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『通り過ぎる神』 2022年11月6日

説教題: 『通り過ぎる神』 聖書箇所: マルコによる福音書 6章45~56節 説教日: 2022年11月6日・降誕前第七主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

「それからすぐ」と今日の御言葉は始まります。つまり、五千人以上もの人々をパンと魚で満腹にしてすぐ、ということであります。前回、共に読みました五千人の供食と呼ばれる出来事、奇跡は4つの福音書全てに記されているものでありました。そしてそれに続く今日の「湖の上を歩く」と小見出しのついた出来事、奇跡はマタイ、マルコ、ヨハネと3つの福音書において、五千人の供食に引き続いて、つまり、セットになって記されているのです。福音書はそれぞれの福音書記者が意図をもって編集しています。3人の福音書記者は五千人の供食と今日の「湖の上を歩く」とは切り離すことができないと考え、つながりをもって置いているというわけです。そこにはどのような意図があり、どのような意味があったのでしょうか、御言葉から聴いてまいりたいと思います。


■弟子の無理解・人々の無理解

場所はいつものガリラヤ湖です。主イエスは弟子たちを、強いて舟に乗せて、向こう岸のベトサイダへ、ベトサイダはガリラヤ湖の北岸、ヨルダン川が湖に注ぎ込む河口のすぐ東側です、そこへ弟子たちを向かわせたというのです。そして主イエスご自身で群衆を解散させたとマルコは記しています。マルコは淡々と事実だけを記していますが、ヨハネ福音書を見ますと、こう書かれています。6章14節以下です。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である。』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」

人びとはメシアを待ち望んでいました。このガリラヤの人々は、主イエスこそイスラエルの王としてその座に座るべき人物であると思ったのでしょう。その彼らの考える王とは、政治的、そして軍事的な力を発揮して、民を導くメシアでありました。ローマと闘い、ローマ支配からの解放のために戦う王でありました。しかし、主イエスは自らの命を捧げて、民を平安へと養おうとされる救い主なのです。人々の期待、力強い闘う王とは対極の使命をはっきりとご自分の使命として自覚しておられる主イエスです。そのような群衆から離れ、再び神へ祈る時間を大切にされるため、お一人で山へ行かれたのです。

今までも何度か「メシアの秘密」ということをお話しいたしました。「主イエスとは何者なのか」マルコはそれを、少しずつヒントを出して明らかにしようとしています。ここでも人々の考える主イエスは、主イエスご自身とかけ離れていることが示されているのです。そして、弟子たちも主イエスがどのようなお方なのか、理解していなかったのです。それは52節に「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と記されているように、弟子たちも主イエスが神の子であるということを真に理解してはいなかったのです。


■逆風

弟子たちが舟を漕ぐ。この状況はすでに読んできました4章35節以下にも似たようなものがありました。その時は、激しい突風により嵐のようになり、舟が沈みそうになりました。今日の6章では嵐ではありませんでしたが、逆風によって、漕いでも漕いでも進まずに押し戻されてしまっていたようです。

私たち、教会の歩みは、しばしば舟にたとえられてきました。舟は教会のシンボルとして用いられてきました。世界中の教会の一致を目指す世界教会協議会のシンボルマークは帆を張って進む舟でありますが、その帆、マストの中に十字架が書き込まれております。教会と言う舟は嵐にあっても、逆風の中でも、この世が目指す目的地ではなく、神の御国を目指して、大海原を進んでいくのであります。教会は、そして私たちそれぞれは、困難を体験して、様々な苦難の中、時に沈みそうになり、逆風に悩まされて、時に疲れ切ってしまうこともあるでしょう。まさに、マルコの記す4章や6章のようです。4章の舟には主イエスが乗っておられましたが、今日の6章では弟子たちだけであります。主イエスに言われて、漕ぎだしたものの、全く進まず、むしろ後退しているかのように感じ、この逆風の中、自分たちだけで、自分だけで行かなければならないのか、そのように感じる弟子たちの思いを私たちの信仰の歩みと重ねることはたやすいことでありましょう。


■通り過ぎる神

さて、弟子たちを乗せた舟は、夕方に湖の真ん中にいました。彼らの中には元漁師がいたにもかかわらず、逆風に悩まされ、全く進まずにいました。プロの彼らの手に余る程の逆風だったのです。4章のときは、主イエスが同じ舟に乗っておられましたが、今回は彼らだけです。なんとかして自分たちで向こう岸へたどり着かなければ、と必死になって漕ぎましたが、一晩中漕いでもたどり着くことはできず、とうとう夜明けが近くなってしまったのです。

さて、主イエスはどうされていたのかと言えば、陸地で祈っておられ、そして弟子たちの様子を祈りの中で見ておられました。聖書には、はっきりと、「漕ぎ悩んでいるのを見て」と、「見て」おられたことを示す言葉が記されております。主イエスは神との祈りの時間を持っておられました。逆風の中を行く弟子たちのために、執り成しの祈りを捧げておられたのです。主イエスは同じ舟に乗ってはおられませんでしたが、乗っているのと同じように、いえ、乗っている以上に、執り成しの祈りをもって弟子たちの歩みを支えておられたのです。

そして、「夜の明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」とあります。こうして主が弟子たちを守られていたことを知りますと、この「そばを通り過ぎようとされた。」と言う言葉はなにか違和感があるのではないでしょうか。弟子たちのことを心配してきてくださったのならば、「通り過ぎないで・・・」と思うのではないでしょうか。

