『岩の上に建てられた教会』 2026年2月22日
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説教題: 『岩の上に建てられた教会』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編2:1-12
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書16:13-20
説教日: 2026年2月22日・受難節第1主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
先週からマタイ16章に入りました。この16章というのは内容的に分岐点となる章であると先週お話しいたしました。今日の箇所を読みますと、そのことを実感されるのではないでしょうか。小見出しを見ていただきますと、「ペトロ、信仰を言い表す」とあり、次週ともに聴きます箇所は「イエス、死と復活を予告する」とあります。この小見出しだけ読みましても、主イエスが十字架へと向かわれる、その時が確実に迫ってきているということを感じさせるものであります。そして今日の13節以下というのは、このマタイ福音書の中で、最も大切な箇所の一つといえます。主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われ、一番弟子であるペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」という信仰告白をしたことが語られています。この言葉を受けて、主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言なさいました。この「あなたはメシア、生ける神の子です。」という信仰の告白こそが、この後、主イエスの十字架と復活の後に結集されていく教会の土台となるということが、ここで主イエスによってはっきりと告げられているのです。
■人の子は何者なのか
このエポックメイキングな出来事が起こったのは、主イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行ったときでありました。フィリポ・カイサリア地方というのは聖書巻末の地図を見ていただくとわかります通り、ガリラヤ湖の北側に位置しています。ヘルモン山の南側で、ヨルダン川の源流の一つがある自然豊かな場所です。ヘロデ大王の息子の一人、領主フィリポが町を拡張して、ローマ皇帝アウグストゥス、つまりカエサルに敬意を表して、カイサリアと名前を変えました。地中海沿岸のカイサリアと区別するために、フィリポ・カイサリアと呼ばれます。そのようにローマ皇帝を神として崇拝するという思想が支配している土地でした。誰が神なのか、誰が世界の支配者なのか、という問いが錯綜する場所で、主イエスは弟子たちに問いを投げかけられたのです。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」主イエスがなされた問い、この信仰の問いは、今の私たちにも投げかけられているわけですが、私たちもこのように様々な価値観が渦巻く只中で問われていると言えましょう。「世間の人々は私、主イエスのことを誰だと言っているか」という問いです。弟子たちは即座に答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」当時の人々が主イエスをどう見ていたかということが列挙されました。「洗礼者ヨハネだ」とは14章でガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが言っていたことでした。自分が首をはねて殺した洗礼者ヨハネが生き返ったのが主イエスだと恐れていました。「エリアだ」というのは旧約聖書マラキ書3:23に「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」という預言、神の救いの実現の前にエリアがつかわされるという預言に基づいて、主イエスがその救いの先駆けとなる人だと思っているということです。そして「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」というのは主イエスをそうした過去の偉大な預言者の再来であると理解しているということです。これらは否定的なことではありません。しかし、実は私たちも同じように、主イエスが誰であるか、ということを、過去の偉大な人物の延長線上でしか理解できていないのではないでしょうか。
■それでは、あなたがたは・・・
主イエスは弟子たちのそのような世間の評判をお聞きになった後、続けて問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」さて、この問いを投げかけられたら、どのように答えますでしょうか。私たちは毎週の礼拝において、使徒信条を告白いたします。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」とその冒頭において皆で告白していますけれども、それはペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」とまさに直球で告白したものと同じ意味、同じ重みを持って告白しているでしょうか。このペトロの言葉、「あなたはメシア、生ける神の子です。」この言葉は、単なる知識を言ったのではなく、主イエスのお働き、そのお言葉、そして主イエスの存在に触れて、神ご自身が示してくださった結晶です。主イエスはこのペトロの言葉を受けて、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われたように、信仰の告白は、私たち人間の努力や理解、知性の成果としてではなく、ただ神の恵みとして与えられる啓示なのです。それは第1コリント12:3に『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない』とある通りです。もちろん私たちは聖書について学び、またそれぞれにさまざまな努力もいたしますけれども、それは神の恵みに対する応答としてのものであり、信仰はまさに神からの贈り物なのです。
■油注がれた者
今日の旧約聖書は詩編2編を読んでいただきました。1節は「なにゆえ、国々は騒ぎ立つのか」という問いから始まっています。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち人々はむなしく声をあげ、支配者は結束して主に逆らうのか。主の油注がれた方に逆らうのか」と言います。こう告げられている姿は、神に背を向けて、神の支配を拒む人間の姿、それは決して古代イスラエルだけのものではありません。現代の私たちが生きるこの社会も、人間は神を必要としないかのように振る舞っています。この世界における政治、経済、科学、文化、すべて進化していますけれども、それらはすべて神からの賜物であり、神の恵みなのです。神抜きで、神が不在でそれらのことが絶対化される時、それはむなしいものとなるのです。
