説教題: 『門は開かれる』
聖書箇所:旧約聖書 詩編27:4-14(旧857ページ)
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書7:7-12(新11ページ)
説教日: 2025年3月2日・降誕節第10主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日、与えられた御言葉、7節から12節までのこの箇所は、聖書の中でも最も有名な箇所の一つと言えるでありましょう。そして読むだけであれば日本語としてそんなに難しい言葉はなく、すんなりと聞くことができる箇所でもありますし、求めれば、与えられ、探せば、見つかり、門を叩けば開かれる。このように言われる主イエスの御言葉は私たちに諦めではなく希望を与え、励ましと慰めに満ちている言葉であると言えましょう。しかし、私たちは求めても与えられず、探しても見つからず、叩いても開かれない、という現実をも知っています。また、パンを求めているのに、石が返ってきたり、魚が欲しいのに蛇が与えられるというようなことすら起こりうるわけです。ですからそのような現実の中で、この主イエスのお言葉をどのように受け止めたらよいのでしょうか。
■求め、探し、叩く者には
まず、今日の箇所は大きく3つに分けることができます。はじめは7-8節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」この箇所を原文に従って正確に訳しますと、「求めなさい」ではなく、「求め続けなさい」です。以下の二つの命令文も同じであり、探し続けなさい、叩き続けなさい、と主イエスは言っておられます。それではなにを求め続けるのでしょう、探し続けるのでしょうか。唯一、記されておりますのは、門です。どこの門かといえば、それは神との間にあります門であります。ここに記される、求める、探す、叩く、いずれも神との関係のことなのです。ですから、神を求め続けなさい、神を探し続けなさい、これらは祈りにおいてのことが言われていると言えるでしょう。門を叩くというのは、どうぞ開けてください、ということのために叩くのでありますから、神よ、私がここにきています。門の外におります、どうぞ、門を開いて中に入れてください、ということを言い続けるということであります。そしてこの3つの命令文に共通していることはいずれも受動態、受け身の形であるということです。与えられる、開かれる、と自らが求めたら得られるのではなく、与えられる。自分で門を開くのではなく、開かれるということです。見つかるというのも見出してくださるお方がおられるということです。ここで主イエスが私たちの目を向けさせようとしておられるのは、求める者に与え、探す者に見出させ、叩く者に門を開いてくださるお方がおられるということです。改めていうまでもなく、そのようにして私たちに神、天の父の存在を自らの生活の中で体感させようとしておられるのです。
■まして、天の父は
続く9-10節では、天の父がどのようなお方であるのか、ということがわかりやすい譬えで語られます。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」最近は、日々のニュースで幼い子どもへの虐待、親が子どもに食事を与えないとか、長時間外に放置するなどの痛ましい、考えられない事件が後を絶ちませんけれども、子どもに愛情を持った親であれば、お腹を空かせた子どもにパンや魚を与えるはずであります。石は食べられず、蛇は危険を与えるもの、そのようなものを与えるはずがないであろう、と主イエスは言われるのです。人間は罪深く、悪を内に秘めた者であって、さまざまな欠けがあったとしても、親は子どもに良いものを与えるということを知っているはずなのです。ましてや、天の父なる神は、求める者に良いものを下さるお方であるというのです。ここで注目すべきことは、求める者に求める物をくださる、ではなく、「良い物」をくださるということです。天の父なる神は、求める者が欲しい物ではなく、天の父が良いと思うものを与えてくださるということです。私たちが欲しいものではなく、神が良いと思うもの、もしかしたら、それは私たちの想定外のもの、ことかもしれません。えっ?と思うようなことかもしれません。しかし、神が与えてくださるものに間違いはなく、必ずや私たちにとって「良いもの」であると神を信じること。そのことによって、私たちは神に養われる。神が与えてくださる良いものによって養われて生きる、ということができるのです。
■求め続ける
そこで大切なことは、神への絶対的な信頼ということでありましょう。一回、二回、数回、限定で「求めよ」ではなく、「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」と言われるそのことを疑うことなく続けること。私たちの心は弱く、不確かなものでありますから、「そのようにしよう」「やってみよう」という積極的な思いと、反面、「どうせやってもダメなのではないか」という両方の力が働くのです。主イエスを信頼したいという思いと、主イエスの言われる教えの通りに生きることなど、到底無理・・・と思ってしまう気持ちがあります。私たちは感情に左右される生き物でありますから、天気と同じように、晴れならばアクティブになり、曇りや雨ならば、どんよりと重い気持ちになってしまうのです。しかし、主イエスの言われる「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」というお言葉は、そのような私たちへの励ましの言葉であります。追求し続けよ、と呼びかけておられるのです。なぜならば、神の真理は隠されているからです。ですから、探さなければならないのです。私たちは本来、神の似姿として作られた存在です。神が良いとされることをそのまま受け入れ、神の呼びかけに応答して、神と共に生きる美しい存在でした。しかし、陥った罪によって、私たちは神から離れ、神に逆らい、神の言葉に背を向ける存在になってしまったのです。ですから私たちは、隠されている神の真理、神が造られた美しい世界、それを求め続け、教えていただかなくてはならないのです。天の父なる神はそのような私たちにさえも愛を注ぎ続け、与え続けてくださっておられるのです。愛し続けてくださっているからです。
