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『道が開かれる』 2024年8月4日

説教題: 『道が開かれる』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書40:3-5 

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書3:1―12

説教日: 2024年8月4日・聖霊降臨節第12主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

共に読み始めておりますマタイによる福音書の1章、2章はヨセフを通しての主イエスの幼子時代のことが記されておりました。今日の3章の1節には、「そのころ」という言葉で始まり、洗礼者ヨハネのことが記される、という新たな場面展開になります。「そのころ」とありますが、主イエスが幼子であった頃の「そのころ」ではなく、おおよそ30年という月日が経過しております。洗礼者ヨハネについては、主イエスの誕生物語が記されるルカによる福音書において、マリアの親戚のエリザベトがマリアより半年ほど前の時期に妊娠し、聖霊によって身ごもったマリアがエリザベトのところを訪ねるというシーンが記されておりました。祭司ザカリアとの間に授かったその子どもが洗礼者ヨハネでありました。ザカリアは息子ヨハネが生まれた時、聖霊に満たされて、ルカ1:76-77でこのように言っています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる。」主イエスに先立つこと半年、ザカリアとマリアの親戚エリザベトの間に生まれたヨハネはこのように、生まれた時から、いえ、生まれる前から、神のご計画により、主に先立つ者として備えられていたのでありました。

 

■旧約預言者の継承者

洗礼者ヨハネもおそらく30歳になったころでありましょう。ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。イザヤ書40章3節に「呼びかける声がある。」とあります。続くイザヤの言葉、「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ野に広い道を通せ。」イザヤはこのように神の言葉を語りましたが、主なる神が遣わされる救い主のために、道を備える者、それがこの洗礼者ヨハネであると言っているのです。ヨハネの風貌は独特です、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野密を食べ物としていた、とあります。逆にこの格好に似合うのは荒れ野しかないとも言えます。ヨハネは主の道が荒れ野に備えられることを知っており、自分の使命はそこにあると理解していたわけですから、荒れ野という神との対話の場に常に身を置くことによってその使命を達成することに、心をむけていたといえるのでありましょう。

私たちは現在、道のないところ、というのはあまり知らないのではないでしょうか。日本でも海外でも、たとえ山に行ったとしても、すでに登山道のようなものができていて、案内板もあって、右に行けば、山小屋、左は麓へ、というような道標が大概はあると思うのです。しかし、このヨハネが荒れ野にいた時は2千年前であります。主のための道を備える、それはどうやってでありましょう。単に、人が歩けるような道、集まれる場所、それらを何もないところから作るというだけでも大変でありましょう。しかし、洗礼者ヨハネがやろうとしていること、やらねばならないことはそのようなことではないのです。インフラの設備ということであれば、大勢の人に協力してもらって共に体を動かして働いて、平地を作り、広場を作り、道を作り、ということはできるでありましょうが、洗礼者ヨハネがやろうとしていることは、自分の後に来られる方のやろうとしていることの道筋を備える、ということであります。このマタイによる福音書の特徴として、「旧約の預言者たちによって言われていたことが成就するためである」という言葉が随所に散りばめられている、と申し上げてきました。ここまでにもイザヤやエレミヤ、ホセアといった預言者の言葉が引用されてきました。預言者は神の言葉を代弁する者として民衆や権力者たちに語ってきたのです。旧約の預言者の活躍期は紀元前8世紀から6世紀、バビロン捕囚前には民に対して悔い改めを語り、捕囚後は慰めと回復の希望を語って民を励ましました。しかし、その働きはイスラエル王国の滅亡と共に終わりを迎えたといっても過言ではないでしょう。そうして途絶えたと言える預言者の時代から、新たな始まりをつなぐ役割を、この洗礼者ヨハネが担っていると言えるのです。旧約聖書全ての預言者の伝統を継承している最後の預言者としてマタイは洗礼者ヨハネをここに登場させているのです。

 

■悔い改め

ヨハネは2節の「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この言葉を告げました。この言葉が神の言葉であることは、主イエスの伝道の開始のお言葉が全く同じであることからもわかります。4章17節に記されています。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」主イエスの第一声に先立って、洗礼者ヨハネが神の言葉を伝え、真の救い主である主イエスの到来の備えをしているのです。洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ」といって、ヨルダン川で洗礼を授けました。「悔い改め」とはなんでしょうか。教会ではよく聞かれる言葉ですし、私たちも毎週の礼拝における祈りの中で、悔い改めの祈りを捧げています。「悔い改める」、この言葉は一般的には、過ちを反省するとか、悪い生活習慣を捨てようとか、良い行いをするように心がけるというような意味合いに理解されているかもしれません。しかし、キリスト教においては、私たちの罪の現実、神への背きに対する悔い改め、神との交わりを失っていることに対して、神に立ち帰る、ということです。神に背を向けていた、神と反対側に立っていたことに気づき、神の方を向く、神の側に身を置く、ということです。また、後悔する、ということとも違います。後悔とは罪を悲しみ、赦しを願う感情であると言えましょう。悔い改めは確かに罪に対する悲しみもあるでしょうが、そのような私たちの感情の問題ではなく、神の恵みをいただき、それによって信仰生活を新たに送る力をいただくこと、神の赦しを土台として繰り返し神に立ち帰ることであると言えるのではないでしょうか。ですから、それは私たちの思いとか、行いではなく、神の働きなのです。私たちの罪の重荷のためには、救い主が必要である、と示されることです。神を、救い主を求めることなのです。自分では解決できない罪、自分ではどうにもならないこの自分をどうぞ救ってください、と呼び求めることです。

