top of page

『「愛と赦しの出来事』2024年12月8日

説教題: 『「愛と赦しの出来事』

聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書3:1-5

聖書箇所: 新約聖書 ヨハネによる福音書3:16

説教日: 2024年12月8日・待降節第2主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

クリスマス、主イエスのご降誕、この出来事は神の愛が最大限に示された出来事であると言えましょう。旧約の時代、神の愛、神の憐れみ、神の慈しみ、そして神の裁き、神の救いを多くの預言者が民に神との関係を伝えるために語ってきました。その中でも預言者ホセアは神の愛を語った預言者です。預言者ホセアは北イスラエルで紀元前8世紀ごろ活躍した預言者です。北王国がアッシリアに滅ぼされる紀元前722年を跨ぐようにして四半世紀活躍した預言者でした。この時代、イスラエルは混乱の時代であったと言えます。近隣の大国エジプトやアッシリアにおもねりながらなんとかこの時代を乗り切ろうとしていたのです。政治的な問題だけでなく、宗教的に唯一の神に依り頼まない混乱の時代でありました。イスラエルの民は、神の選びによる「神の民」であったにもかかわらず、そのことを忘れ、神から離れていました。そのような時代に預言者ホセアは神から召し出され、かつ、神はホセアにゴメルと言う姦淫の女と言われる女性を娶れ、と命じるのです。ホセアは神の言葉に従い、ゴメルを妻にし、そして結婚生活が始まりました。二人の間には3人の子供が与えられます。神は子供たちに、イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミという神からの離反を表す名前をつけるよう命じます。さらには結局、妻のゴメルはホセアから離れていきました。神の命令に従ったにもかかわらず、裏切られたホセアは深く苦悩しました。そこまでがホセア書2章までに記されております。そして今日の箇所3章1節の言葉が神からホセアに与えられたのです。「お金を払ってでも、その女を買い取れ、そして彼女を愛せよ。」これはとてつもなく大変な命令ではないでしょうか。裏切った妻を許せ、許すのみならず、買い取って連れ戻せというのです。普通であれば、怒りや憎しみでいっぱいです。お金を払うどころか、現代で言えば、慰謝料としてこちらがせめてお金ででも償って欲しいと思うところです。しかし、ホセアは再び神の命令に従います。おそらくゴメルはバアル神殿の売春婦となっていたのではないかと思われます。ホセアは彼女のために相当な額の銀貨と、相当な量の小麦を払って買い戻しました。そして言います。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」ホセアにとって、嫌悪こそすれ、愛するなどというのは程遠い、という感情を持つのが普通でありましょう。しかしそのような者を妻として愛さなければならない。ここではゴメルに対する命令だけでなく、ホセア自身が自分に課す厳しさも示されています。夫と妻の一対一の正しい関係、また愛の関係性が示されていると言えるでしょう。

 

■神はその独り子を

イスラエルの民は、何度も何度も、神を裏切り、神から離れました。唯一の神から離れ、異教の神々に夢中になりました。それにもかかわらず、神はイスラエルの民を見捨てようとはなさらなかった。背かれても、何度も裏切られても、神はイスラエルの民を愛することをやめず、諦めず、一貫してその愛を貫かれました。神はそのご自身の姿をホセアに映し出しています。淫行の女ゴメルは、イスラエルを表しているのです。ホセアは自らの体験を通して、神がイスラエルの民を愛し続けることを証ししたのです。先ほどのホセアのゴメルへの言葉は、神がただ私のみを神とし、私の元にとどまれ。私、神も、私が選んだイスラエルの民を捨てない、という神の宣言です。

そしてイスラエルのみならず、私たち異邦人をも含む全ての民を愛しておられる神、その神はその愛を主イエス・キリストを通して私たちに示されました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16に記されている通りです。神に背く人間を赦し、罪の贖いのために、神が人となってこの世に来てくださった出来事、それが主イエス・キリストのご降誕の出来事です。今日のホセア書の3章最後5節には、神がその愛の完成のために、主イエスを人としてお遣わしになられるということ、ダビデの子孫として主イエスがお生まれになることが、はっきりと告げられています。「その後、イスラエルの人々は帰ってきて、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れを持って近づく。」「主とその恵みに畏れを持って近づく。」とは、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。」とヨハネ4章にありますように、異教の神々ではなく、ただお一人のまことの神がくださる恵みに、一対一の関係として、向き合うということです。こうして預言者に予告させたように「終わりの日に」主イエス・キリストをお遣わしになったのです。

 

