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『主に望みを置く人は』2025年6月15日

  • NEDU Church
  • 6月16日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『主に望みを置く人は』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書40:27-31

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書9:18-26

説教日: 2025年6月15日・聖霊降臨節第2主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日の箇所の始まりの18節には「イエスがこのようなことを話しておられると」とあります。どのようなことをお話になられたのかと申しますと、直前の新しいぶどう酒と古い皮袋の譬えのことでありましょう。となりますと、今日の御言葉の場面設定は9章9節にありますマタイの家での食事の場面に続いているということになります。14節の始まりの「そのころ」というのは、協会共同訳聖書では「その時」となっており、罪人たちとの食事の時とまさにつながった状況であることを前回お話しいたしました。今日の箇所はマルコやルカにも記されており、マルコの方がより詳しく書かれています。指導者とありますのは、ヤイロという会堂長として名前も記され、娘が死にそうであるという緊張感、臨場感もリアルに表現されています。それに比べてマタイは淡々とした表現で記されておりますが、マタイの意図するメッセージを読み取ってまいりたいと思います。

 

■悲しみと喜び

マルコ福音書を見ますと、この会堂長の娘と服に触れる女性の話は、悪霊に取りつかれたゲラサの人の癒しの出来事に続いて記されています。ゲラサの人の癒しが5章1節から20節、この出来事が21節以下と続いています。マタイでは8章の終わりに悪霊に取りつかれた人の癒しの出来事が語られていました。続けてマタイ9章のはじまりにこの出来事が置かれているかというとそうではなく、9章1節から17節までが語られた後に、この出来事を置いています。それを繋げるのが、今日最初に申し上げた18節の「イエスがこのようなことを話しておられると」という言葉です。こうしてマタイは直前の17節までとこの後の出来事を繋げています。つまり、断食をしないことへの抗議に対して、主イエスは今は婚礼の喜びの時、悲しみの断食は相応しくないと言われたのでした。徴税人や罪人たちが主イエスに招かれて喜びと祝いの席につく、これが主イエスがもたらした新しい酒であり、それを入れるには断食という古い皮袋は相応しくないと言われたのでした。こうして古い悲しみから新しい喜びが示されたというのが17節までにマタイが記したことなのです。そして新しい喜びの周りにある現実がここに示されます。それが「娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」と言ってきた指導者であり、それに続く十二年間も出血が続いている女性です。いずれも喜びを失った人たちです。この対比は人間の現実世界そのものを表しています。主イエスによる喜びと祝いは、この人間の現実世界において、存在する死、悲しみ、苦しみを打ち破ることができるのか、そのことがここで問われているのです。

 

■立ち上がる主イエス

19節にはこのようにあります。「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。」先ほど申しましたように、主イエスは徴税人や罪人たちと喜びと祝いの食事をされていたわけですから、その宴席から立ち上がり、そしてこの指導者について行ったというのです。喜びと祝いから悲しみと死に立ち向かうために、主イエスは立ち上がられました。この9章において、この「立ち上がる」という言葉は繰り返し使われています。1節以下の中風の人を癒す出来事において、主イエスは5節でこう言っておられます。「『あなたの罪は赦される』というのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか。」この「起きて」と訳されている言葉は5節、6節、7節と続けて使われております。そして、同じ言葉がこの19節で主イエスが立ち上がられたところ、さらには今日の最後の25節、「すると、少女は起き上がった。」でも使われています。この言葉の使い方としては、立つ、起きる、という単純な動作だけを表しているのではなく、眠りから、病気から、死から目覚めさせる、という意味を持っています。中風の人も長年、寝たきりであった状態から、起き上がった、それは新たな世界への目覚めでありました。主イエスはそのように新たな世界を開くため、指導者の娘を目覚めさせるために、立ち上がられたということです。

 

■女性の癒し

そうして指導者の娘のところへ向かう途中で、十二年間出血の続く病気の女性との出会いがありました。出血が止まらないというのは、単に病の苦しみではなく、当時は宗教的な汚れを意味していました。宗教共同体から切り離されて生きて行かなくてはなりませんでした。社会的には徴税人や罪人たちと同じように疎まれ、蔑まれた存在でした。自分でも神の祝福からは遠い存在であると思っていたことでしょう。そのような彼女、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる。」と思って、主イエスの服の房に触れたとあります。この出来事はマタイだけでなく、マルコ、ルカにも記されておりますけれども、マタイだけ異なった書き方をしています。マルコとルカでは、触れた途端に出血が止まり、病が癒やされたとなっていますが、マタイでは「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」と22節に書かれています。彼女が癒やされたのは、主イエスの服の房に触れたことによってではなく、主イエスが彼女にお言葉をかけられ、それによってであるということをマタイは強調しているのです。「元気になりなさい」という言葉は、中風の人にも同様に、「子よ、元気を出しなさい」と言っておられたことが9章2節に示されています。その箇所の説教でもお話しいたしましたけれども、この「元気を出す・元気になる」という言葉は、主イエスからの「大丈夫なのだ、安心しなさい」という平安が告げられている言葉なのです。中風の人の癒やしでは、この言葉に続いて「あなたの罪は赦される」と主イエスは言っておられました。主イエスが与えてくださる救いの中心は「罪の赦し」です。主イエスが罪を赦す権威を持っているということを示すために癒しの御業がなされたのです。中風の人に癒しと赦しが告げられたように、主イエスはこの女性にも癒しと共に赦しが告げられて、そして徴税人や罪人たちと同じ食卓に招いておられるということです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」そのようにファリサイ派たちに宣言された主イエスが彼女を招いて、神の喜びと祝福、祝いの中にあずからせてくださっています。

