説教題: 『輝きに導かれて』 聖書箇所: マタイによる福音書 2章1~12節 説教日: 2023年12月17日・待降節第3主日 説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」今日の御言葉、2章1節はそのように始まります。主イエスの誕生に関して、マタイはこの一行だけを記しています。主イエスの誕生はルカによる福音書にも記されており、ルカは主イエスの誕生の次第を詳しく、つまり住民登録のために、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へヨセフとマリアが旅をしている途中で月が満ちて、お生まれになったこと、宿屋に部屋を取ることができず、馬小屋のようなところで産まれて飼い葉おけに寝かせた、と記しています。それに比べて、マタイは、単に、「ヘロデ王の時代」に「ユダヤのベツレヘムで」とこの2つだけを告げるのです。マタイはこの一文にどのような思いを込め、何を伝えたかったのでしょうか。主イエスのお誕生の喜びを味わうこのアドヴェントの時、私たちは改めて心を向けたいと思います。
■ヘロデ王の時代
ヘロデ王の時代、つまり、紀元前47年にガリラヤの統治者となり、紀元前40年にローマ帝国元老院によって「ユダヤの王」と名付けられたヘロデ大王のことであります。ローマはこの時代、初代皇帝アウグストゥスのもと、地中海世界全域を支配していました。そのローマ帝国にうまく取り入る形で、ヘロデはユダヤの統治者から、ユダヤの王として認められるまでになっていました。元々彼はユダヤ人ではなく、彼の父アンティパスがユダヤ総督となって実質的な権力者となった時に、ガリラヤ地方の知事となったのでありました。その後、自らローマに赴き、オクタビアヌスに忠誠を誓い、ユダヤ王としての地位を与えられました。彼はユダヤ人の歓心を買うために、エルサレム神殿の改築などに力を入れましたが、ユダヤ教徒のローマ化に対する反発も強まり、常に反乱の危機に怯えながら、懐柔と圧政を使い分けて権力をなんとか維持していたのです。そんなヘロデ王でありますから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」という東からの学者の一言に反応しないわけがありません。自分こそが「ユダヤの王」と自認し、王位を守ることに必死になっているわけですから、3節にありますように「ヘロデ王は不安を抱いた」のであります。ヘロデ王は残忍な性格で、自分の地位を脅かす者たちを次々と排除していきました。親族すら信用できず、殺していったというのです。
ユダヤ人の王として、ユダヤにお生まれになったはどこにおられるか、ヘロデは占星術の学者たちのその言葉を利用しようとしました。「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」この言葉が偽りであることは言うまでもありません。自分の地位を脅かす者は身内でも殺したヘロデなのです。学者たちが幼子を見つけたならば殺して、自分の王位を守ろうと考えたのです。まことの王である主イエスは「ヘロデ王の時代」、このような権力者の支配の時代にお生まれになったのでありました。
今はどのような時代でありましょうか。ヘロデ王に限らず、独裁的な人物はわたしたちの生きてきた歴史の中に数えきれないほど見ることができます。ヒットラー然り、プーチン然り。彼らは自らを正しいとし、それに背く者、その地位を脅かす者は排除する、それを繰り返してきました。彼らのそのような振る舞いには誰もが眉を顰めているといえましょう。彼らの最大の関心事は自分であって、自分をその中心に置いております。彼らは為政者であり、良くも悪くも大きな力を持つ存在でありますから、私たちもそのように注目いたしますけれども、もっと身の周りの小さな社会においても、その縮図はみることができます。そして、私たち自身も自分を中心に置くという罪とは無縁ではないと言えるのではないでしょうか。私たち自身も自分を守ることについては、それは正しいことであるとして、当然であると考えています。しかし、それによって、小さな国の王様になっているということにも気づかなければなりません。私たちが自分を明け渡すべきお方がいる、そのお方を中心に生きることが喜びである、そのことに気づいたとき、私たちは自分を喜ばす、自分を満足させることではなく、そのお方の喜ぶことは何か、そのお方は何を望んでいるか、という基準で生きるようになるのです。ヘロデ王だけでなく、「エルサレムの人々も皆、同様であった。」と3節に記されておりますのは、今申し上げたように、人々も口では自分たちの救い主を望みながら、自分を中心に生きていたがゆえに、自分を脅かす存在に不安を覚えた、ということでありましょう。
