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『躓きの石は救いの岩に』 2022年10月9日

説教題: 『躓きの石は救いの岩に』 聖書箇所: マルコによる福音書 6章1節~6節a 説教日: 2022年10月9日・聖霊降臨節第十九主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

「この人は大工ではないか。」

故郷に帰られた主イエスに対して、人々が抱いた思いであり、口にした言葉であります。この言葉ひとことで、人々が主イエスをどのような目で見ていたかをうかがい知ることができます。

今日の聖書箇所は主イエスの故郷の者たちの不信仰を伝える箇所です。本日から6章にはいりますが、その前の5章では、悪霊に取りつかれたゲラサの人の救い、長血の女の救い、ヤイロの娘の救い…と慰めに満ちた癒し、信仰の物語が語られていました。それに対して、今日の聖書箇所は信仰に対比させるかのように、不信仰の物語が置かれています。


■故郷

マルコは1節で、主イエスが育たれた場所を、ナザレという地名で呼ばずに故郷と呼んでいます。そして弟子たちも従った、と記されております。弟子を連れてということは、主イエスは教師として戻ってきたということです。神の国の到来を告げる救い主として戻られたのです。ガリラヤ地方における主イエスのお働きはすでに故郷ナザレの村の人々の耳にも届いていました。村人たちも聞いていたことでしょう。安息日に主イエスが会堂でお教えになるということについては、誰も異論を唱えなかったでしょう。ユダヤ教の教師、ラビたちは安息日の教えでは旧約聖書の説き明かしをしていました。ここで主イエスが何をお教えになったかは記されていませんが、主イエスは神の救いの御業が、今ここでの出来事であるということを告げるものであったでしょう。1章15節が伝える「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」であります。ですから、ナザレの村人たちに、「神の招きに応える者になりなさい。わたしを受け入れ、わたしに従う者になりなさい。」とお話しになったのです。


■故郷ナザレの会堂で

並行箇所のルカ福音書4章では、主イエスがイザヤ書61章を読まれたとあります。イザヤの預言は、「救い主は、福音を宣べ伝えるために遣わされ、囚人を解放し、盲人の目を開き、打ちひしがれている者に自由を与える。」というものであります。つまり、主イエスの言葉と行い、主イエスの教えと癒しの御業のことを示しています。そして主イエスは今、それがここで実現しているのだと語られました。ですから「わたしが救い主である」と告げているということです。そのような主イエスの教えを聴いた人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」を驚きの言葉を発します。そして冒頭に申し上げた「この人は、大工ではないか」と言う言葉が続くのです。日本語訳では「大工ではないか」となっていますが、原文に忠実に訳しますならば、「あの大工ではないか」となります。「誰それの家を建てたイエス、あの家を直したイエス」というように具体的にどのような仕事をしたのか知っており、その事が思い浮かんだのでしょう。主イエスはナザレで育ち、30歳くらいまでそこにいたと言われています。父ヨセフの後を継いで、大工としてこの村で働いていました。人々は主イエスの幼いころからのことを知っており、彼らにとっては青年イエスでしかなかったのです。知恵と業に驚嘆はするものの、「主」として見ることはできませんでした。


■マリアの息子

続く3節にも注目したいと思います。「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」人々が母や兄弟姉妹、つまり家族のことはみんな知っている、ということがアピールされています。兄弟、姉妹たちは、おそらくこのナザレの地で結婚し、所帯を持って暮らしているのでしょう。同じ共同体の中にいることがわかります。

ここで「マリアの息子」という言い方は、実は特別な含みを持ったいい方です。この時、父であるヨセフは既に亡くなっていたようです。しかし、ユダヤ人の間では、たとえ亡くなっていたとしても、父の名をあげるのが通例であります。ですから、「ヨセフの息子で」と言うべきところを「マリアの息子で」と彼らは言っています。主イエスの出生の時の出来事、つまり、ヨセフと結婚する前にマリアが主イエスをみごもったことが彼らの心の中に疑惑としてあるのです。