■罪のうちにある人間

「ホセア」という名前は、実は「主は救い」という意味を持つ名前です。預言者ホセアは来るべき主イエスの到来を告げる者として、神から召し出されたということができます。ホセアは絶対に絶えることのない神の愛を告知する使命を与えられたのです。同じように「主は救い」という名前を与えられたのが、主イエス。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このようにマタイ1:21において天使に告げられています。名は体を表し、この名前そのものが主イエスの働き、主イエスの使命を表しているのです。しかしながら、罪から救うとはどういうことでしょうか?罪というと、一般的には「罪を犯す」というような使われ方をして、法に触れることをしてしまうとか、もしくは社会規範から外れたことをしてしまう、というようなことが思い浮かぶでありましょう。しかし、聖書においては、一言で言えば、神から離れること、であります。神が人間をお造りになった時、人間は神との交わりの中、神の愛のうちに生きるように造られました。しかし、人間は神に背いたのです。創世記3章、アダムと女が蛇に唆されて木の果実を食べた時、人間は神の顔を避けたのです。そしてカインの献げ物に神が目を留められなかった時、カインは激しく怒って顔を伏せました。神は言われました「どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。」私たちも人間同士で、相手に対して何か後ろめたい気持ちがある時などは相手の顔を見ることができず、視線を逸らす、相手の目を見ない、ということがあります。目は口ほどにものを言い、と言われるように、自分が正しくないとわかっていてもそれをしてしまうということが人間にはあります。アダムと女も神様からそれだけはいけない、と禁止されていたこと、そのことは頭ではわかっていたのです。それにも関わらず、それをしてしまい、さらには女が勧めたから、蛇が良いと言ったから、というような言い訳、責任転嫁までしました。そのようにして人間は神との正しい関係から離れたのです。これは決してアダムと女、カインという遠い過去の話ではありません。人類の創造は5千年前とも1万5千年前とも言われ、正確なことはわかりませんけれど、それ以来、脈々と続いているのです。私たち自身の中にも、相手から目を逸さずにはいられない何か、があるのです。本来、その相手とは、神であります。神から目を背けた状態、これが聖書で言う罪です。神との正しい関係にあるならば、それは神の愛のうちを生きる存在でありますけれども、こうして神から離れた人間は、愛ではなく憎しみを持ち、相手を傷つけてきたのです。それは私たちの知っている歴史が証明していることです。

 

■主イエスのミッション

そのような罪とその結果に苦しむ人間の救いのために、神は主イエス・キリストという神の独り子を人としてお与えくださったのです。神に背き、神から離れた人間を神はお見捨てにならなかった。ゴメルがホセアを裏切ったように、人間は神を裏切り続けた。それにもかかわらず、ホセアはお金を払って買い戻しました。ホセアは一人の人間として、妻から背かれて苦しみました。それでもなお妻のゴメルを愛する、愛し抜くということを神から命じられ、さらに苦悩したに違いありません。しかし、その体験を通して、ホセアは神の愛の深さ、大きさ、神の愛の真実を身をもって知ることとなり、そしてその愛を自ら証ししたのです。神は私たちの罪の清算のために、愛する独り子である主イエスという代価を支払われました。それは十字架の死を持って清算するという、あまりにも大きすぎる代価です。私たち人間は神から愛され、私たち人間はその神から離れた。それにも関わらず、神は私たち人間と愛の関係を再び取り戻すために、愛する御子をこの世に送ってくださったのです。そして、それはそこで生きるためではなく、私たちのために十字架で死ぬためでありました。クリスマスという出来事は、神が私たちに最大のギフトを用意してくださった出来事です。神からの贈り物である主イエスははじめから父なる神のご計画を知っておられました。それゆえに、父なる神に従順に従われ、十字架への道を歩まれました。そしてその苦しみの極みにおいて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言われました。ここに示されているのは何でしょうか。この主イエスと共に生きた時代の、共にいた人々が愚かだったのでしょうか?私たちには何の関係もないことでしょうか?決してそうではありません。主イエスの十字架上での執り成しの祈りは、すべての人のためのものであり、そして主イエスの十字架はこの私のためであったと告白する者たちすべての罪を清算してくださるためでありました。この十字架上に、私たちの罪の深さと、そしてそれを遥かに超える神の赦しの愛が示されているのです。徹底した神の愛と赦しが、主イエスの存在を指し示しているのです。

 

■結び

教会はそのことをこの2千年、ずっと証しし続けてきました。これからもこのことを語り続ける、これが教会の使命であり、私たち主に招かれ、主の弟子としていただいた者たちの使命であります。今年度、私たちは「キリストの証し人として生きる」ということを年度標語として覚えてきました。キリストを証しすることは難しいと思っておられる兄弟姉妹が多くおられます。でも、この喜びを、神の愛の大きさをどなたかに伝えたいと思うのではないでしょうか。この主イエスのご降誕の時、世の中の人誰もがいつもより教会に一歩近くなっている時なのです。誰もが神の愛に招かれています。誰もが主イエスの救いに招かれています。直接にお声をかけられないならば、私たちはその方のために祈りましょう。願いましょう。「神にできないことは何一つない」のです。祈りを通して、一人でも多くの方が招かれ、赦され、新たな命を生きる者となりますように。私たちの救いのために、主イエス・キリストが遣わされ、神の招きを告げ、そして赦しを宣言してくださっています。その喜びを多くの方と分かち合いたいのです。主イエスのお誕生はそのためであります。

最新記事

すべて表示

『救いの先駆者』 2024年12月15日

説教題: 『救いの先駆者』 聖書箇所: 旧約聖書 士師記13:2-14 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:2-19 説教日: 2024年12月15日・待降節第3主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

『知らせを告げる足』 2024年12月1日

説教題: 『知らせを告げる足』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書52:7-10 聖書箇所: 新約聖書 ルカによる福音書2:8-21 説教日: 2024年12月1日・待降節第1主日 説教:大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

『神の義の豊かさ』 2024年11月24日

説教題: 『神の義の豊かさ』 聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書10:12 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:6、20 説教日: 2024年11月24日・降誕前第5主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

Comments


bottom of page