■わたしの民イスラエル
ユダヤ人たちは神の民であり、主なる神が遣わしてくださる救い主を待ち望んでいたはずでありました。本来、彼らは主なる神に従って生きる人々なのです。しかし、王としてお生まれになった方、その誕生の知らせを聞いて不安になったというのです。祭司長、律法学者たち、この人々は、ユダヤ人が主なる神の民として、神に従って生きるための指導者であります。しかしながら、彼らがしたことは「ユダヤのベツレヘムで産まれることになっている。」とヘロデ王に進言したことでありました。彼らは聖書、つまり旧約聖書を暗記しておりますから、聖書に書かれている知識は豊富なのです。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」預言書ミカ書5章1節、この預言をもとに彼らは告げたのでありました。ミカ書はこう記しています「エフラタのベツレヘムよ」エフラタとは、肥沃な土地、という意味です。マタイはわざわざそれをユダ、ユダヤと書き換えているようです。1節にも、そして2節にも、5節にも、そしてこの6節にも、ユダヤ、ユダヤ人の王、というように、マタイは「ユダヤ」を強調しているのです。マタイはこの福音書をユダヤ人のために記しました。ユダヤ人のための、ユダヤに始まる神の救い、主イエスがユダヤ人の王として、ユダヤ人の地にお生まれになったことを告げているのです。ユダヤ人の指導者、祭司長、律法学者たちは、ユダヤ人のまことの王を喜び迎えるどころか、かえって不安を覚えたのでありました。ヘロデ王は最初にお話しいたしましたように、このユダヤ人の王をもちろん受け入れるつもりはなく、抹殺するつもりであります。根絶やしにするために、子どもを皆殺しにするのですから、「わたしも行って拝もう」というのは心にもない言葉なのです。祭司長、律法学者たち、本来であれば、彼らがまことの王を拝み、民と共にその誕生を祝うべきであります。しかし、彼らにそのような考えは全くなかった。自分たちの王を喜び迎えることはなかったのでありました。
■異邦人による礼拝
それと対照的なのが、東の方から来た占星術の学者たちであります。占星術とは、星占いのことでありますが、この時代の星占いは真剣なものでありました。天候がどうなるのか、雨が降るか降らないか、いわば天文学者です。また、隣の国で起こったことなどが自分たちの国の安全に関わってくる、そう言う時代ですから、先のことを知るのはとても大切な役割でありました。この東京でも星を見ることができます。その光を見ていますと、この今見ている光はどれほど前に、つまり何億光年前に放たれた光なのだろうか、とロマンに浸ることができます。そしてそれと同時に、この地球は、宇宙の中のほんの小さな星に過ぎないということがわかります。それを創造された神の偉大さにおののきさえ覚えるのです。この占星術の学者たちは星を見ることを知っていた人たち、そしてこの世界を動かしているのは人間ではないということも知っていた人たちであり、この世界を造られた方に敬意をもっていた人たちです。その人たちが星の数ほどもある空の星の中に、救い主の誕生のしるしを見出したのでありました。
そして「東」というのがどこを指すのか、これも正確にはわかりませんが、イスラエルを攻めたバビロニア、ペルシア、いずれも東であります。バビロンには長くイスラエルの民が捕囚生活を余儀なくされておりましたから、ユダヤ人が救い主を待ち望んでいたことも知っていたでありましょう。いずれにしても、彼らはユダヤ人ではなく、異邦人でありました。ユダヤ人は自分たちが神の選びの民であり、異邦人は神の選びからははずれていると蔑んでいたのでありました。そのような人々が、ユダヤ人の王の誕生を知り、はるばる遠い道のりを献げ物を携えてやってきたのであります。