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『まことの権威によって』2026年7月19日

  • 7月20日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『まことの権威によって』

聖書箇所: 旧約聖書 ミカ書3:1-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書21:23-27

説教日: 2026年7月19日・聖霊降臨節第9主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

このマタイ福音21章は主イエスがエルサレムにお入りになった後の出来事が続けて語られています。そしてそれらは大きな主題を浮き彫りにするものであります。それは主イエスがまことの神の子であり、まことの救い主であられる、ということです。まことの権威をお持ちのお方がここにおられるにも関わらず、祭司長、律法学者、長老たちはそのことを認めませんでした。主イエスが入られたエルサレムの中心、父の家は強盗の巣と化していました。主イエスはそのことをお怒りになり、宮清めという形でご自身の権威を示され、祭司長たちを糾弾いたしました。そして今日与えられた23節以下には、翌日、神殿に来られた主イエスのもとに、宗教指導者である祭司長や民の長老たちがやってきて、問いを突きつけるという出来事が記されています。

 

■彼らのプライド

「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。」彼らのこのセリフは問いというよりは、文句を言ったということでありましょう。「このようなこと」というのは、まずは前日の宮清めの出来事を指しているでしょう。主イエスは神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたわけですが、祭司長や長老たちは、自分たちのテリトリーである神殿でそのようなことをするとは何事か。何の権利があってやったのか。神殿の秩序を乱すこのような行為は、到底、許されないことだ、と思っていたのです。さらに言えば、この箇所の並行記事マルコ11章27節では、「イエスが神殿の境内を歩いておられると」となっていますが、このマタイでは「イエスが神殿の境内に入って教えておられると」となっています。つまり、祭司長や長老たちは前日の宮清めの出来事だけでなく、主イエスの教え全体を疎ましく思い、強い反発を覚えていました。反発どころか、主イエスを殺したいとさえ思っていました。この祭司長、長老たちはユダヤ教最高法院であるサンヘドリンを構成する人たちです。議長と副議長を含めて71名の議員で構成されていました。律法の解釈を行い、民の宗教生活を規定し、宗教的・民事的な事柄を裁く最高法廷としての機能を持っており、議員たちにはそれらの権限が与えられていました。この律法を解釈して民に教える教師の権威づけに、ユダヤ教では細心の注意が払われていました。すでに任職を受けた複数の教師によって按手を受けた者だけが神殿で教えることができました。ですから、彼らから見たら、主イエスは無資格のガリラヤから来た大工の息子であり、何の資格も証明書もないただの人なのです。ですから無資格なのに、神殿の主人のように振る舞うとは何様なのか、と思うわけです。彼らは「何の権威によって」と尋ねていますが、教師の権威も、預言者の権威も、当然ながらメシアの権威も認められない、というわけです。そして誰があなたにその権威を授けたのかと続けるわけですが、彼らからすると、その権威を授けるのは我々であるという最高法院のプライドをちらつかせています。この当時の権威体制がそのようなものでありましたから、主イエスがエルサレムにお入りになってなさった行為がいかに大胆なものであったかということがわかります。

 

■天からのものか、人からのものか

主イエスはそんな彼らの質問に対して、逆に質問をなさいました。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」主イエスはバプテスマのヨハネの権威の出どころを問われました。バプテスマのヨハネは、マタイ福音書3章に登場した、神が遣わした旧約時代最後の預言者です。悔い改めを説き、主イエスがメシアであることを指し示しました。その意味においてバプテスマのヨハネは新約時代への橋渡しをした預言者であります。マタイ3章7節以下にありますように、ファリサイ派やサドカイ派の人々、形式ばかりで本当の悔い改めをしない彼らを「蝮の子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と強い口調で叱責しています。我々をそのように侮辱したヨハネを「天から」などとは言えるわけはありません。彼らにとって「天から」というのは神を表すことなのです。もし「天から」と言ったならば、「ではなぜヨハネを信じなかったのか」と主イエスから攻め込まれることは予想できました。また、ヨハネは多くの人々から預言者として認められていましたけれども、彼はサンヘドリンから権威を授かって働いていたわけではありません。このバプテスマのヨハネのみならず、ヨハネ以前の預言者の多くも任職式を執り行って正式に任命された人たちではありませんでした。ただ神から遣わされて、その言葉を告げ、教え、働いてきたのです。ですから、サンヘドリンから権威を授かったわけではないヨハネを「天から」と言えば、同じように主イエスのことも「天から」遣わされたことを認めなければならなくなります。さらに主イエスはヨハネよりも偉大なお方とされていた方なのです。ヨハネの天からの権威を認めながら、主イエスの天からの権威を認めないとなれば、おかしいではないかと追求されるということです。一方、「人からのもの」と答えれば、ヨハネを預言者だと信じている群衆を敵に回すことになります。彼らはヨハネを受け入れず、無視してきました。神殿の祭儀によらず、民の指導者である彼らにも従わないヨハネを目障りだと思ってきました。ですから彼らはヨハネの洗礼は天からではなく、人からのものだと思っていたのです。人間が勝手にしていることだと思っていたということです。しかし、多くの民はそうは思っていませんでした。彼らはヨハネを神から遣わされたまことの預言者だと信じて、ヨハネの元に行き、洗礼を受けていました。さらにはヘロデ王を非難して投獄されて、獄中で首を斬られて死んだヨハネのことを、権力に屈することなく正しいことをした殉教した預言者として尊敬していたのです。そのような人々の前で、ヨハネの洗礼は人からのもの、神からのものではない」と言えば、群衆の反発や怒りによって、神に逆らう者たちとして糾弾されるかもしれない。彼らはそれを恐れました。そして出した答えは、「分からない」であります。「分からない」という彼らの答えに、主イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」とお答えになりました。そもそも彼らがこのような問いを主イエスに仕掛けたのは、主イエスに対する怒りからでありますが、この問いによって主イエスを罠にかけようと思ったからでありました。主イエスが「神の権威によってこれらのことをしている」と答えたならば、ただの人間が神の権威を持っているなどと言うことは神への冒涜だとして捕えようと考えていました。また、もし、自分の権威によってしていると言ったならば、救い主として期待している人々を失望させることができると思ったのです。この祭司長・長老たちの問いと主イエスからの問いかけからわかることというのは、問いを投げかけた者は、自分も問われているということです。つまり、神からの権威であれば、それに従い、そうでないならばそれを拒むというはっきりした答え、態度が求められています。しかし、彼らが出した答えは「分からない」、それは自分たちの立場を守り、事柄を曖昧にするための答えです。「わからない」のではなく、結論を出したくない、という逃げであります。彼らは神の権威に従うつもりもなく、そしてまた、人からの権威も拒むことなく曖昧に過ごしているということです。

