『すべての民のために』2026年2月8日
- 2月9日
- 読了時間: 9分
説教題: 『すべての民のために』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書56:1-8
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書15:29-39
説教日: 2026年2月8日・降誕節第7主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
本日与えられましたマタイの箇所、二つの小見出しを見ていただくと「大勢の病人を癒す」「四千人に食べ物を与える」とあるわけですが、この内容は、主イエスがすでになさってきたことで、わざわざ独立したペリコーぺ、つまり、単元として記されることだろうか、と思われるかもしれません。前半部分には癒しの出来事が記されています。「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」これまでのマタイ福音書の何箇所かで同じ文言を見ました。また、後半の「四千人に食べ物を与える」は、1章前の14章で五千人に食べ物を与えるという出来事が記されていました。数字が違うだけではないかと思われるかもしれません。しかし、16章9節以下で主イエスは「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。」と弟子たちに言っておられます。明らかに異なる二つの出来事としてお話されています。この何度も同じかのように繰り返される主の御業、それが日々、私たちに与えられているということなのではないでしょうか。神の御業は変わることなく、繰り返されています。私たちに働きかけてくださっています。しかし、私たちもその繰り返される恵みを理解しないということなのだと思うのです。何度でも繰り返される神の恵みを味わいたいと思います。
■主イエスの御業によって
前半の「大勢の病人を癒やされる」ということでは、8章16節以下ではペトロのしゅうとめを癒された後、人々が悪霊に取りつかれた者を大勢連れてきて、悪霊を追い出し、病人を皆癒されました。また9章35節には「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。14章14節以下では五千人に食べ物をお与えになる前に、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされました。今日の30節でも「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」とあります。その主イエスの御業を見た群衆はどうしたかという反応が31節です。「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」のです。イザヤ書35章5-6節には「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」というイザヤの神の救いの預言がありますけれども、まさにその神の救いが主イエスによってもたらされたということです。群衆はこの神の救いの御業を目の当たりにして、「この方が救い主である」と確信し、主イエスという救い主を遣わしてくださった父なる神を賛美したのです。
■イスラエルの神を賛美する群衆
群衆はイスラエルの神を賛美したとありますけれども、この群衆とはどのような人々であったのでしょうか。少し、時系列と地理的なことを見てみようと思いますが、まず、主イエスがおられた場所ですが、ガリラヤ湖のほとりと29節にあります。前回、同じくガリラヤ湖のほとりのカファルナウムから離れて、北側、地中海のほとりのシドンとティルスの地方に行かれました。その異邦人の地から、再びガリラヤ湖のほとりまで戻ってこられたということですが、ガリラヤ湖はとても大きな湖ですから、そのどのあたりかということはここからは分かりません。しかし、今日の39節に「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方へ行かれた。」とあるのを手がかりにして調べてみますと、マガダン地方というのは協会共同訳聖書の地図によれば、カファルナウムとティベリアスのちょうど中間あたりのところのようです。今日の箇所の出来事の後、マガダン地方に舟に乗って行かれたということはシドンとティルスから戻ってこられたのはカファルナウムよりも北側、もしくはガリラヤ湖の東側あたりなのではないかと推測できます。そうしますと、これらの群衆というのは、シドンやティルスからついてきた人々、もしくは主イエスが戻られたガリラヤ湖の北東側の人々ということになるわけで、いずれも異邦人ということです。31節の「イスラエルの神を賛美した」という言葉もそれを裏付けています。ユダヤの人々は自分たちの神をほめたたえる時に、わざわざイスラエルの神とは言わないからです。マタイ福音書でもここだけに出てくる表現です。ここにいた多くの群衆は異邦人であった、主イエスは異邦人に対して伝道されたということであります。
■恵みの繰り返し
