『平安を告げる』2025年6月29日
- NEDU Church
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説教題: 『平安を告げる』
聖書箇所: 旧約聖書 民数記6:24-27
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書10:1-15
説教日: 2025年6月29日・聖霊降臨節第4主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所は10章1節からといたしましたけれども、実は前回の9章35節からつながっているといってもよいところです。前回までの8-9章では主イエスによる癒しの御業が、その前の5-7章では主イエスの教えが語られており、それらの時、弟子たちは常に共にいました。主イエスが町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気や患いを癒やされた。そして、そのように救いを求めている人々が多いにも関わらず、働き手が少ない。どうぞ働き手を送ってください、と主に祈りなさい。主イエスは弟子たちにこのようにお話しになられ、共に神に祈ったのでありました。
■十二人の弟子
そして主イエスは大勢の弟子たちの中から十二人をお選びになりました。この十二人は何のために選ばれたのかと言えば、5節にありますように、派遣するためです。そうして派遣するために、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すための権能、特別な力をお与えになりました。使徒とは遣わされた者という意味の言葉です。今日の箇所はその十二使徒を派遣するにあたっての主イエスの教えです。彼らの使命、それは7節、8節に記されています。異邦人ではなく、イスラエルの民のところに、そして「天の国は近づいた」と宣べ伝えること。病人を癒したり、悪霊を追い出したりする特別な力は「天の国は近づいた」という救いを告げ知らせるためのしるしであります。この彼らに与えられた力というのは、ここまで共にマタイ福音書を読んでまいりました中で、主イエスご自身が病人や、悪霊に取り憑かれた人に対してなさってきた事柄です。彼らはそれを間近でみてきました。弟子たちに与えられた力はそれと同じものです。百聞は一見にしかず、と言いますように、彼らにその力を見せることで訓練されていたとも言えることなのです。主イエスは、人々、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てて、そして打ちひしがれているのをご覧になって深く憐れまれた、と36節にありましたように、そのような自らの体が痛み、悲しみを覚えてその深い憐れみの心が人々の間で実現していくための「働き手」として弟子たちを遣わされたのです。
■使徒の定義
「使徒」と言いますのは、主イエスから直接に任命された十二人、そしてパウロまでを言います。主イエスが最初にお選びになった使徒とは、今日の箇所にありました十二人です。もう一人のパウロ、少し余談になりますが、パウロについてお話ししようと思います。彼はそもそもは主イエスを信じる者たちを迫害していた人でありますが、使徒言行録9章に記されておりますように、ダマスコ途上で、主イエスから「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との御声を聞いて、回心へと導かれました。そして主イエスの救いを伝える者となったわけですが、それまで敵対者であったわけですから、使徒であったペトロたちに受け入れられ、共に宣教に携わるとなるまでの道のりは大変なものでありました。最後までスパイではないか、とも言われ、また、それまでのユダヤ教の同胞たちからは裏切り者とされたのでありました。ペトロたちがイスラエルの民への伝道、パウロが異邦人伝道へと示されて、現在のこの地の果ての日本にまで主イエスの救いが告げられているのはパウロの働きなしには起こり得なかったことであります。聖書巻末にあるパウロの伝道旅行の地図を見ていただいてわかるように、パウロは地中海沿岸からローマに至るまで主イエスの救いを伝え続け、各地に教会を建て、そしてそれらの教会に手紙を書き送りました。ローマの信徒への手紙の1章1節-273頁に「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と彼は記しています。今申し上げたように、裏切り者であるとか、スパイであるなど言われるゆえに、パウロは主イエスの僕である、主イエスによって見出され、選ばれ、召されて使徒となった、ということを強く主張するのです。
さて、ここで選ばれた弟子たちは十二人。彼らの数が十二人だったということには大きな意味があります。アブラハムの孫であるヤコブが、主なる神からイスラエルという名前を与えられて、そしてその息子と孫の十二人が神の民イスラエルの十二部族となりました。この十二人の弟子の数というのは、このイスラエル十二部族に重ねられています。この主イエスによって選ばれた十二人から、新しい神の民、新イスラエルが、つまり、教会が生まれていったということです。神の選びによるイスラエルは、民族の選びという枠から、新たな主イエスによる「天の国は近づいた」という福音が伝えられて広がり、そして天の国をもたらした主イエスを救い主と信じる者たちの群れとなります。この主イエスの選びによる十二人が遣わされ、そして全世界へと広がっていきました。こうして宣べ伝えられた福音を信じる者たち、つまり新しい神の民として教会に連なる者たちすべてが、それを宣べ伝え続けるという同じ使命を与えられている、主イエスによって遣わされているのです。そして、私たちに与えられている教会は、使徒にそのまま遡ることのできるものであり、私たちも信仰告白において、「福音を正しく宣べ伝え」と告白していることとしっかりつながっているのです。
■派遣されたのは私たち
