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『福音の初め』 2022年4月3日


説教題:『福音の初め』

聖書箇所:マルコによる福音書 1章1節~8節

説教日:2022年4月3日・受難節第五主日

説教:大石茉莉 伝道師


みことばを取り次ぐ任を与えていただき、感謝いたします。

旧約聖書に登場する預言者たち、その多くは神様からその任を告げられ、神からの召しを受けたとき、「自分にはその任は重すぎます」と尻込みしました。イザヤもエレミヤもそうでした。エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。若者にすぎないのです。」と抵抗します。しかし主は言われました。「わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と言われたのです。エレミヤはバビロン捕囚からユダ王国が滅亡へと向かう混迷の時代の孤独な預言者となりました。エレミヤは捕囚の民に向かって、神の希望を語り、神の救済を語り続けました。

 私も神様からの召しに抵抗した一人です。しかし、神様のご計画は私自身の思いを大きく超えて、3年の学びの時を与えてくださいました。神様がエレミヤに「わたしがあなたと共にいる」と約束されたように、私とも常に共にいて下さることによって心が整えられてきました。

 主イエス、その名はインマヌエル「神は我々とともにおられる」という意味です。神の子であられる主イエスがこの世に私たちと同じ人として来てくださったこと、それが福音です。その福音を語る、それが私に与えられました。恐れおののきながらも、「神が共にいてくださる」。そのことにより頼み、語り続けていきたいと思います。

「福音を語る」それが原点であり、常にそこに立ち帰りたいのです。連続講解として、説教をするにあたり、マルコによる福音書を語ることに致しました。なぜなら、「福音を語る」このことにふさわしく、すでにお読みしたように次の言葉から始まっているからです。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」この1節の言葉こそ、マルコ福音書全体のタイトルとして読むことができます。今日はその第1章1節から8節のみことばに聴きます。

 この福音書で語られている主イエスの御業、十字架の死と復活、その全体が「キリストの福音の初め」であり、そうしてはじまった福音が、全世界へと宣べ伝えられて、キリストの福音を信じる者たちの群れは教会となり、広まっていったのです。


 さて、もう25年以上も前に流行ったアニメ、に「エヴァンゲリオン」というものがありました。このアニメは旧約聖書をベースにしたストーリーになっているそうです。

この「エヴァンゲリオン」これがまさに「福音」と訳されているギリシア語です。正確には、「エウアンゲリオン」です。「エウ」と「アンゲリオン」という2つの言葉がくっついています。「エウ」は「良い」、「アンゲリオン」は「知らせ」という意味です。つまり、福音は「良い知らせ」という意味なのです。

 「良い知らせ」この言葉には旧約聖書の背景があります。マルコの3節にはイザヤ書40章の3節が記されていますが、続く9節にはこうあります。「良い知らせをシオンに伝える者よ」「良い知らせをエルサレムに伝える者よ」と繰り返されています。このイザヤ書40章が書かれた時代、イスラエルの人々はバビロン捕囚という捕らわれの身にあり、民の滅亡の危機という暗い厳しい状況にありました。人々の周りは「悪い知らせ」ばかりであったのです。それゆえに、「良い知らせ」を待ち望んでいました。

 そしてそれは、主イエスの時代においても同じでした。ローマの支配下にあり、ローマの許可なしにはなにもできないというユダヤ民族の誇りを踏みにじられるような状況にあったのです。当時の人々も「良い知らせ」を待ち望んでいました。

 さて、それでは本当に良い知らせとは何でしょうか?旧約の時代の人々にとって、良い知らせとは何だったでしょうか?バビロン捕囚から解かれることでしょうか。新約の主イエスの時代の人々にとって、良い知らせとは何だったでしょうか?ローマ帝国の支配から

解放されることだったのでしょうか?そして、今を生きる私たちにとって良い知らせとは何でしょうか?このことを私たちは自らに問い、考えていかなければなりません。よい知らせとは何なのか?福音とは何なのか?それがこのマルコ福音書を読み続けていく中で、繰り返し考え、立ち返るテーマです。


 さて、洗礼者ヨハネは荒れ野で活動していました。ヨルダン川のほとりでした。罪を警告し、悔い改めよ、罪の赦しのバプテスマを受けよ、と宣べ伝えたのです。ここで注目したいのは、「荒れ野」です。ヨハネはたくさんの人に悔い改めを勧めるよう神から召されたにもかかわらず、人の多い街中ではなく、荒れ野で活動しました。

 聖書における荒れ野のシーンを思い出してください。モーセに導かれてエジプトを脱出した民が40年という長い年月を過ごした場所。主イエスがサタンの試みにあった場所。ホセア書2章には、こんな言葉もあります。「それゆえ、わたし(神)は彼女(イスラエルの民)をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう。」そうです、神がその民と単独で向き合い、語られる場所、それが荒れ野です。荒れ野は神との関係だけがある場所を象徴しています。

