『逆転の恵み』2026年8月2日
- 8月3日
- 読了時間: 9分
説教題: 『逆転の恵み』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編118編22-25節
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書21:33-45
説教日: 2026年8月2日・聖霊降臨節第11主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主イエスが祭司長や民の長老たちに語られた譬えの2つ目の御言葉から聴きます。主イエスはこの21章で彼らに対して問いを投げかけられました。最初の問いが、25節「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」でした。そして二つ目が31節「どちらが父親の望みどおりにしたか」です。そして今日の箇所では40節「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」彼らは答えます、41節です、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺すにちがいない。」主イエスから問いを投げかけられた祭司長、そして民の律法学者たちは、譬え話に登場する農夫たちは悪人どもであり、そして死に値する罪を犯している者たちであるということを理解し、そしてここまで主イエスが語ってきた譬えが自分たちのことであるということがようやくわかりました。主イエスはこうして自分たちが罪人であり、殺されるに値する人間であるということを認めざるをえなくなるところまで、問い詰められるのであります。
■ぶどう園の譬え
今日の譬え話の設定は33節にありますように、「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」です。搾り場を作るということですから、収穫したぶどうは搾ってぶどう酒が作られました。ぶどうは旧約聖書、新約聖書を通じて一番登場する植物と言っても過言ではありません。創世記9章ではノアが大洪水の後、農夫となりぶどう畑を作ったことが記されていますし、主イエスが最初に行われた奇跡はヨハネ2章のカナの婚礼において、水をぶどう酒に変えたというものでした。預言書でもイザヤ書5章では神がぶどう畑の持ち主、イスラエルの民がぶどうの木に譬えられ、ミカ書4章ではぶどうの木が平和の象徴として語られています。それ以外にも「ぶどう」について語られた箇所を挙げれば際限なくあります。このようにぶどうは、神を、神の祝福を、神の国を語るのにふさわしい植物であります。今日の譬えでは、ぶどう園の主人は、ぶどうの収穫のために、動物などが入れないように垣を巡らすなど、万全の環境、設備を整えて農夫たちに貸し出して旅に出ました。ぶどう園の主人が神を指し、ぶどう園はイスラエル、イスラエルの民、そして主人からぶどう園を任された農夫たちがイスラエルの指導者である祭司長や長老たちであることは明らかです。
収穫の時が近づいて、主人は収穫を受け取るために僕たちを農夫たちのところに送りました。このぶどう園は主人が所有者でありますから、当然のことであります。しかし、農夫たちがしたことは、一人を袋だたきにし、一人を殺し、そしてもう一人を石で打ち殺しました。最初の僕たちがそのようにされてしまったのですけれども、主人はさらに僕たちを前よりも多く送りました。それでもまた同じことが起こりました。農夫たちは再び送られてきた僕たちを殺してしまうのです。そしてついに、送ったのが僕たちだったから殺されてしまったのだ。私の息子ならば、敬ってくれるだろうと言って息子を送りました。しかし、農夫たちは、跡取りを殺せば、土地も収穫物も全て自分たちのものになるから殺してしまおうと考えて、殺してしまったのです。さてぶどう園の主人が帰ってきた時に、この農夫たちをどうするか、主イエスはそのように問われました。
さて、これは譬え話でありますから、実際にはありえない話と言えましょう。まず、主人が自分の部下を送って、次から次へと殺されているのに、さらに送るというのはありえないことでしょう。腹をたてるのが当たり前であり、この点でもう常識から外れています。そしてさらには、主人の息子がやってきた時、農夫たちはこれを殺したら、自分たちのものになると考えたというのも、軽薄な考えでありましょう。もしも殺して自分のものにしたいと思ったのであれば、殺すべきは主人である父親でありましょう。息子を殺しただけでは、父親の怒りを招くだけのことです。このように非常識で愚かなこと、誰でもがわかる愚かな話を主イエスはなさった。この農夫たちのしていることがいかに愚かなことであるか、ということを示すためであります。そしてどうするか、ということに対する答えはこうでした「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」ぶどう園の持ち主である主人は生きているのですから、このままで済むはずはありません。この極悪非道な農夫たちは必ず滅ぼされて、ぶどう園は別のまともな農夫たちに委ねられていく、これは極めて誰もが認めるまっとうな答えであります。常識的に考えても当然と言えます。そのことを確認した上で、主イエスは祭司長、長老たちにこう言われました。43節です、「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」ここまで言われて、彼らはこの話の農夫が自分たちのことを指しているということに気づきました。彼らは自分たち自身で自分たちに殺されるべきだという判決を下したのでした。気付いた彼らは怒りでいっぱいになり、主イエスを捕えたいと思いましたが、群衆を恐れるあまり、何もできませんでした。
■自分のものに