■主イエスが執り成して
私たちは天の父なる神が私たちを愛し続けてくださっていること、与え続けてくださっていること、そのことを何によって知ることができるでしょうか。天の父なる神が与え続けてくださっているもの、それは愛する御子、愛する独り子、主イエス・キリストによって知ることができるのです。主イエスは人として、私たちと同じ世を生きてくださり、そして私たちを天の父なる神に執りなすために、十字架にかかって死んでくださり、罪を清算してくださいました。その主イエスの十字架の死によって私たちは罪赦され、神の子とされました。天の父なる神は十字架で死なれた主イエスを復活させてくださり、そして永遠の命に生きるものとしてくださいました。そしてそれは主イエスに連なる私たちが神の子として新しく生きるためであり、そして私たちが復活と永遠の命に生きる約束であります。ロマ書8:32-285頁、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とあるように、ご自分の愛する独り子をさえ惜しまずに、死に渡して私たちの父となってくださった神が、私たちに本当に必要なものを与えてくださらないはずがないのです。この求め続ける私たちの旅は、見つかるかな?どこにあるのかな?という漠然とした探し物ではありません。必ず見つかるという神の絶対的な約束に裏打ちされている旅です。神の真理は見つけるたびに、大きな喜び、恵みに満たされ、そしてその喜びが私たちにさらに生きる力を与えるのです。そして再び求め続けるのです。それは祈りによってであると言えましょう。見つけて、そしてそこには門があることでしょう。その門を開ける方法を考えるのではなく、ただ主イエスを見つめ、主イエスを信頼して叩き続けるのです。そうすれば、門という信仰の門は主イエスが開いて、私たちを迎え入れてくださるのであります。私たちがそのようにするとき、パウロがガラテヤ2:20で言いましたように、「キリストがわたしの内に生きておられる。」そのことを発見するに違いありません。
■律法と預言者の完成として
さて、今日最後12節、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」この7節から読んできまして、「だから」と続いていますこの御言葉は、そのつながりが不自然に感じられるのではないでしょうか。ここで目に留めたい御言葉は最後にあります「律法と預言者」という言葉です。この言葉がどこにあったかと言えば、5章17節です。「わたし、つまり、主イエスが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」という箇所です。すでにお話ししてきましたように、5章から7章は主イエスが山上の説教として語られた教えであり、私たちは少しずつの御言葉を毎週聴いておりますけれども、一つのつながりのあるものです。大胆に言いますと、17節にあります、「律法と預言者の教えの完成」、それがこの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という主イエスの教えであると言えるわけです。ここまで語られてきた教えの全てがまとめられるようにして、この言葉で言い表されているのです。5章からここまで、さまざまな教えを主イエスは語られましたけれども、この御言葉とのつながりで振り返ってみますと、5章39節、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」の御言葉や、44節「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という教えは、この12節と同じことを言わんとしているのではないでしょうか。相手から見向きもされず、相手から疎んじられ、助けがなくとも、怒りに生きるのではなく、その人のために祈り、その人の望むことをする。これまた、常識では考えられず、倫理的に素晴らしいけれども努力してもなかなかね・・・というようなものではありません。「してもらいたい親切を率先して人にしましょう。」というような目標でもないのです。
■結び
それでは何のためにここまでのことが語られてきたのでしょうか。それは天の父なる神の子として生きるためであり、天の父に愛され、天の父に養われ、天の父なる神が求めるものに良いものを与えてくださる。そのことを信じ、そのことを信頼する。神の子として生きるためであります。そしてそれは同時に、敵を憎み、迫害するという思いから解放されることでもあり、そして愛と祈りとを持って生きるという生き方であります。天の父なる神の恵みによって共に生きるということです。そのような生き方を私たちに示してくださったのが、主イエスであられます。二千年前のユダヤの地では、主イエスを憎み、主イエスを迫害する者たちがありました。そして彼らによって、それは今につながる私たちによって、主イエスは十字架におかかりくださり、苦しみを受けて、死なれました。私たちが主イエスを十字架へと押しやる中で、それでも主イエスは私たちを愛し抜いてくださいました。私たちはなすべきことをしなかったにも関わらず、主イエスは私たちのために、天の父なる神の子としてその御業を成し遂げてくださいました。ですから、主イエスが言われた「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という御言葉は、私たち自身の思いでできることではなく、主イエスの愛の生き方のうちに置かれることで、そのような者にしていただけるということです。5章から続く山上の説教の様々な教えは、主イエスを通してのみ、主イエスが私たちのうちに生きておられることによってのみ、私たちの歩みが愛の歩みとなることができるのだということを教えてくれるものであります。
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