今日の箇所は十二人を派遣するにあたり、ということでありますけれども、この後のマタイ書を続けて読んでいきますと、面白いことに気付かされます。それはこうして派遣された十二人が具体的にどうしたということはほとんど語られていないということです。弟子としての活動見本というか、その働きの詳細はこのマタイ福音書では語られないのです。つまり、マタイはこの十二人が何をしたか、ということではなくて、この福音書を読む者たち、それは2千年前から、今現在に至るまでの読む者たち、主イエスを救い主と信じる弟子たちが、それぞれに「働き手」としてどのように歩むのかを読み取らせようとしているということです。派遣された者たちが何をするのかは、彼らのことではなく、私たちのこととして示されているということなのです。主イエスと共に歩んで、主イエスによって直々に選ばれた弟子たちと同じだなんてとても思えないし、そのようなことができるわけがないと思うかもしれませんが、ここで注目すべき言葉は、8節にある御言葉です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」彼らは主イエスの弟子として派遣されるにあたり、全てのものが神から与えられました。求められたのは、祈ることだけであります。彼らの働きは地上のものによらず、主イエスの委ねてくださった権威と約束とだけを持っていくのです。とは言っても、この主イエスの「委ねてくださった権威と約束」これにより頼み、これを信じ、他のものは何も必要としない、ということが厳しいことであるというのは私自身にも経験があります。神学生時代、別の教会で説教する機会が与えられた時、聖書、讃美歌、説教原稿のほかに、ギリシア語の辞書、釈義辞典、イスラエル史のテキスト・・・など、途方もなく重たい本をあれこれ持っていったほうが良いかななどと思ったものです。結局は使わずに、ただ持っていって持って帰ってきただけです。そのように自分の力で自分を武装したくなってしまったということです。それは怖かったからでありましょう。そしてそれは神の力を信頼していない証しでもあるのでしょう。本来、私の役割はただ、主から受けた恵みを語るだけ、主の救いの喜びを伝えるだけでした。自らの知識により頼みたいというような自分との闘いのときを何度か経験し、そのような時を経て、神から受けたもの以外で働こうとしてはならないということがからだで感じられるようになったように思います。自分の力、自分の持ち物はかえって邪魔であり、ただ神の恵みによって、ただ神から必要なものを与えられて歩んでゆくということです。弟子たちのような、伝道者のような働きではなくとも、私たちが受けている恵み、それはただ神から無償で、ただで与えられたもの。神から無償でいただいた恵み、愛を隣人へと差し出し、与えてゆくように勧められているのだと思うのです。
■平安の挨拶
5節でマタイは主イエスが「異邦人の地、サマリア人の町に行ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と言われたと記しています。まずイスラエルに行きなさいと言われたと言われました。イスラエルの救いがあり、そして異邦人への救いがあるということです。異邦人の救いはもう少し後、復活のキリストの大宣教命令によって、世界へと広がっていくということなのです。彼らの伝道は彼らの理想とか、考え、熱意によってなされるのではなく、主イエスの命令、主イエスの委託によってなされました。そのようにして遣わされた弟子たちは「平和があるように」と挨拶しなさいと言われています。「平和」と訳されている言葉は、原語では「シャローム」です。この言葉は「平安」という語感の方が原語の持つ意味に近いように思います。このシャロームという言葉は、満ち足りるとか、完成するというような意味を持っています。イスラエルという国は周囲の大国のはざまで翻弄されて、戦いが止むことはありませんでした。ですからイスラエルの人々にとって平和、平安は願いでありました。それゆえにこのシャロームという言葉は、戦争のない平和な状態という意味も持ちますけれども、そのような対外的な平和、平安というだけではなく、安心、安寧という内面的な意味を持ちます。礼拝を締めくくる祝福において、民数記6章24節以下のアロンの祝福を告げておりますけれども、ここでの「主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」という「平安」もシャロームです。こうして告げられた人々に平安が約束され、人々の内面にシャロームが実現する時、平安、平和、安寧が約束されるのです。そしてその約束を実現してくださるお方、平安をもたらすのは神なのです。主イエスが弟子たちに「その家に入ったら、『平和があるように』と告げなさい」と言われたのは、人間同士の挨拶以上の意味を持っているということです。1平和の挨拶、神からの平安を受け入れるかどうか、ということです。彼らが告げるのは「天の国は近づいた」ということです。それは神の支配が始まったということを告げるということであり、この平和、平安は神が支配しておられることによってもたらされるものであるということです。
■結び
主イエスのお誕生のシーンを思い出してください。ルカ2章14節、天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と言って神を賛美しました。「地に平和」、それは主イエスのお誕生のクリスマスの時だけでなく、私たちの日々の生活の中に、今、生きているただなかに告げられています。そのように私たちに告げられ、与えられた平和、平安、神の恵みを全ての人と分かち合うために弟子たちは派遣されました。弟子たちの働きは教会となり、そしてそれが今の私たちにまで届いているのです。私たちは「あなたがたに平和があるように」と告げられ、なんの資格もなくとも罪赦されて、主イエスから罪の赦しの恵みをただでいただきました。ですから私たちもただで受けたものをただで与えていく者でありたいと思うのです。主イエスはご自分の救いを、神による平和を、全世界へと広げ続けておられます。私たちもそのために遣わされています。今、世界は混沌とし、争いが渦巻いていますけれども、それぞれに遣わされている場で、自分たちの現実の中で、「あなたがたに平和があるように」と告げ、そして祈ってゆくこと、それが神からいただいたものを誰かにただで差し出していくということの始まりなのです。
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