 

■主イエスの恵み

そうして主イエスは指導者の家へと行かれました。すでに少女は死んでしまっており、人々が嘆き悲しんでいました。主イエスはそれらの群衆に向かって、「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。それを聞いた人々はイエスをあざ笑った、とあります。この反応は私たちからしても普通のことではないでしょうか。身近なところで、人が亡くなる。その場にやってきた、「この人は眠っているのだ」と言ったとすれば、私たちも、心の中ではそうであればどんなに良いだろうとは思いながらも、そんなことはありえない、と失笑するのではないでしょうか。それが当たり前の中で、主イエスは人々を追いやられる。その悲しみや人間の愚かさと離れたところで、主イエスは死にたちむかわれる。この指導者は手を置いてくだされば、娘は生き返るでしょう、と言いましたけれども、主イエスに死者を復活させる力があると信じていたでしょうか。それが彼の信仰でしょうか。そうではないのです。悲しみ、絶望の中で、そうすることしかできなかった。ただ、主イエスに「助けてください」という言葉しか、言えなかったということなのです。十二年間出血の止まらなかった女性も同じです。服に触れれば治してもらえるなどという迷信的なことを信じていたのではなく、「助けてください」という思いを形にしたのが、服に触れたい、ということであったのです。主イエスはそのような私たち人間の切なる願いを受け止めてくださり、そしてそれを「あなたの信仰」とよんでくださっているのです。この指導者、この女性、そして私たちが立派な信仰を持っていたから救われたのではなく、私たちの救いはただ主イエスの恵みなのです。私たちにできることはただ主を呼び求めることだけなのです。そうして主イエスは徴税人を、罪人を、汚れと言われている女性を、そして私たちを、喜びと祝いの宴席に招いてくださり、共に食事に与らせてくださる。その恵みによって私たちは救われるのです。

 

■起き上がる少女

この少女は主イエスが手をお取りになると、起き上がりました。先ほども申しましたように、この「起き上がる」とは、死から目覚めさせる、という具体的な意味を持っています。主イエスは何のために人としてこの世に来てくださったのか、それは悲しみ、苦しみの中にいる人間に寄り添うためでありました。そして、罪人を招き、祝いの食卓に着かせ、共に喜び、そしてその罪人の罪を主イエスが代わりに背負ってくださる、そのために来てくださったのです。そしてその主イエスの歩みの行き着く先は十字架であったということです。主イエスはその道をすべてお引き受けになる覚悟で、すべて知っておられて、歩まれました。それゆえに、この時、少女を目覚めさせることがおできになりました。「起き上がった。」というこの言葉は、死から目覚めさせる、という意味であると先ほどからお話ししていますけれども、それはつまりは、主イエスの復活、死からの甦りを意味しているということです。この時に目覚めさせられた少女は生き返った、それは元に戻ったのではないのです。十二年間出血の止まらなかった女性が癒やされたのも、病気以前の12年前に戻ったのではないのです。私たち人間の生は、死を持ってその時計は止まります。主イエスのなさった御業は、この少女、この女性の時計の針を戻すことではなくて、死を突き破って、時計の針を先へと進められたということなのです。主イエスは十字架におかかりになってくださり、そして十字架上で死を迎えられました。そして父なる神は愛する独り子である主イエスを三日目に甦らせたのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマの信徒への手紙6:23にこうありますように、私たちは必ず死を迎えますが、父なる神は主イエスを復活させてくださった。そのことによって、主イエスを信じて、従っていく信仰者たちにも、死は終わりではなく、永遠の命という賜物を神は与えてくださったのです。少女の復活は、主イエスを信じる者たちに与えられている永遠の命という希望の先取りなのです。「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」主イエスのこのお言葉は、主イエスの復活ゆえに、死は眠りであり、必ず目覚める時が来るという希望、目覚める時を待つ眠りであるという希望が示されているのです。

 

■結び

私たちの信仰は、この世の苦しみや悲しみ、些細なことで揺らぎ、罪の現実の中で消えそうになることさえあります。しかし、主イエスはそんな私たちに、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださる。それは、私を信じ、私により頼む者は祝され、そして、私と共に生きる、という主イエスからの救いの宣言です。主により頼む者は、新たな力が与えられ、走っても弱ることなく、歩いても疲れない。そして死を突き破って生きる希望死に打ち勝った永遠の命が与えられているのです。これが神の絶えることのない恵みであります。

 
 
 

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