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『知らせを告げる足』 2024年12月1日

説教題: 『知らせを告げる足』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書52:7-10

聖書箇所: 新約聖書 ルカによる福音書2:8-21

説教日: 2024年12月1日・待降節第1主日

説教:大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

今年はちょうど今日、12月1日からアドヴェントに入りました。これから毎週一本ずつろうそくに火が灯っていきます。ろうそくの明かりが増し加わっていくごとに、主イエスのご降誕を待ち望む気持ちが高まっていきます。アドヴェントからクリスマスまでの数回、主イエスが人としてこの世に来てくださった出来事であるクリスマスの喜びの知らせを聖書はどのように告げ知らせているか、御言葉から聴き、共にクリスマスを待ち望みたいと思います。

 

■解放の希望

今日、共に聴きます御言葉はイザヤ書52章7節から10節です。イザヤ書は66章まである長い預言書であり、預言者イザヤによるものと言われておりますけれども、一人の預言者によって全てが書かれたのではなく、3つに分かれると言われています。1-39章が第一イザヤによって、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされる前に書かれました。そして今日の52章を含む40-55章がバビロン捕囚の後半期、紀元前550年ごろにまとめられたものであり、このまとまりは第二イザヤの手による、と言われています。つまり今日の箇所は長く捕囚の民とされていたイスラエルの民が、バビロニアから解放されて帰還してきた状況で書かれたものでありましょう。52節の冒頭からエルサレムは聖なる都としてあり続けるという希望が語られています。

 

■美しい足

そして7節には有名な聖句があります。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」バビロニアに捕らわれていた民が帰ってくるという噂は、イスラエルに残されていた人々に伝えられています。待っている人々は見張りをたて、不安と喜びとが半々な気持ちで待っています。そして城門の見張りは遠くから走ってくる人を見つけるのです。この人は先発の使者でありましょう。群をなす本隊に先んじて、捕囚の民が帰ってきたことを、山々を巡って、人々に主の解放の救いの良い知らせを告げてまわるのです。その喜びの知らせのために彼は走ります。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」足が美しい、というのです。普通、美しい足といえば、どのようなイメージを持たれるでしょうか。バレリーナのように華奢でほっそりとした足が浮かんでくるのではないでしょうか。しかし、ここで人々に解放を告げてまわる者は、決して転んだら怪我をしてしまいそうな華奢な足ではなくて、むしろがっしりとした男性の逞しい体を支えるにふさわしい足であったでありましょう。そして当時は靴があるわけではないでしょうから、裸足で舗装もされていない道を走りまわり、傷だらけ、泥だらけになっていたことでありましょう。血豆もできていたかもしれません。しかし、イザヤはそのような足が美しいというのです。主の救いを告げる使者の足は美しい、というのです。

 

■走れメロス

さて、私はイザヤ書のこの箇所を読むたびに思い出す小説があります。それは太宰治の「走れメロス」です。有名な小説ですから、あらすじをご存知の方も多いと思いますが、簡単に内容を紹介します。羊飼いのメロスは妹の結婚式の買い物のために街へ出ます。街の様子が暗く、不審に思ったメロスが尋ねると、ヘロデ大王のような王が人を信じられないがゆえに、人を殺しているというのです。そのことに怒ったメロスは王を許せないと思い、街を暴君から救うために、王を殺そうと考えましたが、逆に捕らえられてしまいます。死ぬ覚悟はできているが、妹の結婚式のために3日の猶予を乞い願い、自分の身代わりに親友であるセリヌンティウスを差し出します。そしてメロスは一睡もせずに走り、なんとか2日目に結婚式を終えて、3日目の未明に王のところに戻るために走るのです。戻る途中、川では前日の豪雨のために橋が壊れて渡ることができなくなっており、メロスは濁流の川を必死の思いで泳いで渡り切りました。峠では山賊たちに襲われ、命を狙われますが、山賊たちを殴り倒して、逃げ延びます。その頃には疲労と暑さのために、意識も朦朧となり、どうでも良いかと思うのですが、湧き水を飲んで再び走るのです。殺されるために、親友の命を救うために、信頼に応えるために、ひたすら走るのです。城が間近になった時、セリヌンティウスの弟子のフィロストラトスに声をかけられ、「もう間に合いません、走っても無駄です、あなたの命が大事です」と言われますが、メロスはこう答えます。「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でない。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っている。」日が完全に沈む直前に、城まで走りぬいたメロスは十字架に釣り上げられていくセリヌンティウスの両足に抱きつき、「メロスが帰ってきた。約束通り、に帰ってきた。」と言います。そしてセリヌンティウスに一度だけ裏切ろうとしたことを告白し、殴るように言います。セリヌンティウスはメロスを殴り、自分もまたメロスを一度だけ疑ったと打ち明けて、殴るようにいうのです。そして二人は抱き合っておいおいと泣くのです。その様子を見ていた王、人を信じられなかった王が、「お前たちは私の心を変えた。真実とは妄想ではなかった。私も仲間に入れて欲しい。」と言い、人々から「王様、万歳。」と歓声が起こり、ほとんど素っ裸になってしまっていたメロスに一人の少女が緋色のマントを捧げる。とこれがストーリーです。この走れメロスは真の友情や人を信じることの大切さいうような物語として知られていますけれども、私が注目したいのは、メロスが「恐ろしく大きいものの為に走っている」と言ったこの言葉です。メロスが走るのは何故か、それはセリヌンティウスと約束したからである。そしてセリヌンティウスを助けるためであります。そしてそれは自分が死ぬために走る、ということです。自分が死ぬため、それでもメロスが行く、走る、「恐ろしく大きいもの」それは神の愛です。メロスは、神の愛に突き動かされて走ったのであろうと思うのです。メロスは神の真実を告げるために走らないではいられなかったのです。それを人々に知らしめるために走りました。まさにこのイザヤの預言で語られたことと同じであります。メロスは川を泳いでわたり、盗賊と戦い、衣服はボロボロになり、履き物も無くなっていたことでしょう。まさに満身創痍、泥だらけで、決してきれいな姿、きれいな足とはいえなかったでしょう。しかし、走ったメロスの足は美しかったのです。