 

■悔い改めなさい

実は、私たちも主イエスに出会う前はそうであったのではないでしょうか。日本で生まれた多くの日本人は、神はただお一人ではなくあちらこちらにあり、神社やお寺に行けば手を合わせ、結婚式はキリスト教式が良いかな、などと混ぜこぜにすることに違和感を覚えず過ごしていた人は多かったし、今も多いことでしょう。しかし、主イエスと出会い、聖霊の働きかけにより、主イエスを救い主であると告白する。それは主イエスからの招き、問いかけに対して、はっきりと答えることであり、そしてそれによって新しくされる、変えられることを受け入れるということを経験しているのではないでしょうか。それが私たちに与えられた信仰であり、主イエスの権威を受け入れるということです。本当に権威あるお方に出会い、私たちはその権威に従う者へと変えられるということです。さらに主イエスはここでヨハネの洗礼について問われました。ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めて神に立ち帰りなさいと告げました。ヨハネが授けていた洗礼は悔い改めのしるしでありました。そのヨハネの洗礼は天からか、人からか、と問われました。つまり、このことが意味することとは、自分が悔い改めなければならない罪人であることを認めるのか、認めないのか、という問いであります。これは私たちにも問われている問いでありましょう。彼らは「分からない」と答えました。これは曖昧な答えのようですが、答えることを拒否している表現です。つまり、自分は罪人だと思っていないということです。彼らは、自分は罪人ではなく、自分は正しい。よって悔い改める必要もない。そのように思っていたことがここで明らかになっています。エレミヤ書17章9節に「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」という神の言葉があるように、人間の罪は、神から問われないと気づかないのです。人間はその罪深さに気づかず、まるで医者から病気を指摘されるまで気づかないのと似ています。主イエスは丈夫な人のためではなく、病人のためにこの世にいらしたのです。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と荒れ野で宣べ伝えました。また、主イエスも同じように「悔い改めよ、天の国は近づいた。」のお言葉からガリラヤでの宣教をお始めになられました。今日、与えられた聖書箇所23節にも「イエスが神殿の境内に入って教えておられると」とありますけれども、主イエスが人々に教えておられたのは、このことでありましょう。「罪を認め、悔い改めなさい。」この主イエスの御言葉を受け入れるかどうか、が私たちにも問われています。

 

■結び

主イエスはこのように権威あるお方として、御言葉を語られました。主イエスは私たちの罪を指摘して、私たちに悔い改めを求めておられますけれども、同時に主イエスがお持ちの権威は罪を赦す権威でもあります。それはマタイ9章で主イエスが中風の人に対して「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、そして「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい。」とその人を癒し、罪を赦す権威を示された通りです。私たちは誰一人として神の前に堂々と立つことができない、罪に満ちた、惨めな者たちでありますけれども、そのような私たちのために、主イエスが神の裁きを受け、人々の晒し者とされて、人間の権威の前に罵られ、嘲られて、惨めな者とされて、十字架で死を引き受けてくださいました。主イエスがエルサレムに来られたのはそのためでした。「あなたの罪も咎も、恥も、恐れも、全て私が引き受けた。」主イエスはそのように言ってくださるお方なのです。私たちはこの方の権威によって生かされています。この方の天からの権威、まことの権威が私たちを繋ぎ止めていてくださっています。私たちは自分の納得のゆく答えを求めがちで、そうであれば信じるという自分勝手な者たちでありますけれども、そのように問う者から、主イエスから問われている者であることに気づき、このお方を信頼の眼差しで見つめ続けたいと思います。

 
 
 

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