説教題: 『開かれる目』
聖書箇所: マルコによる福音書 8章22~26節
説教日: 2023年1月29日・降誕節第六主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「その時、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」イザヤ書35章5節の御言葉です。前々回、マルコ7章31節以降の箇所で、主イエスは耳が聞こえず舌の回らない人を癒されました。耳の聞こえない人です。そして今回は目の見えない人が癒される、という出来事が記されています。今、イザヤ書をお読みしました。このみ言葉は、主イエスの到来によってこの預言が成就したことを指し示しています。
耳の聞こえない人と今日の目の見えない人の出来事を挟むように、四千人の人々が5つのパンで満たされた出来事が記されていました。その中に主イエスのお言葉としてこうありました。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」弟子たちは主イエスによって示されている恵みを理解できませんでした。主イエスがまことの救い主であること、主イエスが神の子であることを理解していませんでした。メシアの秘密、それは主イエスが「神の子であられる」ということであります。主イエスはこのような癒し、奇跡を通してそのことをお示しになられましたが、弟子たちは目があっても見えず、耳があっても聞こえなかったのです。主イエスは弟子たちの目の前で、耳の聞こえない人を癒され、そしてまた弟子たちの目の前で目の見えない人を癒されます。
■愛の口づけ
7章に登場いたしました耳の聞こえない人と今回の目の見えない人の出来事には多くの共通点があります。どちらも周囲の人々が主イエスの元に連れてきました。そして手を置いてくださるように、触れてくださるように願います。主イエスはどちらもその人とだけ向き合われます。そして一番、特徴的な事柄は、主イエスがご自分の唾をその舌に、その目につけられるのです。
私たちも包丁などを使っていて、ちょっと指をかすってしまって切ってしまったときや、転んで膝小僧を擦りむいた時など、まずは唾をつけておく、そんな経験はどなたでもおありなのではないかと思います。実際に唾液には傷の治りを早くしてくれる働きがあるそうです。動物を見るとよくわかります。犬や猫などはケガをしたところをしきりに舐めて治していきます。自然の理にかなっていると言えるのでしょう。しかし私がここで申し上げたいのは、そういうことではなくて、主イエスの癒しというのは、愛の行為、愛の奇跡だということです。人は主イエスの愛に触れて癒されます。ですから、主イエスがこの耳の聞こえない人、目の見えない人にご自分の唾をつけられたのは、主イエスの愛の表現、主イエスの愛の口づけのように思えてならないのです。
■ベトサイダ
この盲人は人々によって主イエスの前に連れて来られました。場所はベトサイダです。そして主イエスに触れていただきたいと願ったのです。この人は目が不自由なわけですから、ひとりで来ることはできなかったでしょう。誰かの助けを借りないと主イエスの前に来ることはできないからです。さて「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し」たと聖書は記しています。主イエスは連れて来られたその人を、その場で癒されるのではなく、わざわざ村の外という別の場所で癒されようとなさいました。耳の聞こえない人を群衆の中から引き離したように、人々から離れその人とだけ向き合おうとされたというような意味はあるでしょう。しかし、単に一対一になるというだけならば、人々から少し離れて、というようなこともできたはずです。目の見えない人にとって、歩くということは簡単なことではないのです。主イエスはどうして、人々のいる場で癒すことをなさらなかったのでしょうか。「村の外へ」連れ出されたのでしょうか。それはこの地、ベトサイダに関係があります。ベトサイダはガリラヤ湖に面した場所です。どのような村だったのでしょうか。マタイによる福音書11章にこの地のことが出てまいります。11章20節以下です。それは悔い改めなかった町の一つとして、主イエスがお叱りになったお言葉に出て来るのです。お読みします。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりもまだ軽い罪で済む。」このベトサイダで奇跡がなされ、恵みがもたらされたにもかかわらず、人々は悔い改めなかった。ティルスやシドンという異邦人の地のほうが悔い改めた、と主イエスは言われました。このベトサイダの人々は、前回のところでファリサイ派が「しるし」を求めたように、自分たちの納得のいくしるし、証拠を求めたのです。ですから、目の見えない人を連れてきた村の人々は、自分たちの目の前でこの人が見えるようになることを求めたのでした。主イエスを試そうとしたのです。それゆえに、主イエスはこの人が見えるようになった後、この人に向かって言われました。「この村に入ってはいけない。」しるしを求める人々の手段として連れて来られたこの盲人を連れて村を出られ、癒しの御業をなさって、そしてそのままその人を家へ帰されたのです。主イエスがこの盲人をわざわざ村から連れ出して、そして癒しの御業をなされたのは、この村の人々には癒しの御業をお見せにならないためでありました。
■目を開かれる主
主イエスは連れ出した盲人の目にご自分の唾をつけて、そして両手をその人の上に置かれました。そして「何か見えるか」とお尋ねになったのです。その人の目が開かれたかどうか、主イエスは確認なさいました。盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」盲人がそのように申しますと、主イエスはもう一度両手をその目に当てられました。まさに手当であります。ここにも主イエスの愛が示されます。じっと、そっと、そしてしっかりと置かれた手からは主イエスのぬくもり、いえ、ぬくもりというよりも、主イエスの体温、主イエスの身体を流れる血が感じられたことでしょう。主イエスはこうしてその盲人の苦しみに寄り添い、人の痛みに寄り添い、その人と一体となり、その人の苦しみをご自身に受けられて、人々を癒してこられたのです。