 

■ファリサイ派やサドカイ派

ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々に向けて「蝮の子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しい言葉を投げつけます。「蝮」というのは毒を持った生き物であり、相手に噛みつけば、その毒が相手の身体中に回り、場合によっては死に至らしめることさえある生き物です。サドカイ派は祭司層を中心とした上層階級で同様にモーセ律法を重視していました。また、現世の生活が良いものであったため、復活を否定していました。そしてファリサイ派はモーセ律法を重視し、律法に従った生活を目指し、人にもそれを求めていました。相反する主義主張の人々ではありましたが、いずれも彼らの考えるところの「悔い改め」を大切にしており、律法を厳しく守り、そこから反した行いを悔い改める行動を目指すことにおいては、自分たちこそ、という自負があった人々でありました。聖書のあちらこちらで、ファリサイ派と主イエスの対立は多くの箇所で出て参ります。彼らの特徴は自らの正しさを主張するゆえに相手を裁く、これが一番の特徴でありましょう。彼らは自分たちは信仰の父アブラハムの子孫であり、選ばれた者たちであるという自負やその特権意識、そして誇りにおいては誰にも負けないものを持っていたのです。しかし、その自分たちを誇る思いや、その特権意識そのものが問題であるということには思い至りませんでした。ファリサイ派の人々にとっての悔い改めとはファリサイ派へと改宗することを目指すものであり、ファリサイ派そのものが神へと向きを変えることは全く思いもよらないことでありました。少し前まで共に読んでおりましたガラテヤ書の中に「霊の結ぶ実」ということが示されていました。愛に代表される霊の結ぶ実はいずれも自らの力によって実が大きくなるのではなく、神の愛によって結ぶものであるということをお話しいたしました。有名なヨハネの葡萄の木の喩えでも明らかであります。いくら自分が大きく立派な実になりたい!と思ったところで、それは枝につながっていなければ実を結ぶことはできないのであり、枝は主イエスであり、農夫である御父がその枝を手入れしてくださるのであります。ですから、ヨハネがファリサイ派の人々らに、悔い改めにふさわしい実を結べといったのは、彼らが自分たち自らで大きな実を作ることができるという傲慢さによって生きているがゆえに、投げつけた厳しい言葉でありました。自分たちの父はアブラハムであり、自分たちはその子孫である。そのことだけで、すでに自分たちは神の救いを約束されているのであり、救いはすでに前提となっているのです。そのような思いにおいては、本当の悔い改めはあり得ません。彼らが洗礼者ヨハネのところに来て、洗礼を受けようと思ったのも、悔い改めのしるしである洗礼を受けることで、他の人への救いの証明を見せびらかそうというようなそのようなものであるのです。それゆえにヨハネは厳しい言葉で非難したのでありました。

 

■迫り来る審判

ヨハネは裁きの時が近づいているというメッセージを語ります。10節には「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」さらに12節では、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とも言いました。このように神の裁きが行われ、悔い改めにふさわしい実を結んでいる者とそうでない者、救われる者と滅びる者とに分けられるということを語りました。このように差し迫った神の怒りに対して、ヨハネは洗礼を受けて生きることによって救われるのだと語ります。11節にはこのようにあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」私ヨハネは水によって洗礼を授ける、私のできることはそこまでである。しかし、私の後に来られる方は、聖霊と火によってあなたがたに洗礼をお授けになるのだ、というのです。

私たちが洗礼を受けますときは、浸礼または滴礼式といって、水に浸される、もしくは頭に水をかける、という形ですから、火によるというのは納得がいかないかも知れません。

そもそも私たちが洗礼を受けるというのは、罪を悔い改め、主イエスを救い主であると告白し、主のものとなる、ということです。水の中に沈められて、古い自分は死ぬのです。私たちは主イエスの新しい命に生かされることになる、それが洗礼です。それは、古い自分は燃やされるということもできるでありましょう。今日の聖書箇所にも「火」が切り倒されて火に投げ込まれる、消えることのない火で焼き払われる、というように、全てを根本的にきれいにするものとして示されています。

 

■結び

旧約の時代、神への献身、神への服従のために、焼き尽くすいけにえが捧げられました。人間の代わりに献げされた羊などの家畜は傷のないものであり、それは罪を焼き尽くすためであったのです。しかし、それはあくまでも代理であって、完全なものではありませんでした。そのような代理としてではなく、自らをお捧げくださったのが主イエスでありました。主イエスは罪なき、汚れなき、お方でありながら、完全な、焼き尽くすいけにえとして献げされたのです。それも今の私たちにまで及ぶ罪の中に生きる人間全てのものの贖いとしてでありました。ですから、「主を信じる者は、失望することはなく、主の名を呼び求める者は誰でも救われる。」のです。それが主イエスの示してくださった道であります。そしてその道は、死をも超えて、甦りという希望をも与えてくださった希望の道として示されています。私たちにはこの道を歩ませていただく幸いが与えられているのです。

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