この異邦人の学者たちの存在は、神の救いは全世界に及ぶものであるという壮大なご計画を指し示しているように思えてなりません。本来、神から選ばれていたはずのイスラエルの民に喜びはなく、救いの外にあると思われていた異邦人が危険を顧みず、やってきたのです。それが神の導きでなくてなんでしょうか。そんな彼らを「星が先だって進み」、主イエスのもとへと導くのであります。そして、「ついに幼子のいる場所の上に止まった。」10節にはすばらしい言葉が書かれています。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」ヘロデはともかくとして、ユダヤ人祭司長、律法学者たちは喜びでなく、不安を覚えた、これとは正反対な姿がここに示されています。主イエスというまことの王のもとに導かれ、喜びにあふれ、そして御前にひれ伏す、これが神を礼拝する者の姿であります。
■三つの贈り物
幼子の誕生をまことの王の誕生として崇め、その御前にひれ伏した学者たちは、献げ物を携えてまいりました。それは黄金、乳香、没薬であると11節に記されています。黄金は文字通り、金であり、古代から貴重なものでありました。シェバの女王がソロモン王を訪問したとき、多くの金を持ってきた、と列王記上10章にも書かれています。金はその貴重さから、王が所有するにふさわしいものとされていました。この占星術の学者たちも幼子、主イエスがやがて王になる方であると考えていたということがここからもはっきりとわかります。二つ目は乳香であります。乳香とは木から採れる樹液が固まると透明から乳白色に変わることから乳香と呼ばれています。固まった樹脂を焚くと美しい香りのお香となりました。また、香水などに使用する香料の原料ともなりました。今でもアロマではフランキンセンスという名前で知られています。古代においては、神殿での礼拝の聖なるお香として使われたと言われます。ですから、幼子主イエスに乳香を送ることは、王であり、神であると理解していたからであります。そして三つ目は没薬です。ミルラとも呼ばれ、これも木の樹液に由来する香料です。乳香と共に、祈りや聖なる儀式の場で神にささげられてきました。また没薬は防腐剤の働きをするために、古代エジプトでは、ミイラづくりのために使われていたと言われています。主イエスが十字架につけられ、死を迎えられた後、アリマタヤのヨセフによって墓に葬られました。婦人たちはそれを見届け、香料と香油を準備いたしました。この香料、香油が没薬であったと言われています。主イエスの死に際して用いられたこの没薬を、学者たちは生まれた時に献上いたしました。その死をもって、人々を救いに導く王であるということを予測して没薬を贈ったとも言われたりも致します。当時、高価で貴重であったとはいえ、主イエスがこの世に来られたのは十字架で死ぬためであった、というのが神のご計画でありましたから、没薬が捧げられたという出来事は、罪の贖いという使命を暗示していたといえるでありましょう。
■結び
闇夜に学者たちは星に導かれて歩み、そして幼子イエスに出会いました。イザヤ書9章1節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰に地に住む者の上に、光が輝いた。」主イエスは闇夜に輝く光でありました。闇夜を歩んでいたのは学者たちだけではありません。私たちも同じであります。今、私たちが歩むこの世界にも様々な混乱があり、それぞれにある悩みや悲しみは尽きません。しかし、神は私たちと共におられる。イザヤ書60章1~2節にはこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。/見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。/しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。」私たちの歩む道は主イエスが先立ち、私たちの歩むべき道を照らしてくださいます。それは神によって与えられる豊かな道なのです。この幼子の誕生というクリスマスの出来事は、私たちまで続く神の恵みの豊かさを伝えてくれる出来事なのです。感謝して主のご降誕を祝いましょう。
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