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『闇から光へ』 2024年8月25日

説教題: 『闇から光へ』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書8:23b-9:6

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書4:12-17

説教日: 2024年8月25日・聖霊降臨節第15主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

今日の箇所の小見出しには「ガリラヤで伝道を始める」と書かれています。このマタイ福音書は主イエスの誕生に始まり、そしてその後に洗礼者ヨハネのことが記されていました。

ヨハネは主イエスのための道を備える者として登場し、そのヨハネの元にいらした主イエスはヨルダン川で洗礼をお受けになり、その後、主イエスは荒れ野で誘惑をお受けになりました。そして今日の箇所へとつながっています。主イエスの公生涯、つまり、公に伝道活動を行われ、さまざまなことをお語りになり、癒しの御業をなされ、そして十字架へ。この主イエスの公生涯が今日の箇所から始まることになります。

 

■ヨハネから主イエスへ

今日の始まり12節にはこのように記されています。「イエスは、ヨハネが捕えられたと聞き、ガリラヤへ退かれた。」ヨハネが捕えられた、その顛末については、このマタイ福音書では14章に記されています。領主ヘロデ・アンティパスが兄弟フィリポの妻、ヘロディアと結婚したことを非難したことからヨハネは捕らえられたのでありました。そのことをお聞きになった主イエスは「ガリラヤへ退いた」とあります。「退く」と言いますと、身を隠すとか離れるというような意味に聞こえますが、そのガリラヤ地方を治めていましたのが領主ヘロデ・アンティパスでありますから、むしろ、敵地に乗り込む、というような意味になります。何か矛盾するようですが、ここで「退く」として使われている言葉ですが、すでにこのマタイの2章において2回使われています。2章14節、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」の「去る」という言葉、そして、22節後半、「ところが夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり」の「引きこもり」、訳は異なりますが同じ言葉が使われています。いずれも神からのお告げに従って「動いた」ことを示す言葉として使われているのです。ですから、この「退いた」という言葉も、主イエスがいらしたところから、神の意志に従って移られた、という意味として見ることができるでしょう。さらに言えば、このヨセフの取った行動は全て神の御手に委ねることでありました。神の御翼のうちに置かれることでありました。主イエスは常にご自身を神の御手に委ねておられました。ですから、この言葉が使われる背景にはそのような意味も込められていて、マタイははっきりと意識して使った言葉であろうと思います。

また、ヨハネが「捕えられた」というこの単語もとても重要な単語です。「引き渡される」とも訳される言葉です。「引き渡される」と聞いただけで主イエスと結びつく方もあることでしょう。主イエスがご自身の受難を予告される時、マタイ20章18節「今、わたしたちはエルサレムへのぼっていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。」主イエスの十字架を指し示す単語であります。ヨハネがヘロデの手に引き渡され、そしてやがては主イエスが十字架へと引き渡される。今日の箇所の始まりには、ヨハネから主イエスへ、そして主イエスの十字架の始まり、そのことがここに示されているのです。

 

■ナザレを捨てて

続く13節はこうあります。「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」いくつかの地名が出てまいりました。聖書巻末の地図を見ながら、確認したいと思います。6.新約時代のパレスチナをお開きください。まず、主イエスがお生まれになったのは、ベツレヘムでした。地図の下の方、死海の西側、エルサレムの南側にベツレヘムがあります。そして、主のお告げに従って父ヨセフは生まれたばかりの主イエスを連れてエジプトへと逃げたのでした。そしてヘロデ王の死後、再び主のお告げに従って、ガリラヤ地方のナザレに住みました。ナザレはヨルダン川を遡り北へ、ガリラヤ湖の西側にナザレという地名を見つけることができます。そしてそこで成長された主イエスですが、公生涯の始まりにあたり、「ナザレを離れ」られたのであります。この「離れ」は、単にナザレを出たというだけでなく、父・母・家族から離れ、という意味であり、弟子たちに家族を捨てて私に従いなさいと言われた主イエスご自身がそのようにされたのでありました。マタイ8:20の主イエスのお言葉「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」まさにナザレを、故郷を捨てた、もう帰るところはない、ということなのです。そしてガリラヤ湖畔のカファルナウムを拠点とされました。ゼブルンとナフタリと記されていますのは、旧約の時代、ヤコブの子供たちの12部族それぞれに嗣業の地が分配されました。巻末地図の3.カナンへの定住をみていただくとガリラヤ湖の西側にゼブルン、ナフタリと記されているのを見ることができます。さながら日本で言えば、山梨県を甲斐、長野県を信濃、愛知県を尾張、鹿児島県を薩摩、というような表記を使っているということです。マタイはこのような細かなところでも、旧約の時代のことを意識しているわけですが、さらに深い意味があります。先ほどイザヤ書8章23節の後半から読んでいただきましたが、その始まりのところに「ゼブルンの地、ナフタリの地」とありました。14節にありますように、「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」ということを明らかにしたいのであります。

 