このはじめのとき、盲人は「見えるようになって」と申しました。この言葉は、実は主イエスが耳の聞こえない人をお癒しになられた7章34節の「天を仰いで深く息をつき」という言葉の「天を仰いで」という言葉であります。また、五千人に食べ物をお与えになった6章41節で「天を仰いで賛美の祈りを唱え」の「天を仰いで」と同じ言葉です。この「天を仰いで」は父なる神に向かっての祈りであります。6章、7章では主イエスが天を仰いで祈られましたが、この8章の盲人は自らが天を仰いで祈ったのです。
私達も目の手術をなさった方が目に包帯を巻かれ、それをくるくると取って、そしてお医者様が、さあ、ゆっくりと目を開けてください、何か見えますか、というようなシーンを想像することはできます。今まで目を開けていても何も見えなかった暗闇の世界から、ゆっくりと瞼を開けると明るさが目に入ってくる、何かが見えてくる、喜びと共に恐ろしくもあります。とても勇気のいることです。この盲人も、今まで何も見えなかった世界が変わろうとしているのです。恐ろしくないはずがありません。主イエスはその人の上に手を置かれ、そして「何か見えるか」とお尋ねになりました。主イエスの手とそしてそのお言葉は、主イエスの励ましです。その手、主の支えとお言葉に力をいただいて、まさに背中を押されるような思いで目を開けました。すると、良く見えてきて癒され、何でもはっきりと見えるようになったのです。
■主によって開かれる目
私達もこの盲人と同じように、主イエスのお力と支えがなければ、目の見えない者たちです。私たちはこの世の現実を生きる中で、私達を本当に支えてくれているものが何であるか、見えているでしょうか。列王記下6章8節以下に預言者エリシャがアラムの軍勢に包囲された時のことが書かれております。エリシャの従者、召使いは自分たちを包囲している敵の多さにおののきます。朝早く起きてみたら、軍馬や戦車を持った敵の軍隊が町を包囲していたのです。従者、召使いはエリシャに言います。「ああ、ご主人よ、どうすればいいのですか。」エリシャは言います。『「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の車と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。』預言者エリシャの祈りによって目の開かれた従者が見たものは、敵であるアラムの軍勢より、はるかに多い神による火の車と戦車がエリシャたちを取り囲んで守ってくれている光景でありました。
私たちは自分では見えていると思っていても、今、私たちが見ているものはほんの一部でしかありません。そしてそれは絶対的なものではないのです。主によって本当に目が開かれない限り、私たちは神様の恵み、神様の守りが分かっていないのです。前回の聖書箇所でも主イエスは「目があっても見えないのか。」と弟子たちに言っておられましたが、私たちは肉体の目で見ていても、信仰の目が閉ざされ、最も大切なものが見えていないのです。
■癒され養われていく目
そしてこの盲人の目は瞬時に癒されたのではなく、主イエスが再びその両手を目に当ててくださったことで癒されました。その目は徐々に開かれ、そして目にしたのは主イエスのお姿でした。信仰の目も同じではないでしょうか。はじめからはっきりした、しっかりした信仰、というものはないのではないでしょうか。ぼんやりと、うっすらと、それでも目にしたのは主イエスのお姿です。それはたとえぼんやりとしか見えなくとも、主イエスのそのお姿が自分の中に見えたとき、私たちは主イエスを「信じます」と告白するのです。そして主イエスが十字架にかかって死んでくださった、そのことによって神の恵みを知らされるのです。その恵みを知らされ、その救いの恵みを注がれ、それを受けるだけの私たちは、やはり納得のいく「しるし」を求めたがります。主を、神を試そうとするのです。しかし、ただただ、注がれる恵み、神の慈しみを受ける時、そのような神を試そうとした自分への悔い改めが起こり、それを繰り返していくのです。そうしていく中で、私たちの目は開かれていくのです。それが、信仰が養われていく、ということだと思うのです。
■結び
目を開かれた私たちが見なければならないもの、それは主イエスのエルサレムへの道、十字架への道、そして復活です。しかし、私たちは聴くべきものを聞き、見るべきものをきちんと見て、主イエスに従う道を歩むことができているかと言いますと、主イエスを否んだペトロのように、また、主イエスの十字架の時に逃げ出した弟子たちと同じように、おぼつかない道を辿っております。だからこそ、私たちは、繰り返し、繰り返し、主の御言葉に触れなければならないのです。主イエスはわたしたち、それぞれに手を置いてくださいます。主に触れていただいて、そして私たちは見えるようになる。いつもその繰り返しなのです。私たち人間には五感という機能が与えられております。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。主イエスが触れてくださるそのことによって、私たちは他の4つの感覚を駆使するのです。主イエスを見上げ、主イエスの御言葉を聞き、主イエスがご自身として与えてくださったパンとブドウ酒の聖餐に与り、その匂いを嗅ぎ、そしてまさにそれを味わう。私たちキリスト者はこうして主御自身と一体になることができます。感謝いたします。
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