『礼服を身にまとい』 2026年8月9日
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説教題: 『礼服を身にまとい』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書61:10―11
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書22:1-14
説教日: 2026年8月9日・聖霊降臨節第12主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主イエスの受難週の出来事から聞いております。21章で主イエスは神殿の宮清めをなさった後、そのことに対して怒り心頭に達している祭司長、民の長老たちが主イエスに挑んできました。何の権威を持ってこのようなことをするのかと問いでありました。主イエスはそれに対して洗礼者ヨハネは神からのものであったか、人からのものであったか、と問いで返され、そしてその後、譬えで彼らに語られました。それが21章28節からの「二人の息子」のたとえ、「ぶどう園と農夫」のたとえでした。二人の息子の譬えで、兄は行きたくないと言いましが思い直して出かけていく。一方の弟は行きますと言ったものの行かなかったと言う話でした。ここでは、本来、イスラエルの兄として人々を導くはずの彼らが、弟のように中身のない信仰であることに気づいて欲しいと思っておられたことがわかります。そして33節から「もう一つのたとえを聞きなさい」と言って語られたのが、ぶどう園の主人が自分の息子をぶどう園に送るけれども、農夫たちによって殺されてしまうという話です。神が送った独り子である主イエスがこれから経験されることであります。ここまで主イエスがお話になって、祭司長、長老たちは、これは自分たちのことが言われている、と気づきますけれども、群衆を恐れ、人々の目を気にして、彼らは主イエスを捕えることはできませんでした。しかし、彼らの心の中は、主イエスに対する憎しみ、怒りで煮えくりかえっていました。そしてそのような彼らに、主イエスは3つ目の譬えを彼らに語られます。それが今日、与えられた「婚宴」の譬えであります。
■誰もこない婚宴
最初の譬えも2番目の譬えも、天の国という言葉は使われていませんけれども、天の国、神のご支配について語ってこられました。なんとかして人々を天の御国に招きたいのです。実際、主イエスのこの地上での活動は人々を天の国に招くためのものでした。今日の第3部において、主イエスは「天の国はある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」と言って語り始められました。王は婚宴に招待した客を呼ぶために家来たちを遣わしました。しかし、人々は来ませんでした。さらなる家来たちを送り、食事の用意ができていることを伝え、牛や肥えた家畜を屠って全ての用意が整っているゆえに、この婚宴においでください、と言うのです。しかし、招待された人々の反応は芳しくなくて、畑に出て行って働く者、商売に出ていく者もありました。婚宴には全く関心がなく、自分の仕事に忙しかったのです。それどころか、王の家来を捕まえて乱暴し、殺してしまいました。招待を断るだけでなく、殺してしまったのです。これは前回、共に聴きましたぶどう園の農夫の譬えと繋がっています。ぶどう園では主人の送った僕、息子が殺されました。同じように王が遣わした家来たちが殺されてしまったのです。ここまで聞いて彼ら、祭司長、長老たちは、自分たちのことを言われていると気づいたでありましょう。さて、王はどうしたか、といえば、7節にこうあります、「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」王の怒りは凄まじく、とても激しいものでありました。王が披露宴の準備を整え、招待したのに、誰もこず、そして使者たちは殺されたのです。その怒りとそして悲しみは計り知れないものがあります。
■呼び集められた人たち
この婚宴に最初に招かれていた人たちとは誰なのか、といえば、それはイスラエルの民でありましょう。かつて神が選び、アブラハムにその永遠の祝福を約束したように、神と共にあって、神と共に喜びを分かち合うのはイスラエルの民なのです。しかし、彼らは本来、選ばれていたはずなのに、反応しませんでした。彼らは神からの招待状を無視し、その恵みを忘れました。私たちも神との交わりよりも、この世の成功を求めてしまうような姿勢があるかもしれないことを心に留めなければなりません。畑に商売に出かけたという言葉はそうしたことへの警告でありましょう。この時、神から招待状を受け取り、招かれていたイスラエルの民は、主イエスを拒み、そしてこの後、主イエスを捕らえ十字架につけることになるのです。
そして王は8節にあるように家来たちに言います。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」家来たちはその言葉に従い、通りに出て行って、出会った人たちに声をかけて、善人も悪人も集めてきました。婚宴はそれらの客でいっぱいになりました。ここで浮かんできます光景は主イエスの十字架、復活ののち、聖霊の働きによって弟子たちが出て行って、全世界へと神の喜びの知らせが告げられ、神のもとに集められるようになった、その伝道の御業と重なります。この譬え話では「善人も悪人も集められた」とあります。面白いことに原文では。悪人も善人もというように、悪人が先に記されています。「悪人」というと、犯罪者や何か具体的に悪いことをしている人、というように思い、自分は善人か悪人か、と自問した時に、悪人と言われるほど悪いことはしていない、どちらかといえば善人の部類かもというように思うかもしれません。しかし、ここで使われている言葉は、人間の根本的な罪と深い関わりを持つ言葉です。神に背く悪であるのと同時に、そこから引き起こされる具体的な悪意などを指しています。そういう意味においては、義人なし、一人だになし、とロマ書でパウロが語ったように、私たち人間すべてを指しているということです。しかしながら、旧約の民はそのようには考えていませんでした。この時代における悪人とは、当時の社会で罪人とみなされていた人々、徴税人や娼婦たちも含まれていたでしょう。主イエスはそのような人々を招き、共に食事をし、話を聞き、そして救いへと導かれたのです。婚宴が客でいっぱいになったというのは、そうしたすべての人が神のもとに区別をつけずに集められたということです。
