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考え直すという恵み』2026年7月26日

  • 7月27日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『考え直すという恵み』

聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書3:19-22

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書21:28-32

説教日: 2026年7月26日・聖霊降臨節第10主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「ところで、あなたがたはどう思うか」主イエスはこのような語り出しで譬えをお話になられました。誰に語ったのかといえば、直前に登場した祭司長たち、民の長老たちに向けてです。彼らは主イエスを陥れるために「何の権威でこのようなことをするのか」という悪意のある問いを投げかけました。主イエスはそれに対して、彼らが答えにくい問いを逆になさいました。彼らが「分からない」と返答すると、それではわたしも答えまい、と主イエスは言われたのでした。それに続いて、今日の箇所から、主イエスが彼らに向けて語られた譬えが三つ続きます。今日与えられた箇所の小見出しには「二人の息子」のたとえとあり、そして「ぶどう園と農夫」のたとえ、「婚宴」のたとえ、とあります。それぞれの譬えの意図を3回に分けて聞いてまいりたいと思います。特に今日の譬えは、マタイだけが記しているものであります。

 

■二人の息子

ある人、父親に息子が二人いました。父親はまず、息子の兄のところに行って、「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい。」と言いました。兄は「いやです」と言いましたけれども、後で考え直して出かけていきました。そして父親は弟にも同じことを言いました。弟は「お父さん、承知しました。」と良い返事でありましたけれども、出かけなかった。このように反抗的な態度を取ったものの結局は父の言うとおりにした息子と、口では良い返事をしたものの実行しなかった息子の対比が描かれています。まず単純に思いますことは、言葉と行いについて考えてみることができましょう。言葉だけで行動の伴わない弟と言葉では拒否したものの、実際に行動した兄がたとえ話で語られました。この出来事はマタイによる福音書にしか記されていませんけれども、実はかつての口語訳と新共同訳とでは兄と弟が入れ替わって記されています。つまり、現在のものでは、兄は行った、弟は行かない、ですが、それが逆、兄は行かない、弟は行ったということです。どうしてこうなったかということを簡単に言えば、元となるギリシア語の聖書の版が異なるからです。この行くと言って行かない兄の姿にユダヤ人を重ね、行かないと言いながら行った弟の姿に異邦人を重ねて読まれてきました。福音はまず兄であるユダヤ人に与えられたけれども、結局、彼らはそれを拒否しました。しかし、父の意志に添って行動したのは、拒否したのちに受け入れた弟である異邦人である、と、そのような救済史的な解釈で読まれてきたということです。論理的にはこの理解、解釈は非常にわかりやすくすっきりします。

ただ、聖書は現存する数多くの写本や断片から聖書学者が比較、研究して一字一句を精査して、これが原本に最も近い、と確定させていくわけです、それを定本と言います。それらは日々、研究されて更新されて、第何版という形で正式に採用されていきます。この箇所の兄と弟が入れ替わったのは、元のいくつもの写本に「第一の者、第二の者」とか「後者」とか、「最後の者」などさまざまな言葉が使われており、口語訳の兄は行かない、弟は行った、という形は聞かなかったユダヤ人、受け入れた異邦人という解釈の手が後代になって加えられたと考えられるために、現在の形、兄が行った、弟は行かないというものになっています。そのようにこの譬え話がなぜ、二つの形をとっているのか、また、その言葉の入れ替わりはなぜなのか、それが何を意味しているのか、どのような背景を持って語られたのか、など、考えだせばキリがないのですけれども、私たちは聖書学者ではありませんから、どちらの写本が正しいのかというようなことを議論することはできませんし、あまり意味のないことでありましょう。私たちに求められていることは、主イエスがここから何をお話になろうとしたのか、その恵みを聞くことでありましょう。

 

■二つのタイプ

今一度、聖書を見てみますと、兄は「いやです」と言ったけれども、後から考え直して出かけた。弟は「はい」と言ったけれども行かなかった。口ではいい返事をして行わないよりも、実際に行う方が良い、それが大切だということを主イエスはお教えになりたかったのでしょうか。確かに口先では信仰を言い表しながら何もしないキリスト者よりも、拒否したとしても心を入れ替えて神の御心に従っていく人の良さというのは語られているでありましょうけれども、ここで主イエスが示されたのは、ここに登場する二人の兄弟に表される態度、すなわちそのような信仰がおおかたを占めるということです。一番良いのは、「はい」と言って、そのまま行くというパターンでありましょう。しかし、主イエスはそのように言動一致のタイプをお語りになりませんでした。「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい。」と、父である神に言われても、多くは弟のように「お父さん、承知しました」と、愛想は良いが何もしない。これがこの時代の信仰の大半でありました。しかし中には兄のように、悔やんでしぶしぶ腰を上げる者もある。「いやです」と答えつつ、後で考え直して出かける者もいる。このどちらもあまり出来が良いとはいえない兄弟を引き合いに出して、主イエスは祭司長や長老たちに尋ねるのです。「どちらが父親の望みどおりにしたか」彼らはきっぱりと「兄の方です」、渋々ながらも行った兄の方と答えます。

