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『主イエスに見出された者たち』2025年6月22日

  • NEDU Church
  • 6月23日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『主イエスに見出された者たち』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書35:1-10

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書9:27-37

説教日: 2025年6月22日・聖霊降臨節第3主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日の箇所では二人の盲人、口の利けない人の癒しの御業が記されています。このマタイ福音書のことで繰り返しお話ししておりますのが、5-7章が主イエスの教え、そして8-9章が癒し、が語られているということです。5章直前の4章の23節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とありました。そして今日の35節には「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とほとんど同じ言葉が記されています。つまり、5章以下の教え、8章-9章の癒しのまとめの部分が今日の箇所であるということです。

 

■二人の盲人の叫び

主イエスが指導者の娘を生き返らせた、という噂はあっという間に広がり、大騒ぎになっていたことでしょう。そしてそこからお出かけになった途端に、興奮している群衆の中に、二人の盲人もいたのでありましょう。目の見えない方というのは、聞くことや肌で感じる気配に敏感です。いつもと違うことが起こっていると感じたのです。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだとあります。「ダビデの子」とは「救い主」という意味です。この福音書記者マタイは、第1章1節「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書き始めました。「アブラハムの子ダビデの子」はユダヤの人々が待ち続け、全世界の人々に救いをもたらすメシアの称号として用いられています。この二人の盲人が主イエスをそのような救い主であると信じていたかどうかということはわかりません。ただ目の見えない苦しみの中で救いを求めていたことは間違いありません。主イエスがさまざまな病気を治し、死んでしまった少女を生き返らせたということを聞いた彼らは、この人なら自分たちを見えるようにしてくれるかもしれないという期待を持って、ダビデの子よ、と呼びかけただけかもしれません。彼らは主イエスに叫びましたが、そのとき、主イエスは彼らの声に足を止めることなく、そのままどんどん通り過ぎて家に入ってしまわれました。その家、おそらく、定宿にしていたペトロの家であろうと思いますが、そこに入られると、その盲人たちはついてきていました。そして主イエスは彼らに語りかけられます。「わたしにできると信じるのか」と問われました。つまり、「あなたがたはわたしを信じているのか」という問いです。主イエスはわたしたち一人一人にも同じように問いかけておられます。わたしたちも主イエスに招かれ、主イエスを救い主と信じますか、と問われて、「はい、信じます。」とお答えするわけですが、第一コリント12:3でパウロが言うように、聖霊の働きによってわたしたちはそのようにお答えすることができるのであって、わたしたちの「はい、信じます」と言う一言は主イエスが引き出してくださったのではないでしょうか。この二人の盲人たちが「はい、主よ」と主を呼ぶことによって導かれ、身を委ねるのです。主イエスは二人の「はい、主よ」を受け止めてくださって、「あなたがたの信じた通りになるように。」とおっしゃって、彼らの目を開いてくださいました。この言葉は信じればその通りになると言うようなことではないのです。主イエスによる救いは、人間の信仰の大きさ、力によるのではなく、ただ主イエスの恵みの御心によって実現するのです。救いとは目が開かれることです。神によって肉体の目ではなく、心の目が開かれる。この二人の盲人の出来事はわたしたちにそのことを示してくれております。そして、主イエスは彼らが叫んだ声には耳を傾けず、家に入られて癒しの御業をおこなわれたということの意味は、家に入ってから彼らと相対して、いわばひっそりと、癒しをなさろうと考えたのではないかと思うのです。それはこの後にも登場するファリサイ派の敵意を知っておられたということでありましょう。また、群衆の勝手な期待が一人歩きして、まるで主イエスがなんでも願いを叶えてくれるスーパースターのように思われることを警戒されたからであろうと思います。ファリサイ派の敵意のみならず、群衆の勝手な期待はどんどん大きくなり、そして見えない溝は深まり、最終的に群衆もまた、主イエスを憎み始めて、十字架につけろと叫ぶようになるのです。

 

■口の利けない人の癒し

さて、二人の盲人の癒しの後、悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れてこられたと記されています。そして33節には主イエスによる癒しの御業を見た人々の反応が語られています。「群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。」今日の35節に、主イエスがありとあらゆる病気や患いをいやされたことが記されておりますように、この口の利けなかった人の癒しだけではなく、主イエスの数々の癒しの御業に対する反応でありましょう。わざわざ「イスラエルで」と書かれております。イスラエルは神の選びの民。今日の旧約聖書、イザヤによる預言、35章の5節以下に預言されている神の救いが実現し始めたということです。イザヤ書35章5節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」とありました。「そのとき」とは救いの時であり、そのときには、35章10節に語られているように、「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。」そのような始まりが主イエスによってもたらされたということです。

 