■集まった人々の中に
さて、たくさんの客が集められました。そして王は客人たちを見にきました。すると、「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」とあります。礼服は王がすべて用意していたのでありましょう。今でいうところの結婚式場の貸衣装です。街の中にいた人たちが呼び集められたのですから礼服など持っているはずはありません。この婚宴に呼ばれてきた途端に、さあさあ着替えて、という具合です。しかし、それにも関わらず、その人は着ていなかった。王は尋ねます、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか。」例えば、創世記41章41節にはエジプトの王ファラオがヨセフに亜麻布の衣服を着せた、とありますし、45章ではエジプトの宮廷の責任者となったヨセフが、兄たちと再開したのち、ヨセフは兄たち全員に晴れ着を与えました。有名なルカ15章の放蕩息子においても、父が帰ってきた息子に「一番よい服を着せなさい」と命じています。このように、王の催す祝宴に招かれた者には、王の側が晴れ着、礼服が用意されて着せられるのです。晴れ着や礼服は単に外見を美しく整えるだけではなく、神の喜びと救いを象徴しています。
■追い出された人
そして王は側近の者たちに命じます。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」こうしてこの人はせっかく婚宴の席に招かれていたにも関わらず、外に放り出されてしまいました。それまで着ていた服、それは罪を象徴する汚れた衣でした。その服から礼服、晴れ着に着替えるということは、神によって罪が赦されて、本来に正しい関係へと回復させられることを意味しているのです。まさに今日、読んでいただいたイザヤ書61章10節にはそのことが示されています。「わたしは主によって大いに喜び、わたしの魂は我が神によって歓喜する。主はわたしに救いの衣を着せ、恵みの外套をまとわせてくださる。花婿が冠をかぶり、花嫁が宝飾品で身を飾るように。」私たちはキリストに招かれています。キリストに招かれ、その招きに応じるとき、私たちは神の恵みによって新しく変えられた生き方を与えられます。それはキリストを着ることです。ガラテヤの信徒への手紙3章27節でパウロはこう告げています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」キリストに結ばれた私たちは外見的には何か変化があったわけではないけれども、神の目から見れば、それは大きく変わっています。すでにその人は変えられており、キリストという衣を着た人になっているのです。キリストの衣、それは罪人であるにも関わらず、キリストの義の衣をまとい、神の前に義と認められるという神の大いなる恵みなのです。私たちはすでに婚宴に招かれ、神から礼服を与えられた者たちであります。自分が持っていた古い服に着替えることのないように、それを心に留めておく必要があります。
■招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない
今日の最後の箇所、14節に、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」とあります。私たち教会の者たちも様々な形で教会に人を招こうといたします。例えばオープンチャーチ、教会コンサート、特別伝道礼拝、クリスマスイヴ礼拝などなど、教会が開かれている場であり、どなたでも来てください、という伝道をするわけですけれども、一回は来てくださるけれども後につながらないとか、思っていたより人が集まらなかったとかでがっかりすることはあります。しかし、私たちががっかりする以上に神様はこの2千年以上の長きにわたり、主イエスを通して人を招いてこられたのです。直前の21章から主イエスが祭司長、長老たちに語った譬えも何のためであったのかといえば、彼らを神の国へと招くためでありました。彼らはとても頑なで、主イエスに殺意さえ覚えていました。主イエスの再三の招きにも応じようとはしませんでした。それにもかかわらず、主イエスは「あなたも招かれている」と熱心に呼びかけ続けてきたのです。今日の譬え話では、王である神が何度も人々を招く姿が描かれています。まずは招待状を送りました。次に家来たちを送って再度呼びかけました。それでも応じないので、別の家来たちを遣わして、婚宴の準備が整っていることを知らせました。そして最終的に家来たちを町の大通りに送り、見かけた人を招きました。神はそこまでして私たち人間を神の国へと招き続けてくださっているのです。天の国が婚宴に譬えられているのは、大いなる祝福がそこにあるからです。私たちもこの神の招きによる祝福を多くの方と分かち合いたいと思います。時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなさいとパウロが弟子のテモテに語ったこの御言葉の通り、キリストの恵みに与るすべての者への勧めの言葉として、天の国の祝福を伝えたいと思います。
■結び
神の救いの招きは全ての人に開かれています。それは特定の人だけのものではありません。しかし、招きに応じるには自分が今まで着ていた古い服を脱ぎ捨てて、神が用意してくださったキリストという礼服を着なければなりません。礼服はキリストの十字架による罪の赦しを身にまとうことであり、キリストと共に生きるということです。礼服は私たちが自分の力で着飾るのではなく、神が用意して与えてくださる最高の贈り物です。それは救いであり、喜びです。罪の汚れのときが終わり、神との喜びの交わりが始まるためのしるしなのです。そして私たちは毎月、聖餐に与り、神が与え続けてくださっている恵みを味わいます。それは神が私たちを招いてくださっている喜びの婚宴そのものです。兄弟姉妹、共にキリストという礼服を身にまとい、招きに応えて歩み続けたいと思います。
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