私たちは毎週、使徒信条において、「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」と告白いたします。私たちの信仰告白です。私たちは神への賛美としてこのように口にしますが、ナザレの人々は、陰口として「マリアの息子」と言う言葉を口にしているのです。

主イエスが人として、わたしたちと全く変わらない人としてこの世にお生まれくださった事は、わたしたちにとっては神の偉大な力を示す出来事であります。私たちにとっては大いなる恵みです。しかし、ナザレの人々にとっては、その恵みの業を示す出来事が、恵みとしてあるのではなく、主イエスを受け入れるための妨げになっているのです。このようにして故郷の人々は主イエスに躓きました。


■妨げる力

主イエスは人々の不信仰に驚かれ、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」とマルコは記しています。はじめに申し上げたように、少し前に見てきた5章では主イエスの奇跡、信仰の出来事が示されていました。十二年間出血の止まらない女性が主イエスの服に触れただけで、主イエスご自身が意識せずとも、御力は発揮されました。しかし、このナザレの地では、主イエスはわずかな癒しの他は何もお出来にならなかったのです。それは人々の不信仰のゆえでした。主イエスの奇跡、癒しの御業は、信仰を求めるものです。神と人との真実の交わりをもたらすものだからです。もし、主イエスの奇跡が、ご自分の力を見せつけるためのものであったのならば、主イエスはここナザレでも奇跡を行われたでしょう。しかし、主イエスのなさる奇跡とは、ご自分の力を見せつけるものではありません。神の子であられる主イエスの力を必要とする人が、神を求め、救いを求めるがゆえに、示されるものなのです。それを通して、主イエスは神の御支配がここにあることを示されたのです。ですから、救いを求めている人がいないならば、主の助けを必要とする人がいないならば、奇跡の御業は起こらないし、起こせないのです。ナザレの村の人たちは、カファルナウムで行った奇跡を、自分たちの前でも見せてくれ、という思いを抱いていました。しかし、単なる好奇心によるそのような思いから、主イエスが奇跡をなさることはありません。奇跡は、あなたを救うために、神が今、ここで働いておられる、ということを示すために行われるものだからです。


■故郷では敬われない

主イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」と言われました。すでに見ました3章21節におきましても、身内の者たちは「主イエスが気が変になっている」と思って取り押さえにきたとありました。共に育ち、共に生活していた者が、神の知恵を与えられ、神の言葉を語るようになる、それはなかなか理解しにくいことでありましょう。それは、「主イエスが神の子である」という大前提を理解できていないからです。自分の知っている、自分の判断の及ぶ範囲の中でしか、受け入れられないからです。

ナザレの人々は、会堂で主イエスの教えを聴いた時、驚きました。そして、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と申しました。そこまでは至る所で主イエスの御言葉を聞き、癒しの御業を見た人々と同じなのです。ヤイロもそして十二年間も病に苦しんだあの女性も、驚きと感嘆から始まり、そして信仰へ導かれたのです。神との交わりの招きに応える者となったのです。ナザレの人々は、その時に、あくまでも主イエスを人間イエスとして扱い、自分たちの知っている青年イエスの枠の中で捉えようとしました。それゆえに、主イエスに躓いたのです。この「躓いた」と言う言葉は、「拒否した」とも訳せる言葉です。こうして自分たちの知識において主イエスを理解しようとした故郷の人々は、主イエスが真の神の子であることを拒否し、受け入れることができなかったのです。


■人間の知識によらず

このマルコによる福音書1章1節が「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と語り出すように、主イエスは、神が私たちの罪の赦しのためにお遣わし下さった神の子であり、神の救いの約束を実現する救い主であります。

しかし、そのことは合理的に説明できることではありません。科学的な根拠を求めたり、自分の知識によって納得できるでしょうか?