ここで旧約聖書の神様の現れ方を見てみましょう。出エジプト33章18節以下です。モーセが「あなたの栄光をお示しください。」と言った時、主なる神は、「わたしの栄光は通り過ぎる。あなたはそれを見ることはできない。」と言われました。続く34章6節、モーセが二枚の石の板を手に携えて、主の前に立つ、という決定的なシーンです。ここで「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。」とあります。つまり、神はそのお姿を真正面から示されようとはなさらない。わたしたちは神の正面に立つことのできない存在であるということなのです。神がその存在を示されようとする時、相対するのではなく、傍らを通って示してくださるということなのです。

こうも言えるのではないでしょうか。つまり、神は御自身を誇示なさろうとせず、神のかすかな御声に耳を傾け、呼び求める者に対して、その気配を感じる者に相対してくださり、応答してくださるのです。

弟子たちがもし、主を求めていたら・・・通り過ぎようとなさった主イエスを幽霊だとは言わなかったでしょう、幽霊だとは思わなかったでしょう。彼らは主を求め、主に依り頼むのではなく、自分たちで何とかしようとしていました。それはこの舟を漕ぎだしたときからではなく、5千人もの人々への食事の時から、主を呼ぶことを忘れてしまっていました。それゆえに弟子たちは主イエスが自分たちのところに来て下さったことがわからず、通り過ぎてしまうと感じたのです。それどころか、幽霊だ!と大声で叫んだのでした。主イエスがその姿を現して下さり、主が共におられるという恵みを受け取ることができず、むしろ恐れ、脅えてしまうという弟子たちの不信仰がここには描かれています。そしてそれは私たちの不信仰でもあります。


■「安心しなさい、わたしだ。」

主イエスが水の上を歩くという奇跡、どうしてそのようなことができたのか、それもここでは問題ではありません。主イエスは神であるから、としか答えようがありません。そんなことよりも、神は必要な時には、どんな隔たりや妨げをも超えて、私たちのところに来て下さる、そのことが大切なのです。ヨブ記9章8節にはこうあります。「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。」嵐であろうが、何であろうが、神様はその水を踏み砕いて歩くことができるのです。

主イエスは恐れ、脅えている弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。主イエスは神の救いを表わすために通り過ぎようとなさいましたが、それに気づかない弟子たちのために、言葉によって安心させるだけでなく、一緒に舟に乗り込んで人としてのお姿を示してくださいました。この「わたしだ」という言葉は、「幽霊ではない、あなたたちの知っているわたしだよ」という意味ではありません。ギリシア語では「エゴーエイミ」。「わたしはある」出エジプト3章で主なる神様がモーセにご自分のお名前を示された時の言葉です。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」神としての存在そのものを表わす言葉です。新しい協会共同訳では「わたしはいる」と訳されていました。生きておられる神が、「わたしはいる。あなたと共にここにいる。」と語りかけてくださっているのです。信じることができない、心の鈍い弟子たち、そしてわたしたちに主イエスは常に「わたしだ。」「わたしはここに共にいる。」と語りかけてくださいます。そうして主イエスが舟に乗りこまれると、風は静まったのです。「弟子たちは心の中で非常に驚いた。」と聖書は記します。それはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。と続けています。弟子たちはパンの出来事から何を理解するべきだったのでしょうか。弟子たちは、主イエスが「人となった神である」ということが、理解できていなかったのです。主イエスが「人となった神である」そのことを理解するべきだったのです。

メシアの秘密、それは主イエスが人となった神である、そのことが隠されているのだ、とお話してきました。主イエスが人々にそのことを譬えでお語りになり、しかし、弟子たちには譬えなしに、語られたにもかかわらず、弟子たちは、主イエスが「人となった神である」このことを理解してはいなかったのです。この弟子たちの無理解に驚くような気も致しますが、実に私たちを含む人間はそのような者であることを思わされます。「神が見えない」それは信仰を持たない人のことではありません。信仰を持っている者たち、弟子たち、私たちの問題なのです。


■無理解の中で

さて、今日は52節までではなく、56節までを読んでいただきました。主イエスによって風が静められ、一行を乗せた舟は、湖を渡ってゲネサレトという地に着きました。その地では、主イエスがおられると聞けば、人々が病人を運び、村でも町でも里でも、つまり、どこでも、だれもが、主イエスに触れさせてほしいと願い、せめて服の裾にでも触れされてほしいと願い、そして癒された。と書かれております。ここにも、大勢の病人への癒しを求める群衆の姿が描かれています。この群衆たちも主イエスを自分の願望を叶えてくれる救い主として見ているのです。主イエスに触れることで、ご利益を得ようとしているのです。主イエスに近い弟子たち、そして新たな地の人々、誰一人、主イエスが人となった神であることを理解していなかった。人間の無理解をマルコは徹頭徹尾、示し続けます。しかし、主イエスは主を理解しない者たちのために、十字架にお架かりになり救いを完成するという道を歩んでいかれたのです。


■結び

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」というこの言葉は、旧約聖書申命記31章を思い起こさせます。モーセがヨシュアを後継者として立て、ヨルダン川を渡って約束の地に入って行こうとする時に語った言葉です。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」

私たちは試練の中で、満ち溢れる主の恵み、常に共にいてくださるという最強の恵みを忘れ、そして神がみえなくなる愚かな者たちであります。逆風に漕ぎあぐねるその時、神は祈りの中で私たちを見て、そして私たちのそばを通り過ぎようとされます。そして神は決して、私たちを見放さず、見捨てることはないのです。そのことを忘れがちな私たちに対して言ってくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」どんな困難な時であっても、神は必ずそばにいてくださるのです。そしてそれはまるで風が吹くかのようにかすかな気配です。しかし、主の前に鎮まり、主を信頼する時、私たちにその存在を表すために通し過ぎようとされる神が、まさに私のそばにいてくださることを知るのであります。

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