 人間関係や、社会的な関係を断って、神とだけ向き合うこと、悔い改めには、そのようにただただ神様とだけ向き合える場が必要であることを表しているのです。


 洗礼者ヨハネは自らの罪を悔い改めた者にヨルダン川で洗礼を授けました、ヨハネは私たちの心を罪に向き合わせ、心を神に向かわせました。しかし、ヨハネにできるのはここまでです。なぜならば、神に対して犯した罪は神でない限り赦しを与えることはできないからです。ヨハネはそのことを良く知っていました。それゆえ、ヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言ったのです。それは後から来られる方、救い主の到来への備えでありました。

 ヨハネは悔い改めた者への洗礼を人々に授けました。悔い改めとはどういうことでしょうか。私たち人間、それぞれに自分を振り返ってみたときに、ダメなところというか、足りない所、直したほうが良いところ、それらはあれこれ思いつくことでしょう。しかし、聖書が教える罪とは、そのようなそれぞれの欠点ではなく、本質的、根本的に神様に背いているということを指しています。この世を造られ、私たちを造られ、支配しておられるのは神です。罪とは神様から離れている事を指します。罪の歴史は   アダムとエヴァまでさかのぼります。創世記の2章には、神様が善悪を知る木の実以外は何を取って食べてもよい、と言われたことが記されています。これは、人間が自由な存在として造られたことを示しています。つまり、神様は、私たち人間を神に従うことしかできない存在としてではなく、自らの意志で選ぶことが出来る存在としてお造りになりました。どちらをも選べる者として造り、その中で、私たちが、自発的に神様に従い、信じ、恵みに応答して生きることを待っておられました。ですから、それはどちらを選んでもよい、ということではなく、神様の恵みに応答し、神様に導かれる道を歩むことで、更なる恵みが増し加わることを願っておられます。恵みを拒み、神様から離れた悩み苦しみの中を、また、闇の中を歩んではほしくないと強く願っておられるのです。

 アダムとエヴァが置かれたエデンの園の木の実は、手を出せば食べることが出来るところに置かれていました。二人には食べる自由も食べない自由も与えられていました。神様に従うことを選ぶならば、食べない自由を選んだはずです。しかし、あの時、二人は食べる自由を選び取り、その結果は神様に従わないという背きの道を選んでしまったのです。私たち人間はそうして「極めてよかった」神の創造の完成として造られた人間であるにもかかわらず、神様から離れて生きることになったのです。さらにはアダムはそれを妻に、つまりはその妻を造られた神様にまで責任を転嫁するという自己中心の罪の中に生きることになってしまったのです。それ以後の人間の歴史は、ご存知の通り、人殺しや戦争が絶えることはなく、現在では神様の造られたこの地球の環境破壊までをも私たちが引き起こしているという罪の現実があります。


 神は愛なり、と言われるように、愛の御方でありますが、同時に義なる御方であられます。ですから、私たちの罪をそのままにして赦されることはありません。

「時が満ちる」と神様は御自身の独り子をこの世に遣わされました。私たちの罪の赦しのためです。主イエスは十字架で死ぬために、この世に生まれてこられ、その道を歩まれました。そしてそれが神の国、神の御支配の実現なのです。

 当時のユダヤ人たちは自分たちをローマの支配から解放し、神の民イスラエルの国を再建してくださる救い主メシアを待ち望んでいました。それが福音、よき知らせと思っていたのです。しかし、神様はそれとはまったく違う形を取って、この世での支配を確立されたのです。マルコは「神の子イエス・キリストの福音」と語っています。福音は「イエス・キリストの福音」であり、神の国、神の御支配はイエス・キリストによって実現したのです。

 主イエスは神の国の福音、神の御支配の確立を告げる福音を宣べ伝えられました。主イエスは教え、様々な奇跡も行いましたが、それによって福音が実現したのではありません。神の国は、主イエスの十字架の死と復活によって実現したのです。十字架と復活によって、罪ある私たちが赦され、神の民とされ、新たな生をいただき、生きていくことができる、そのことが「イエス・キリストの福音」なのです。マルコが語る「福音」は主イエスの十字架と復活によって実現した救いの出来事です。主イエスを救い主と信じ、復活して今も生きておられる主イエスと共に生きる者になることこそが、「イエス・キリストの福音」を信じて生きるということです。


 マルコによる福音書は、そのはじめから終わりまで「神の子イエス・キリストの福音」を告げ知らせています。主イエスが十字架で息を引き取られた時、ローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と語った事が15章には記録されています。マルコは、「イエス・キリストがまことの神の子であられる」ということを、百人隊長の言葉として記録することで、それがすべての人々に及ぶ真実であることを語ろうとしたのです。

 その神の子である主イエスは人として私たちと同じ姿でこの世に来てくださり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そのような主イエスを神様は死者の中から復活させてくださり、私たちを支配している罪と死の力に勝利して、神の恵みの御支配がこの世に確立したのです。

 主イエス・キリストのご生涯と、十字架の死と復活。それによって、神の御支配が私たちと共にあるということが「良き知らせ」、「福音」です。これからこのマルコ福音書を通して、私たちに与えられたこの救いの恵みを覚え、「良き知らせ」を喜びと感謝をもって味わってまいりましょう。



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