められている人のことです。子どもが生まれた時、その名をサムソンと名付けた。と13章24節にあります。それは巨大な者という意味を持ちます。その名前の選択は彼らが神によって導き出され、その道を歩んでいることを示しています。サムソンはイスラエルに救いをもたらす者となったのでした。サムソンは教会学校の子供達への話に描かれるように、怪力の持ち主でありながら、どこか子供のような人でもあり、そして謎かけをするようなユーモアも持ち合わせる人であります。彼はそのような愛嬌のある人でありながら、彼はまた、「神の人」でもあったのです。それは母の胎内にいる時からそうであったのでした。そしてサムソンは敵であるペリシテ人の女を愛するようになり、結婚したいと思うようになりました。本来、これは神への不服従を示す出来事ですが、神はサムソンの不服従の罪を用いて、ペリシテ人との戦いへ導こうとしておられたのでした。そのようにして、イスラエルを救いへ導く者として用いようとしておられたのです。そのことも誰も気づきませんでした。そしてサムソンが一人でいるときに、獅子がサムソンを襲いますが、主の霊が激しく下り、サムソンは素手でその獅子を引き裂くことができたのです。それを通して、サムソンは自らが主に召されていることを知るようになったのです。しばらくの後、脇道にあるその獅子の死骸は、腐るどころか、ミツバチの群れがいて、蜜が溢れていたのです。これは神の祝福がサムソンにある、ということが示されている出来事でした。

 

■サムソンの結末

そしてサムソンはペリシテ人の女性と結婚しますが、妻となった女性からの懇願に負けて、彼の秘密を明かしてしまいます。サムソンは神から与えられた召しよりも、ペリシテの女性を愛し、彼女を通して自分の賜物をペリシテ人に渡してしまったということです。16章17節「わたしは母の胎内にいた時からナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」こうしてサムソンは神への誓約の証しであり、神から与えられる力の源がその髪の毛にあることを話してしまいました。このサムソンの神への背きはイスラエルの全ての民と重ねることができます。そして女は人を呼んで、彼の髪の毛を剃らせ、主は彼を離れてしまい、彼は力を失ってペリシテ人に捕らえられたのです。牢屋に繋がれ、足枷をし、さらには目を抉り出されました。サムソンは視力を奪われ、粉挽きの強制労働に駆り出され、また広場に連れ出されては見せ物として笑い物にされました。ペリシテ人たちは彼らの神ダゴンを祀る神殿にサムソンを連れて行きます。彼らはサムソンを処刑しようと考えていたわけですが、捕らえてからかなりな時間が経っていたため、サムソンの髪の毛は再び伸び始めており、サムソンには力が戻りつつありました。サムソンは主に祈ります。「主なる神よ、わたしを思い起こしてください。今一度だけ、わたしに力を与えてください。わたしの命はペリシテ人と共に絶えれば良い。」そして彼は神殿を支えている2本の柱を探り当て、怪力を発揮し、神殿は崩れ落ちます。サムソンはじめそこにいた全ての者たちを死に至らしめるのです。これがサムソンの士師としての結末であります。

この話は異教徒の女に入れ込んだ男の愛憎がもたらす話ではなく、イスラエルを支配し始めていたペリシテ人に、神が救い主を送ったということが示されています。サムソンは多くの点で罪と間違いを犯しました。それでも神はサムソンをイスラエルの救い主として立てられたのです。サムソンを通して神が明らかにされようとしたことは、もしイスラエルが主から離れず、主を背くことなく、主への信仰に忠実であったならば、彼らはどのような敵にも立ち向かうことができる強い民であったということです。しかし、現実のイスラエルの歴史はそうではなかったことを私たちは知っています。サムソンという一人の人間を通して、神はイスラエルの従順と不従順の両面を示しておられるのです。

 

■神の救いの計画

神はこのように主イエスの誕生に遡ること1100年も前から、救い主を送っておられたのです。王のいない時代、真の王をいずれ遣わす、サムソンはその救いの先駆者として遣わされたということです。そして時代を経ること1100年、真の救い主、主イエスの先駆けとして遣わされたのが洗礼者ヨハネです、この人の誕生の顛末はまるでサムソンと同じようでありました。不妊の女エリザベトの元に主の天使が現れ、母の胎にいる時から聖霊に満たされた者である、神に選ばれた者であることが告げられます。そして洗礼者ヨハネは主イエスの先駆け、主の道を整える者として荒れ野で悔い改めを宣べ伝えたのでした。ヨハネは言いました。「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履き物をお脱がせする値打ちもない。そのかたは聖霊と火であなたたちに洗礼を授ける。」と、このようにヨハネ自身も先駆者としての役割を自覚していました。そしてヨハネのもとにいらした主イエスはヨハネから洗礼をお受けになったのでありました。4つの福音書それぞれが、主イエスに先立って、洗礼者ヨハネが現れて、救い主の到来に備えるための活動をしていたことを記しています。