主イエスは続いて、四千人に食べ物を与えるということをなさるわけですけれども、ここに記されている主イエスのお言葉はこうあります。「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べるものがない。」つまり、このお言葉から想像できることは、彼ら、群衆はティルスとシドンの地方から主イエスについてきた人々であったということです。「空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない。」主イエスは「かわいそう」と言われます。相手のためにいてもたってもいられない、胸が痛い、自分の体が痛む、というような意味です。彼ら、ティルスやシドンからついてきた群衆たちをこのまま解散させたらどうなるか、彼らはまた三日かかる道のりを行かなくてはなりません。疲れ切ってしまうというのも、単にくたびれるのではなく、命に関わるような事態だと主イエスは思われ、深く憐れまれたのです。しかし、その言葉を聞いた弟子たちはどうしたかといえば、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」というわけです。彼らはすでに五千人以上の人々を満腹にしてくださった主イエスの御業を体験しています。それにもかかわらず、このセリフです。主イエスにできないことはないという信頼も欠けてしまっているのです。こうして聖書を続けて読んでいる私たちは、弟子たち、少し前のこと、覚えていないのかしら?と思うわけですけれども、最初にも申しましたとおり、主イエスの愛の御業は繰り返され、神の恵みは私たちに与えられ続けているにもかかわらず、その恵みに気がつかないという私たちの現実をこれは顕著に表していると言えるわけです。主イエスは彼らがユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、大勢の群衆に対して同じような憐れみの心を持たれました。同じように、大勢の病人をいやし、そして大勢の群衆をパンと魚で養ってくださったのです。
■主イエスの奇跡
7つのパンと少しばかりの小さい魚を手に取って、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、そして弟子たちに渡されました。五千人の時と同じように、弟子たちを通して食べ物が配られて、そして四千人の男性と女性と子どもたち、すべての人々が満腹になりました。残ったパン屑は七つの籠にいっぱいになったと聖書は記しています。「7」という数字は聖書では完全性を表す数字です。七つの籠に集められたパンの屑は、主イエスが与えられる恵みが完全に満ち足りていて、そしてなお余りあるということを示しているのです。五千人の奇跡ではユダヤ人を満たし、そしてこの四千人の奇跡では異邦人を満たされました。つまり、前回ともに聴いたカナンの女性だけでなく、異邦人に救いが広がっていくという一連の話なのです。主イエスは「群衆がかわいそうだ」という憐れみから愛の奇跡の御業を示してくださいました。そしてそれらを分かち合うという働きを弟子たちが担っています。神の御業に参与するのが弟子たちのすること、それは私たちがすべきこと、ということです。主イエスによって与えられる恵みを受け取り、そして人々へと渡していくことが私たちのできることなのです。主イエスはすべての人々を深く憐れまれ、そしてその痛み、悲しみ、苦しみ、悩みをすべてその身に引き受けてくださいました。背負ってくださいました。この主イエスが四千人の群衆を満腹にされたという奇跡は、すべての人々に主イエスの恵みが及ぶという象徴なのです。
■異邦人も
旧約聖書は前回と同じイザヤ書56章を選びました。異邦人という言葉が繰り返されている箇所です。6節「主のもとに集まってきた異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。」異邦人であるティルスやシドンの群衆は主イエスのもとに集まり、そして「イスラエルの神を賛美」しました。それは主の名を愛する、ということです。そのように主の僕となった彼らを神は見ておられました。神の救いのご計画は異邦人たちをも神の家に招いておられるのです。主を愛し、主に結ばれて生きる者たちをご自分の民としてくださるのです。そして喜びの祝いに連なることを許すと言っておられます。まさに主イエスによって開かれた喜びの祝い、喜びの食卓に彼らはこうして招かれました。このマタイ15章で異邦の地において主イエスによる癒しと四千人の人々が満腹となる、満たされるという食事の奇跡が行われて、人々が「イスラエルの神」を賛美した出来事は、このイザヤの預言が具体的な出来事として示されたということです。主イエスにおいて、神の「すべての民の祈りの家」という約束、宣言が現実の出来事になっているのです。
■結び
「すべての民の祈りの家」、それはまさに教会であります。全ての人が招かれて、そして共に食卓を囲み、共に神を賛美する共同体。神はそのような共同体を造ることを、このような主イエスによる奇跡を通して示してくださいました。ユダヤ人に対して行われた五千人の食事の奇跡、そして異邦人四千人に対して行われた食事の奇跡は、主イエスを通して、すべての人々が招かれているということが示されている出来事なのです。主イエスはすべてのものたちの苦しみ、痛み、悲しみをご自分の痛みとして引き受けて憐れんでくださいました。そうして主イエスは憐れみの主として、ご自身のすべてをおささげになり、十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったのです。ですから、教会は主イエスご自身の体であり、主はここに共にいてくださいます。主イエスによって私たちはここに招かれ、そしてここで共に主を賛美し、主の食卓に与るという恵みをいただいています。そしてまた、同時に私たちはその食卓に人々を招く役割を与えられているのです。主が示してくださった「すべての民の祈りの家」を、この地において具体的に生きる者とされたいと思います。神の恵みが一人でも多くの方に届きますように、と共に祈り、その働きに用いられますようにと祈ります。
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