 

■恐れから喜びへ

さて、メロスと同じ羊飼いたちに主イエスのご降誕の知らせが天使たちによって告げられました。羊飼いは当時、蔑まれた職業でした。羊飼いは羊を放牧し、何日も放牧地で野宿し、まさしく夜通し番をしなければならなかったため、宗教的な規則や戒律を守ることが難しかったためとか、定住した生活を送ることができないために悪霊に接しやすかったなどの理由です。汚れた職業とされてユダヤ教の社会では差別されていました。そのような羊飼いたちに主イエス、救い主の誕生は告げられました。「今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。」それを聞いた羊飼いたちはどうであったか、9節に彼らの様子が記されています。「主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」彼らは「恐れた」と書かれています。そもそも、イスラエルの民は神を見た者は死ぬ、滅ぼされると言われていました。ですから、神を見ること、神の栄光に照らされることは恐ろしいことだったのです。信仰的には決して熱心ではなかった彼らでさえ、そのような認識はありましたから、彼らは主の栄光が彼らを照らしたときに恐れたのです。天使は民全体に与えられる「大きな喜び」を告げましたが、喜びを告げられた羊飼いたちは恐れました。クリスマスの出来事は最初から喜びに満ち溢れていたわけではなく、「非常に恐れた」ことから始まり、そしてその大きな恐れは喜びへと変わります。つまり、主の栄光に照らされて滅ぼされる恐れは、私たちを救う栄光の喜びへ、根底から変革させられたのです。羊飼いにそれを告げた主の天使に天の大軍が加わりました。そして神を賛美して言ったのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」この後、羊飼いたちはどうしたでありましょう。「『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」

 

■ベツレヘムへ

羊飼いたちは「急いで」ベツレヘムへ向かった。聖書はこう記しています。主の栄光が羊飼いたちを照らした時、彼らは立ちすくみ、恐れました。しかし、救い主が与えられたという大きな喜びの出来事を告げられ、彼らの恐れは喜びへと大きく変わったのです。その時、彼らはその大きな喜びを見に行かなければならないのだと悟りました。羊飼いたちは天使から行くように命じられたわけではありません。しかし、彼らに語られた言葉をそのままに受け止めて、彼らは何かに突き動かされるように急いで旅立ったのです。主が知らせてくださった神の言葉に対する信頼をそこに見ることができます。「ベツレヘムへ行こう!」「あの幼子のおられるところへ行こう!」必ず見つかる、必ず会える。彼らはなんの困難もないかのように語り合い、確信を持って急いで出かけてゆくのです。ここに見られるのは彼ら、羊飼いたちの信仰です。そして羊飼いたちは神の真実を人々に知らせたのであります。良い知らせを告げる者の足は美しい。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げるのです。お話ししたように、羊飼いは当時、社会的に低い位置にあり、その存在を認められていませんでした。民全体に与えられる大きな喜びは、その民として認められていない羊飼い、その家族として認められていない、家族ではない人に告げられました。ここに主イエスのご降誕はユダヤ人だけでなく、異邦人をも受け入れる全ての人への喜びとなるものである、という普遍的な真実が示されています。

 

■結び

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」神の栄光と地上の平和、このことは確実に存在する、と伝えている。私たちの現実、周りを見まわした時、地に平和があるでありましょうか。悲しみの現実があります。けれども、天の大軍は理想を歌っているのではありません。いつかの希望を歌っているのでもないのです。今日、主イエス、救い主はお生まれになった、と告げられた後の歌なのです。救い主がお生まれになった地、救い主がこの地におられる、それだけでこの地は平和であると告げているのです。今も生きておられる救い主を信じる者は、「地には平和」という言葉を信じることができます。

この本当の喜びは、羊飼いが人々に知らせたように、誰かに伝えたくなるのです。羊飼いたちは語らずにはいられなかった。恐れから喜びに変えられた者として語るのです。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げる。そうして急ぎ伝える者たちは、神の愛に支えられて、神に動かされて急ぎ、語るのです。私たちもそのようにこの大きな喜びを伝える者として用いられたいと願うのです。

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