■闇の中を歩む民

「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」とありました。そして、「異邦人のガリラヤは栄光を受ける」ともあります。イスラエルの歴史において、北イスラエルは大国に何度も攻め込まれました。最終的にはアッシリアによって滅ぼされました。そのことが辱めと表現されています。そして異邦人のガリラヤという表現が表すものは、蔑みであり、嘆きであり、苦しみであり、悲しみでありました。そのような暗黒が光を得る、慰めを得る、栄光へと変わるとイザヤ書9章以下に記され、それをマタイがこの箇所で引用しているのです。クリスマスの時、私たちはこの1節から5節をよく読むのではないでしょうか。「1節:闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。5節:ひとりのみどりごが私たちのために与えられた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。」このひとりの男の子が主イエスのお誕生であり、闇を照らす光であるということをこのイザヤ書は預言しているのです。主イエスがガリラヤで伝道を始めるその時に、このイザヤの預言は実現した、とマタイは語るのです。大国アッシリアに攻め入られ、混沌とした生活を強いられた北イスラエルの人々、貧困に喘ぎ、さまざまな圧迫を受けていた人々、彼らは闇の中を歩む民でありました。光が見えず、希望のない生活でした。イザヤの預言からおよそ700年ののち、主イエスが伝道を開始するこのガリラヤにおいて、この預言は実現したとマタイは語ります。

 

■「そのときから」

今日の最後、17節は「そのときから」とあります。12節からの繋がりで読みませば、ヨハネが捕えられたとき、と言う意味に読むことができますけれども、それよりも神のご計画のうちに定められたとき、と言うことができるでしょう。私たちの歴史の時間は一秒一秒、休むことなく進んでいきます。それは戻ることなく、続いていきます。そのような時間をギリシア語ではクロノスと言います。クロノスといえば、時計メーカーにありますように、時計やカレンダーで測ることのできる時間、時を刻んでいくその様をそのまま表しています。これはどのような人にも平等に与えられているものでありましょう。それに対してカイロスというのは、そのような歴史の時間の流れの中で、人に訪れる「時」、機が熟す「時」など、過去、現在、未来というクロノスにとらわれない神の次元の「時」、神が介入される「時」のことです。クロノスという時計で測ることのできる時間は横軸、水平に進んでいきますが、カイロスという神の介入はその水平軸に垂直に断ち切るものであるといえます。マルコによる福音書1:15では「時は満ち、神の国は近づいた。」と主イエスが言われたことが記されていますが、まさにこの「時は満ち」の「時」はカイロスであります。マタイ福音書では、それが「このときから」と記されているということです。聖書では、この神が垂直に断ち切る時間、その意味を語り続けていると言えましょう。時間はすべての人に等しく与えられていますけれども、その時間の質は一人一人異なるのではないでしょうか。例えば、教会において洗礼式が行われます。◯月◯日というように流れていく時間、クロノスの中で行われるわけですが、その日、その時、洗礼をお受けになる方にとっては、それはクロノスという時間軸の中に神さまが介入してくださる特別な時、カイロスなのです。これは一つの例ですけれども、このようにクロノスという時間軸を生きながら、神が関わってくださるカイロスの時を大切にしたいと思うのです。

 

■天の国は近づいた

さて、そうして神のご計画の時の始まりに、主イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という伝道の第一声を発せられたのです。ここで主イエスが言われたことは、天の国は近づいた、という宣言です。悔い改めたら、天の国は近づいてきますよ、という勧めではありません。この「天の国」とはどういうものでしょうか?マルコ福音書では神の国、と表現されています。このマタイ福音書はユダヤ人に向けて書かれたものであると申し上げました。ですから、彼らはモーセの十戒にありますように、「神の名をみだりに唱えてはならない」この戒律を守り、「神」という名を畏れ多く思い、あまり口にすることはありませんでした。ですから、神の代わりに天という言葉を用いたのです。神の支配、神の働きが、この世において始まっている。それは私がこの地に来たからである。主イエスはこのように宣言されたのでありました。

「悔い改めよ」ヨハネによっても告げられたこの言葉は、単に今までの過去を振り返って後悔したり、嘆くことではありません。何か努力して罪を犯さないようにすることでもありません。悔い改めと訳される言葉は、自分の思いの向きを変えるということであり、神の方に方向転換するということです。暗闇に向いていた心を神の支配の方へ、光の方を向きなさい、ということです。私たちは誰もが自分の心に闇の部分を持っています。それは人には見せられない部分であり、そして触れられたくない部分であります。しかし、神と向き合う時、私たちは一人一人、神の光の中に立つのです。その時、自らの罪もあらわにされます。この光は温かく、そして頑なな私たちの心の扉を開きます。自らの罪に向き合うとき、私たちはそのような私をも神が愛してくださっていることを知ります。神がこの「私」のために、この「私」を恵みのもとに置くために、主イエスを人としてお遣わしくださったのだと気づくのです。その時、私たちは今まで抱え込むようにして隠していた罪を神は見ておられ、そして「よし」とされたことを知ります。これは私たちの努力によって得られるものではありません。ただ神を呼び求め、祈ることから、神が触れてくださることから始まるのです。それはこの主イエスが言われた「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この言葉に触れることから始まるのです。

 

■結び

闇から、光へ。うずくまっている自分から、立ち上がる自分へ。神の存在を知るために、心の向きを変える。神は光の中におられます、いえ、光そのものである神の存在を知るために、私たちが神と出会うために、主イエスは人となり、そして光としてきてくださり、私たちの救いへの道を鮮やかに示してくださったのであります。私たちはそうして神の光の中に置かれ、平安を得る。神の前では何も隠されることなく、そしてその全てを知っておられる方がある。それは何にも変え難い安心であり、それは大いなる恵みなのです。そのように恵みのうち、光のうちを歩むことを許されている私たちなのです。心からの感謝を持って、御心に適った歩みを続けさせていただくことを祈り願います。

 

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