『神のしるしを見る』2026年2月15日
- 2月16日
- 読了時間: 9分
説教題: 『神のしるしを見る』
聖書箇所: 旧約聖書 エゼキエル書36:22-32
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書16:1-12
説教日: 2026年2月15日・降誕節第8主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日からマタイ福音書の16章に入ります。この16章というのは内容的に分岐点となる箇所です。次回のところになりますけれども、13節以下でペトロが信仰の告白を致します。そして21節以下で主イエスが初めて、ご自分が苦しみを受けて殺されて、三日目に甦る定めにあることをお告げになります。ですからこの16章というのは、ここまでの主イエスの伝道の働きから、十字架と復活への道へと変わる分岐点だということです。今日与えられた1節から12節はその序章と言えるところで、緊迫した雰囲気が漂っています。1節から4節と、5節から12節の間には、時間的な隔たりがあり、どうやら前半部分では主イエスはお一人でいらしたようです。ここに登場しているのがファリサイ派とサドカイ派の人々でありますが、「イエスを試そうとして」とあります。この「試みる」という言葉は、このマタイ福音書では、ここまでに使われているのは1箇所だけです。4章「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」悪魔の試みを言い表す言葉がここで使われています。主イエスを試みるのは、ファリサイ派とサドカイ派なのです。悪魔にかわって、今ここでは悪魔の誘惑を人間がするのです。悪魔の誘惑を主イエスはお一人でお受けになったように、ここでもお一人で受けられます。人間の中に住んでいる悪魔が、罪が姿を現して主イエスと対決するということです。そのような緊張感を持った箇所であります。
■ファリサイ派とサドカイ派
ファリサイ派はすでに何度も登場していますように、純粋な信仰に生きようと一生懸命になっていた人々です。そのために厳格なまでに律法を守り、自分たちの正しさを主張していた人々です。サドカイ派は貴族の中に大きな勢力を持つ上流階級の人々です。特権を利用して、地上の生活を喜び愉しんでいる人々でした。ファリサイ派は宗教的でありましたけれども、サドカイ派はむしろ政治的で、物質的な生活を重んじていました。復活を信じず、魂の生活を重んじることはありませんでした。そういう意味ではファリサイ派とサドカイ派は対立する党派であったわけですが、ここでは一緒に登場します。主イエスを共同の敵として結託し、主イエスを試みるという点において手を組んだのです。彼らの主イエスに対する敵意は深まっていき、そして殺さなければ納まらないものになったのです。彼らは悪魔のように主イエスを試みました。1節「天からのしるしを見せてほしいと願った。」とあります。マタイ4章で悪魔が主イエスを試みたときに何と言ったか「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」そうです、悪魔は「しるし」を求めました。この時の悪魔と同じように、彼らはあなたが本当に救い主であるかどうか、我々が判定するので、我々を救うための神の救いが本物であるかどうか、納得のいくような証拠を見せろ、ということを主イエスに突きつけたということです。このようなファリサイ派、サドカイ派の愚かな振る舞い、実は私たちそのものでもあるといえないでしょうか。神の支配、神の救いのしるしを私たちはどこにみているでしょうか。主イエスが生きて働いておられるということが見えているでしょうか。主イエスは言われます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。私たちもまた、自然の移り変わりや社会の兆候を読み取ったり、感じたりすることには長けていて、察知することができるかもしれません。しかし、神が今、何をなさっているか、ということには鈍いのです。彼らの目の前に主イエスがおられ、そして癒しがなされ、罪人が赦されて、神の国が語られているのです。それこそが最大の神の救い、「しるし」であるにもかかわらず、それを見ようとせず、そのような決定的な出来事にも目が開かれていないのです。それは彼らだけではなく、今現代を生きているこの私たちも同じです。
■ヨナのしるし
主イエスはヨナのしるしの他には、しるしは与えられない、と言われました。ヨナのしるしとは、ヨナが大魚の腹の中に三日三晩とどまり、そして再び地上に戻されたというあの話です。この出来事は、主イエスの死と復活を指し示す預言として理解されています。つまり、主イエスが与えるしるしとは、奇跡などのパフォーマンスではなく、十字架と復活という、神の救いの核心、神の救いそのものなのです。主イエスの存在そのものが神の救いのしるしなのです。ですから、主イエスは、あなた方に必要なのは、新しい奇跡、新しいしるしではなく、すでに与えられているこのわたし、主イエスが十字架と復活のしるし、救いのしるしである、それがただ一つのしるしであるということを受け取るかどうかだ、と言っておられるということです。しかし、この主イエスの十字架と復活を直接見聞きした当時の人々も、それを全ての人が信じたわけではありませんでした。主イエスの復活など信じられないという思いは、私たちだけでなく、当時の人々たちにとっても同じであったのです。ヨナのしるし、つまり、主イエスの復活ということは、理解したり、納得するというようなことではないのです。信じるか、信じないかです。「ヨナのしるしの他にはしるしは何も与えられない」というのは、何かの目に見えるしるし、証拠を見て、納得できるから、信じるということではなく、信じて受け止めることだということなのです。
■ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種
さて5節以下で、弟子たちが登場いたします。弟子たちは湖を渡り、向こう岸に行きました。彼らはパンを持ってくるのを忘れてきたことに気づきます。主イエスは少し前まで、ファリサイ派、サドカイ派と対決なさっておられた、そのことを踏まえて、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われたわけですけれども、弟子たちには通じません。彼らはパンを忘れてきたことを叱られたと思ったわけです。なんともトンチンカンな食い違いです。主イエスは言われます。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。」主イエスの言われる「信仰の薄い者たちよ」これはすでに何度か出てまいりました。文字通りに訳せば、「信仰が小さい」です。
「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。」と主イエスは続けて言われます。14章に記された5つのパンで五千人を満腹にし、前回、共に聴きました15章の最後で7つのパンで四千人を満腹にした、その出来事を弟子たちは、一度ならず二度も体験しているのです。人間の常識では到底足りるはずのない少ない量のパンで、そこにいる全てのものが満腹するという奇跡でした。さらに主イエスはそれらのパンを祈りの後、裂いて、弟子たちに渡されて、パンを群衆に配ったのは彼らでした。残ったパン屑を集めたのも弟子たちでした。そのような主イエスの御業を弟子たちは見ただけでなく、体験したにもかかわらず、もうそのことからすっかり離れてしまっているのです。今ここにパンがいくつあるか、足りないのではないかなどと慌てふためいて、そのことを主イエスから叱られたと、思っているそのことに彼らの信仰の小ささ、不信仰があります。主イエスが警告された「パン種」とは価値観やものの見方、つまり、外側に見えるしるしや決まり事、制度、そしてファリサイ派のような権威に依存した信仰のことです。そして弟子たちもまた、日常の世界での価値観や決まり事などに心を奪われて、神の本質的な働きが見えなくなっていたのです。
■神のしるし
さて、今日与えられた旧約聖書はエゼキエル書36章です。エゼキエルという預言者は、イスラエルの最も厳しい時代、つまりバビロン捕囚という極限状態の中で神の言葉を語った預言者です。イスラエルがここまで重ねてきた罪は、神の名を汚し、そして国を失うという結果を招きました。しかし、神は言われるのです。「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。」神に背き続け、神を忘れ、神から離れていたイスラエルの民でありましたけれども、神はその彼らを忘れないどころか、お赦しになられます。そしてそうしてくださる理由はただ一つ、神ご自身の名と神の憐れみによるのです。36章26節で神は力強い約束をされます。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」石の心とは神に応答できない頑なな心です。外側のしるしで見るならば、神の働き、神の心は見えません。神を知ることはできないのです。それゆえに神は、内側を作り変えると約束されました。律法を守る前に、私を知り、私に従う心を与える、神はそう約束されたのです。そして次のようにも言われます。「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。」つまり、それは真の悔い改めということです。エレミヤも31章33節で「律法を胸の中に授け、そして心に記す。」と言っています。それによって、神は人々の神となり、それらの人々は神の民となるという約束です。私たちは主イエスを通して、そのように神の民とされています。それが新しい契約です。ローマの信徒への手紙6章4節以下にはこのように記されています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」エゼキエルに示された「新しい心」と「ヨナのしるし」は深く結びついています。ヨナのしるしは、死から命への出来事です。主イエスが十字架で死なれて、そして三日目に甦りをなさった。この復活の主イエスが聖霊を通して私たちの内に新しい心を創造してくださるのです。キリストに結ばれる私たちにとって、「しるし」とは目にみえる何かではありません。死んでいた心が生きるようになること、それが最大のしるしなのです。それゆえ、私たちは毎週の礼拝において、悔い改めの祈りを捧げ、神に立ち帰るのです。悔い改めは決して自己否定や絶望ではなく、神の赦しと新たな命、命の回復を知ったからこその、恵みに基づいているのです。
■結び
私たちの現実の生活において目にみえるしるしなしには生きることはできないでしょう。数が増えるとか、目に見える成果など、教会においても必要なことです。しかしそれは信仰の基準ではありません。もしそれを中心に置くようになるならば、私たちもファリサイ派のパン種に支配されてしまうのです。私たちは目に見えない、神の働きに目を注ぐのです。神は私たちの目に見えなくとも、確実に働いておられます。人々に新しい心を授けて、そして人は赦しを知ります。そこにこそ神の国のしるしがあるのです。主イエスは弟子たちに「まだわからないのか、まだ理解しないのか」と言われました。私たちへのメッセージでもあります。外側のしるしを追い求めるのではなく、私たちにすでに与えられている決定的な、十字架と復活というしるしを改めて受け取って、新しい心を生きる者とされたいと思います。神のしるしを信仰の目で見せてくださいと祈りたいと思います。
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