■悪霊の頭の力

しかし、ファリサイ派の反応は違いました。主イエスの奇跡の御業の数々を目の当たりにしながらも、彼らは「主イエスは悪霊の頭であり、その力で悪霊を追い出している」と言ったのでした。この箇所34節を読みますと、主イエスの癒しの御業の記事の締めくくりに相応しくないと言いますか、このファリサイ派の否定、非難の形で終えた意味はなぜのだろうかと少し不思議に思います。聖書は実に率直にこの二つの相反する反応を記しています。このここでのファリサイ派の言葉は、この後のマタイ福音書12章に記されているベルゼブル論争の先取り、前触れとして示されています。この後、主イエスの御業が重なり、そして主イエスの御言葉が語られていけばいくほど、賛美や理解が深まるのではなく、彼らにとっては敵意が深まる、憎しみが重なり、どうやって主イエスを殺そうかと計画するようになっていくのです。こうして主イエスの癒しの御業に対して、救い主の到来であると感じて素直に喜ぶ人々と、このファリサイ派のように疑心暗鬼な思いでそれを見つめる者たちの二通りが示されるわけですけれども、ファリサイ派の姿に自分自身の姿が重なっていることに気付かされます。主イエスの愛の御業を受け入れず、主イエスの御言葉を拒む、そのような姿です。そのような不信仰が自分の中に巣を作っている。どうしようもない罪の深さとそしてそれに対する頑なさがあることを感じるのです。「頑なさ」、別の言い方をすれば「頑固さ」というこの言葉は、旧約聖書において、神がイスラエルの民によく語られた言葉であります。口語訳聖書では「うなじのこわい」という表現でした。本来の意味は、牛が首にくびきをかけられるのを嫌がって抵抗する表現です。それが首がこわばる、頑固、強情、という意味で使われるようになりました。民は神の言葉を受け入れず、神に従わず、自分の思うままにしてきました。神が選び、愛したイスラエルの民は頑なな民でありました。これが人間の持つ罪です。私たちも同じであり、それゆえに、主イエスの御業、お言葉に、首を縦に振ることができないのです。ファリサイ派は自分の受け入れられないものは悪霊の仕業だと言ってのけました。それは、主イエスに向かって、あなたの御業が神のものであるかどうか、あなたが本当の神であるか、そしてあなたが救い主であるかどうかは、この私が決める、と思っており、そう言っているということです。主イエスのお姿は輝くお姿ではなく、暗いものとなって、その真のお姿は見えなくなる。私たちも輝く素晴らしい主イエスのお姿が見えているかと思ったら、時にそのお姿を見失うことがある。その時、私たちは主イエスを拒み、主イエスに対して頑なになっている時であるということを肝に銘じておく必要があるのだと思います。

 

■深い憐れみ

4章23節の「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」はその後の主イエスのお働きのプロローグであり、今日の同じ御言葉35節はそのお働きのエピローグであります。そうして5章からの教え、8章からの癒しのお働きが締めくくられております。そしてこの35節はその後の36節に続いております。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」主イエスは5章からの教え、8章からの癒し、そこで接した人々、それらの人々はまるで飼い主のいない羊のようであって、弱り果て、打ちひしがれている、そのようにご覧になって、御国の福音を宣べ伝え、癒しの御業をなさった。それが主イエスの憐れみの御心であります。「憐れむ」というと私たちは「かわいそうに」というような感情をイメージしますけれども、そのようなその人たちを下に見るようなことではありません。ここで使われている「深く憐れむ」という言葉は、内臓ということばからきています。つまり、はらわたがよじれるような痛みを持って、ということなのです。ここで「飼い主のいない羊」と記されておりますけれども、イスラエルの民は旧約聖書以来、羊の群れに喩えられてきました。詩編23編に「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と詠われてきたように、主なる神という羊飼いに守られ、導かれて歩んできたのです。羊は羊飼いがいなければ、自ら餌を得ることもできず、身を守ることもできないのです。ですから羊飼いがいない羊の群れというのは、どうしたら良いのか、右も左もわからないという弱々しい状態です。当時の指導者であるファリサイ派や律法学者たちは、神から与えられた律法を教え、民を導く役割を果たすべきでありましたが、その本来の目的を果たせていなかったということです。この羊飼いとイスラエルの関係、そしてその救いということについて、預言者エゼキエルはこのように語っています。エゼキエル書34章5節、「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」続く11節「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」そして23節「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」この主なる神の約束はダビデの子孫としてお生まれになった主イエスにおいて実現しました。主イエスこそが、私たちを導き養ってくださるまことの牧者、羊飼いなのです。

 

■結び

まことの羊飼い、主イエスは弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」神が人々をご自分のところに集められるということを主イエスは収穫と言われました。今よりもっと、多くの人が飼い主のいない羊のように弱り果てる、打ちひしがれると言っておられるのです。そのためには働き手が必要であると言われたのです。それゆえに、もっと多くの働き手が立てられるよう、主なる神に願いなさい。弟子たちにそのように言われことがこの9章に最後に記されています。そして、次回ともに聴きます10章のはじめには十二人を選ぶ、とその働き手となる弟子たちの選びへと繋がっているということです。今を生きる私たちにも「収穫のために働き手を送ってください」と祈るよう、求められています。牧師、伝道者が少ないのは事実であり、そのような働きをする人はさらに必要でありますけれども、それだけではなく、主イエスの弟子となった私たち一人一人が、主の御心にお仕えする者たちとして、主イエスの御国の広がり、御栄光を表す器として用いられる、そのように招かれていることも示されているのです。私たちもまことの羊飼いである主イエスに見出された、その喜びの中で収穫のための働き手として遣わされていることを覚えたいと思います。

 
 
 

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