その後、今日共に読みましたマタイ11章2節を見ますと、ヨハネは牢の中で、とあります。何度かお話ししてきましたが、ヨハネは時の王ヘロデ・アンティパスが兄弟フィリポの妻、ヘロディアと結婚したことを非難したゆえに、捕らえられたのでありました。最終的にはヘロデ王の誕生の祝いの席で踊りの褒美として「ヨハネの首を」と願ったヘロディアの娘の要求によって、ヨハネは死を迎えるわけですが、捕らえられた後、しばらくは牢で生活していました。

 

■ヨハネの思いを超えた主イエス

ヨハネはどんな思いで牢の中にいたでありましょう。いつ殺されるかわからないという不安と恐れの極限状態にいたことは間違いないでしょう。彼は救い主を待ち望んでいたことと思います。その救い主は力強く、横暴な権力者を排除して神による支配を宣言し、支配してくれる、そのようなメシアを待っていたことでしょう。ヨハネは牢の中で主イエスがなさっておられることを聞きました、今、私たちはマタイの連続講解で5章まで読んできて、1月からまた戻るわけですけれども、5章から7章までが山上の教えと呼ばれる主イエスの教えであって、その後8章からは主イエスの癒しの出来事が語られております。百人隊長の僕を癒し、悪霊に憑かれた人を癒し、長年、中風を患っていた人を癒し、盲人も、口の利けない人も癒したのであります。そのような主イエスの御業は噂となっていましたし、ヨハネの弟子たちは実際にそれを目の当たりにした者もいたことでしょう。弟子もヨハネにこのようなすごい人が現れたのです!と興奮して告げていました。それを聞いたヨハネの思いがどうであったのか、それが3節に記されています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」つまり、ヨハネは自分の命をかけて、来るべき方のための道備えをしたけれども、牢屋に捕らえられたままである。確かに癒しの御業は素晴らしいけれども、もっと力を持って、悪しき権力者を滅ぼすような方がメシアではないのか・・・という主イエスに対する疑いの気持ちがあったと言うことです。偉大な洗礼者ヨハネといえども、そのような信仰の揺らぎを経験したのであろうと思うのです。

ヨハネの弟子にそのように問われた主イエスは、「私がそうである」とは言われません。主イエスは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」とヨハネに告げなさい、と言われました。この言葉はイザヤ書35章などの預言に基づいています。主イエスがここで言われたことは、主イエスご自身が救い主であるということは、力で示すのではなく、誰からも顧みられないような低さに降りていかれ、そしてその低さの中で死ぬということによって示されるのだということです。

 

■結び

主イエスという救い主の存在とそのお働きは、ヨハネの想像を大きく超えたものでありました。救いは、本当に小さく貧しい者、虐げられている者、苦しんでいる者たち、一人一人に向かい合い、地道にしかし確実に進められるものなのです。讃美歌の歌詞の中に、「人知れず働いて/音もなく世を変える。」(2編12番)というものがありますが、まさにそのように、主イエスは福音を宣べ伝えられたのでありました。それが主イエスのやり方でありました。それはサムソンにもヨハネの想像を大きく超えるものでありました。そして私たちの予想をも遥かに超える救い主としてやってこられたこのお方を、今年もまた待ち望むのです。

最新記事

すべて表示

『「愛と赦しの出来事』2024年12月8日

説教題: 『「愛と赦しの出来事』 聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書3:1-5 聖書箇所: 新約聖書 ヨハネによる福音書3:16 説教日: 2024年12月8日・待降節第2主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに クリスマス、主イエスのご降誕、この出来事は神の愛が最大...

『知らせを告げる足』 2024年12月1日

説教題: 『知らせを告げる足』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書52:7-10 聖書箇所: 新約聖書 ルカによる福音書2:8-21 説教日: 2024年12月1日・待降節第1主日 説教:大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

『神の義の豊かさ』 2024年11月24日

説教題: 『神の義の豊かさ』 聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書10:12 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:6、20 説教日: 2024年11月24日・降誕前第5主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

Comments


bottom of page