この譬え話は、イスラエルの指導者として神から託されたものの、神が遣わした主イエスを受け入れようとせず、むしろ殺そうと考えていた祭司長、長老たちに対しての、痛烈なメッセージです。祭司長や長老たちは神から神の民であるイスラエルの民を託されました。本来であれば、彼らの指導によって、イスラエルの民は神の国へと導かれるべきであったのです。しかし、祭司長や長老たちは神を受け入れなかった。それゆえに神の国へ入ることはできず、神の国はそれにふさわしい実を結ぶ民に与えられると主イエスは言われたのであります。さてこうしてこの時代の祭司長、長老たちの罪が明らかになりましたけれども、本来、このぶどう園というのは神がお造りになったこの世界のことでありますから、現代の私たちが生きる世界のことでもあります。創世記1章にありますように、神はこの世界すべてを整えられ、極めてよいものにお造りになられました。そして人間をそれらの管理者としておまかせになりました。しかし、アダムとエバの罪に始まり、自分たちの思う通りに生きたいと思う人間の罪は、私たちにまで脈々と続いています。この体、この命、何一つとして自ら得たものはありません。全て神が与えてくださったものであり、神が与えてくださった命を、神が備え、整えてくださった場所で生きているのです。それは才能や、環境全てであります。確かに私たちはそれぞれ与えられた環境において、努力はいたしますし、それによる成果も見ることはできるでありましょう。今日の譬え話に登場した農夫たちだって、収穫を得るために一生懸命に働いたのは事実でしょう。しかし、元をただせば、それは主人がぶどう園を整えて、そこに迎え入れてくれたからであります。であれば、私たちとて、私たちの生きるなかで得られた収穫、実りは自分自身のものではなく、主人である父なる神にお返しする、お捧げしなければならないのではないでしょうか。まずは自分の命、人生、生活、全てが神から与えられたものであるということをわきまえる、自覚し、感謝するということが大切なのではないでしょうか。彼らはそのように思うどころか、このぶどう園が主人のものであることを認めず、自分のものにしようと考えた、それゆえに、僕を殺し、果ては主人の息子まで殺したのです。
■神として敬う
主人は息子を送る時に、こう言っています「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」主人が求めていることは、収穫の取り立てではなくて、主人に感謝し、主人と息子を敬うことであります。主人である父なる神が人との間に求めておられることは、この命、この全てのものが神からのものであるということに対する感謝と、神を敬い、神に従い、神を愛するという正しい関係なのです。しかし、人間は自分の人生は自分のものであり、神に何の関係があるかと思いながら生きています。いみじくも、祭司長や長老たちが言ったように、ひどい目に遭わせて殺されるべきは人間でありましたけれども、神の思いは異なりました。殺されるとわかっている僕を送り続け、果てはその息子までも送ったのです。殺されることが目に見えていながら、わかっていながら、大切な息子を送ったのです。それが主イエスです。私たちがすんなりと主人は神であると認め、信じ、敬うことをしない、それがわかっておられるのに、神は主イエスをこの地に送られ、十字架につけるために送られました。主イエスはそのような父なる神の御心を受け止めてこの地を歩まれました。神がその関係の回復のために送ってくださった息子である主イエスを人間は今に至るまで殺し続けているということです。神が人間のために用意された道、主イエスの十字架と復活の出来事は今日の42節に示されています。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
■隅の親石
この御言葉は旧約聖書詩編118編からの引用です。この詩が書かれた時代、旧約の時代に当てはめて考えてみますと、「家を建てる者」とは当時の歴史を動かしていた大国、エジプトやアッシリア、バビロニアなどを指すと言えましょう。彼らは自分たちの力で大きな家を建てようとしていました。そして「捨てた石」はイスラエル、ユダヤ民族であります。イスラエルは小さく、弱く、使い道のない、価値のない石として見下されて、踏み躙られていたのです。周囲の大国にそのように揺さぶられながらも、国の中では祭司長、長老、律法学者たちが力を奮い、神の僕である預言者たちを迫害し、そしてその命までも奪ってきました。「家を建てる者」は祭司長、律法学者、長老たち、本来、神殿を建てあげる責任を持っていた人々。そして「捨てた石」とは主イエス・キリスト。彼らは主イエスを救い主とは認めず、価値なきものとして十字架につけて殺してしまうのです。しかし、神は人間に捨てられた主イエスを死から復活させて、全ての人間の救いの基、さらに神の教会を支える最も重要な土台、要石、親石とされたのです。このこと、「捨てられた石が要石である」ということは、使徒言行録4章11節においてペトロが力強く、主イエスの十字架と復活を証言するものとして引用されています。主イエスの死は、神の救いの計画を進めるための要石なのです。そしてこの御言葉を主イエスご自身が引用して、祭司長たちに聞いて聞かせました。
■結び
人間の犯した最悪の拒絶、主イエスの十字架を、神は全ての人の救いという最高の御業へと逆転されました。これは私たち人間の目には不思議なこと、考えられないこと、驚くべきことであります。しかし、神の全能の御力によって、また、私たち人間への限りない愛ゆえに、その救いの御業を実現してくださいました。主イエス・キリストという隅の親石のもとに建てられている神の家、教会に家族として招き入れ、その一員として神は養い続けてくださいます。私たち一人一人を主イエスが土台となりお支えくださっている、そのことに心から感謝し、神の恵みをしっかりと受け取り、神のための働き人として今日も明日も歩んでまいりたいと思います。
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