「油注がれた者」とは元々は、神によって油を注がれて特別な使命へと任命された人を意味していましたが、次第にそれは神が約束してくださった救い主を意味する言葉になりました。それがヘブライ語でメシアです。ペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です。」という言葉は、「あなたこそが油注がれた方、救い主です。」と言ったということです。そして、「生ける神の子です」とも言っています。ただの「神の子」ではなく、「生ける神の子」つまり、今、生きて働いておられる神、今も恵みの御業を行ってくださっている神が、ご自分の独り子である主イエスを遣わしてくださったということです。マタイ福音書は「主イエスは神の子である」という表現を繰り返し語っています。8章29節では、悪霊が主イエスに「神の子」と呼びかけています。また14章33節では主イエスは水の上を歩いてこられ、沈みかけたペトロを助け、強い風がおさまった時、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と主イエスを拝みました。そして27章54節では、主イエスが十字架上で最後を迎えられたのを見たローマの100人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言っています。これらの箇所はすべて、主イエスが、生けるまことの神の子であるということを証ししているものです。ペトロのここでの告白も同様です。14章の湖での出来事の時、弟子たちは「神の子」と告白いたしましたけれども、「あなたはメシア」のメシア、「救い主」という言葉をペトロがここで初めて主イエスに向かって使いました。漁師であった彼らが主イエスと出会い、主イエスの御言葉を聞き、御業を目にする時を経て、主イエスがそのように導いてくださったのです。先ほども申しましたように、まさに我々の知恵によってではなく、ただ神の定めた時に、「あなたこそが救い主です」という告白へと導かれるということなのです。
今日の詩編の7節後半には「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。」という表現があります。これは王に対する神の宣言です。王と神との特別な関係が示されています。主イエスがヨハネから洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神の声がありました。油注がれたメシアとして、主イエスは神の愛する子、特別な関係にある真の王であることがこうして示されています。詩編の言葉も主イエスにおいて成就していることがわかります。
■天の国の鍵
さて、今日の後半では主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました。この後半の部分は共観福音書ではマタイにしか記されていません。私たちはこの「ペトロ」という名前に親しんでおりますけれども、彼が最初に登場する4章18節の弟子の召命のところ、「ペトロと呼ばれるシモン」とあります。つまり、彼の本名は今日の17節にある「シモン・バルヨナ」で、18節の「あなたはペトロ」とこ主イエスが彼にペトロというニックネームをおつけになったということです。ペトロという言葉はギリシア語では、石です。ギリシア語ではペトロスと発音します。そして次に出てくる岩はギリシア語ではペトラです。言葉の語呂合わせのようになっているわけですが、同じ言葉ではありません。ただ、この時、主イエスはアラム語を話しておられた可能性が高く、アラム語では石も岩も「ケファ」という言葉を使います。ですからそういう意味では矛盾はしていません。また、コリント書やガラテヤ書でパウロがペトロのことを「ケファ」と呼んでいるのもそのためです。ローマ・カトリックではこの岩をペトロとして代々考えてきました。ペトロがローマ・カトリック教会の初代教皇であり、そのペトロの上にカトリック教会が建てられていると考えているということです。プロテスタントでは、岩、つまり揺るぎないもの、というのはペトロ個人ではなく、主イエス・キリストご自身をさすと考えられてきました。また、この岩はペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です。」という信仰告白であるとも考えられてきました。つまり、第一コリント3章11節に「イエス・キリストという土台」という言葉が出てきますけれども、教会の基礎、揺るぎない岩は主イエスであるということです。そこに建つ教会において、私たち人間は「主イエス、あなたこそ救い主です」という信仰告白をするということです。そして主イエスは続いて、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われました。ここで使われている「鍵」「つなぐ」「解く」という言葉はいずれも権威を表す言葉です。鍵は王に代わって管理を行う者が持つものです。つまり、王であるキリストに代わって、天の国への出入りを管理する権限をペトロに託すと言われたということです。ペトロはキリストを基礎とする教会においてその代表的な奉仕者として鍵を託されたということです。ここで主イエスが言われた「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。天の国の鍵を授ける。地上で解くことは、天上でも解かれる。」というお言葉はいずれも文法的には未来形の言葉です。ですからこれは、主イエスがペトロに言われた時以降の将来の約束なのです。今も私たちはその約束を信じて、教会において、「聖なる公同の教会を信ず。」と告白しています。この私たちが集う教会が、主イエスのお建てになった教会として実現していると信じているということなのです。この教会において、説教が語られ、説教が聴かれ、そして罪を悔い改めて神に立ち帰り、主イエスの赦しの宣言がなされています。教会はその務めを託されているのです。
■結び
詩編2編は地上の王ではなく、真の王によりたのむ者はいかに幸いなことか、と高らかに締めくくられています。「あなたは誰を王とするのか」この問いに、私たちはただ一つの信仰告白に立ち続けたいと思うのです。「主イエス、あなたが救い主。生ける神の子です。」このように告白し、私たちの救い主は、今も生きて働いておられる主イエスあなたであり、あなたこそがまことの王であられる、そのことを改めて覚えたいと思います。
主イエスを土台とする教会の務め、この世にキリストを証ししていく務めを共に果たしていきたいと思うのであります。
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