私たちが直接に目に見えるもの、人間に与えられた視野能力は両目で200度と言われています。これはとても素晴らしい能力でありますけれども、逆に考えると、160度は見えないということです。私たちは自分の見えるものに根拠を求めようとします。そしてそこに自分の知識を加えて判断しようとします。それはある意味では正しい判断でしょう。生活していく中で、人との関係の中で、社会生活を営む中で、自らの知識に、見たもの、聞いたことなどの材料を加えて、様々な情報を処理しているわけです。しかし、わたしたちの知識は絶対的なものではありません。そしてまた、わたしたちが「見えるもの」これも絶対的なものではありません。

もし主イエスをそのように自分の知識や視点で見るならば、主イエスのことを世界史の知識で学ぶような見方で見るならば、ナザレの人々と同じような見方をすることになります。自分の知る限りの知識に主イエスを閉じこめるならば、信仰は与えられないのです。

自分の見える200度を信頼するのではなく、見えない160度を支えてくださる方を信じる。それが信仰です。自分の見えない160度を知っていてくださる方に信頼する、自分の知識によるのではなく、人間の常識を超える主イエスの救いの御業に驚きと畏れをもち、主イエスにひれ伏す時、私たちは自分自身を明け渡し、そしてその時に真の奇跡が起こるのです。人間の力を超えた神さまの恵みの働きを願い求めるならば、主イエスを知る道が開かれます、それが信仰へと続いている道なのです。見えないものを信じる、誰もがそれに不安を感じるでしょう。しかし、わたしたちがそこに足を踏み出したならば、主イエスは必ず受け止めてくださいます。

面白い実験があります。一人の人の後ろに仲の良い友達や家族など信頼のおける人が立ちます。さて、その後ろの人は前から後ろ向きに倒れてくる人を支える、というものです。後ろにいるその人が「絶対大丈夫」と言っても、自分の見えない後ろで支えてくれる人に自分の体を全て委ねて後ろに倒れる、というのはとても勇気のいることで、倒れるひとは「本当に大丈夫なのね」と念を押して、それでも不安を感じる、というのです。人間はそれほど、自分の見えない世界に、ましてや後ろに倒れてそれを支えてくれる人を信頼するということは難しいことなのです。しかし、神様は必ず、絶対に、支えてくださいます。そのような絶対的な存在が私たちには与えられている。私たちは見えない160度を信頼して大丈夫なのです。


■結び

今日の冒頭で、マルコは主イエスが育たれた場所を、ナザレという地名で呼ばずに故郷と呼んでいる、と申し上げました。この故郷と訳されている言葉は、ギリシア語では「祖国」という意味を持っています。ですから、今日の主イエスに対する不信仰、躓きは、故郷ナザレの人にとどまらず、ユダヤ人全体のことを指し示しているのです。故郷の人々が躓き、弟子たちが躓き、そしてユダヤ人全体が主イエスに躓いて、主イエスは十字架へとおくられたのです。すべての人が主イエスに躓いたのです。それは私たちも同様であります。

ペトロの手紙Ⅰ2章6節以下にはこのように書かれております。「『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』従って、この石は、信じているあなたがたにとっては掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、つまずきの石、妨げの岩なのです。」これはイザヤ書と詩編を引用したものでありますが、つまり、神はイスラエルに確かな礎を置き、これを信じる者は決して失望に終わることはない。この礎は主イエス・キリストを指し示しているというものです。そしてこの石は他の何ものによっても変わることのできない掛けがえのないものであると続きます。そしてこの石を信じない者にとっては、それはつまずきの石、妨げの岩でしかない、と述べられています。

神様は主イエス・キリストを親石、かしら石として、教会の土台に据えてくださいました。ですから、わたしたちにとっては、躓きの石は決して躓きの石ではなく、揺るぎない石、いえ、救いの大岩なのです。私たちが自分自身を明け渡し、神様に信頼し、委ねる時、私たちは躓きを乗り越えて、主イエスの十字架と復活において神の救いが実現していることを信じる者へと聖霊によって変えられるのでありましょう。そうして私たち自身が故郷、家族、私たち自身がいる場において、主イエスの救いを証ししていく者となるように変えられていくのであります。


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