主イエスは彼らのこの答えに対してこう言われました、「あなたたちより先に神の国に入る者がある。」そして、マタイはここから、この後半へと話を繋げているわけですが、ここではその弟側として示されているのが、徴税人や娼婦たちであります。さて、では徴税人や娼婦たちが祭司長たちや民の長老たちよりもその行いにおいて立派なことをしていた、ということを主イエスが言われたのかといえば、そうではありません。徴税人や娼婦は当時の社会においては罪人の代表であり、ただそのように言われていただけではなく、実際の行いにおいて彼らは罪を犯していました。徴税人は同胞のユダヤ人たちから税金を徴収し、ローマ帝国には決まった額を納め、その差額で私服をこやしていました。娼婦と言われる人たちも、それぞれの事情がありながらも罪を犯しながら生きていました。ですから、彼らは言葉では神に逆らいつつも行動では神の御心を行なっていたとはとてもいえない存在なのです。

 

■洗礼者ヨハネの義の道

それではなぜ、主イエスは彼ら、徴税人や娼婦たちが祭司長や民の長老たちよりも先に神の国に入ると言われたのでしょうか。主イエスの問いはそもそも31節にありますように、「どちらが父親の望みどおりにしたか」でした。そしてそのことが32節につながっています。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」今の32節で主イエスは「信じる」という言葉を3度も繰り返しています。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じた。あなたたちは考え直して彼を信じようとしなかった。」主イエスは信仰を求めておられます。「信じる」ことをここで求めておられるのです。ヨハネが示した義の道とは、自分が神の前に罪人であることを認め、悔い改めて神のもとに立ち帰るということでありました。そのしるしとしてヨハネは洗礼を授けていました。徴税人や娼婦たちは自分たちが神に対して罪を犯していることを認め、ヨハネの元にきて洗礼を受けました。罪の赦しを神に願い求めました。その行為を主イエスは信じることであると言っておられるのです。しかし、祭司長や長老たちはヨハネを無視しました。彼らはヨハネが示した義の道を信じようとはしませんでした。先週のところで、主イエスは彼らに「ヨハネの洗礼は神からか、人からのものか」という問いを突きつけましたが、彼らの答えは自分たちを守るための「わからない」という逃げでありました。彼らは自分たちが罪人であるとは思っておらず、したがって悔い改める必要もないと思っているのです。徴税人や娼婦たちが神の国に入るのは、彼らが神の御心に叶う生活をしているからではなく、ヨハネの示した義の道を信じた。神の前に悔い改めたからです。ですから、この譬えで語られている肝心なこととは言葉か行動かではなく、自分が罪人であることを認めて、悔い改めて神に立ち帰り、赦しを求めるかどうか、であるということが浮かび上がってまいります。

 

■後で考え直して・・・

兄は「いやです」と言ったものの、「後で考え直して」出かけて行きました。この兄の心の変化はなんでしょうか。周囲の手前仕方なく態度を変えたのではなく、人から言われたのでもなく、考え直したのでした。義理や義務ではなく、出かけて行きました。私たちも神の前に悔い改め、赦しを願うのは、誰かのためではありません。悔い改めるのは、神の御許にこそ自分が本当に生きることのできる場があり、そして罪赦されて喜びを持って生きることができるからです。父の元で、父の愛の中に置かれて、父の元で働くことに喜びを見出すからです。この父と兄と弟、という3人が登場する譬えで思い出されますのは、ルカ15章の放蕩息子の譬えでしょう。放蕩息子の譬えでは弟息子が父の財産を分けてもらって家を出て、異邦の地で放蕩の限りを尽くした挙句、無一文になった後に考え直して、父のもとに帰ろうと気づきます。父と共に働くことは窮屈で、自分は外で自由に生きる、思い通りに生きると行って出ていったわけですが、自分が本当に生きることができるのは、父のもとなのだと思い直して帰ってくるのです。そして弟が出ていった後も父と共にいた兄は、そのような弟が帰ってきた時に、不平を言います。彼は表面的にはおとなしく父のもとにいましたけれども、心の中は不平不満でいっぱいでした。つまり、形は父と共にあっても、心は父から離れていた姿が示されています。それは今日の箇所の弟の姿に重なります。表面上は父に従っているように見えても、ぶどう園には行かず、父から離れているということです。今日の箇所の兄はルカの放蕩息子、弟息子と重なります。後で考えて父のもとに帰ってくる、本当に生きる場は父と共にあることだということです。

 

■結び

今日の箇所では、その始まりから、兄と弟の入れ替わりをお話ししてきました。今日の話では、なぜ兄なのか。それは主イエスが語りかけられたのが、祭司長、民の長老たちであるからです。あなた方はイスラエルの兄としている者たちではないか、あなたたちが先頭に立って、父なる神に民を導くべきではないかと主イエスは言っておられます。あなたがた自身が、父親の望みどおりにしたのは、「兄の方です」と答えているではないか。そのように考え直しなさい、悔い改めて、心から父なる神の望みを受け入れる者となりなさい、という語りかけなのです。

時に私たちも父なる神に対して素直になれず、時に神を拒み、また時に従っているようでも、心では違うことを考えている者たちであります。しかし、私たちが心から安心して、本当の自由が与えられるのは父なる神の元にいることであります。父の元にいること、父のぶどう園で働く恵みはすでに20章でも主イエスは語られました。私たちは父から私と共に働きなさいと招かれています。いつでもそこに行けるようにしてくださったのは、主イエスが十字架にかかって死んでくださり、そして復活してくださったからです。それによって私たちはいつでも後で考え直して、つまり、悔い改めて、神のもとに立ち帰ることができます。そこには神の赦しがあります。

         

 
 
 

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