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『赦しの恵みの中に立つ』 2025年5月18日

  • NEDU Church
  • 5月19日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『赦しの恵みの中に立つ』 

聖書箇所: 旧約聖書 詩編103:1-13

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書9:1-8

説教日: 2025年5月18日・復活節第5主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

主イエスの癒しの御業が続いています。ガリラヤ湖の向こう側、異邦人の地にまで出向いて、癒し、罪からの解放の業をなしてくださった主イエスは、再び、ホームグラウンドに戻っていらっしゃいました。今日与えられた癒しの出来事はとても有名な物語です。「中風の人の癒し」としてよく知られた箇所です。主イエスのもとに歩けない中風の人を担架か何かに乗せて連れてくる。家の中におられた主イエスのところには運び込むことができないゆえに、連れてきた四人の男の人たちはその家の屋根を剥がして、主イエスのおられるところに降ろした。という印象深いストーリーを思い出す方が多いのではないでしょうか。しかし、この印象深い物語はマルコによる福音書2章、ルカ5章の物語であり、このマタイでは屋根を剥がすという印象的なシーンはありません。マタイではただ、「床に寝かせたまま、イエスのところに連れてきた。」と2節に記されています。もう1箇所、マタイにおいて、マルコやルカと大きく異なるところがあります。それが今日の御言葉の最後8節「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した。」という箇所です。これがマタイの強調点です。今日はこの御言葉に込められた意味は何であるのかを共に聞きたいと思います。

 

■「元気を出しなさい」

今日の癒しの場面では、主イエスが「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は許される」というお言葉をかけておられます。これも今までの癒しの奇跡物語とは異なるところでありましょう。この「元気を出しなさい」という言葉は、このマタイ福音書の9章22節、14章27節でも使われています。9章22節では、12年間出血の止まらない病で苦しんでいた女性に主イエスが、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。また14章27節では、湖の上で漕ぎあぐねる弟子たちのところに主イエスが湖の上を歩いて近づいて行かれ、怯える弟子たちに向かって、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけられた場面の、「安心しなさい」が「元気を出しなさい」と訳されている言葉と同じです。私たちは普通、「元気を出しなさい」と言われると、「元気出してがんばってね」というような励ましの言葉と理解いたしますけれども、そうではなくて、「大丈夫なのだ、安心しなさい」という平安が告げられている言葉なのです。しかし、主イエスのもとに連れてこられた中風で歩けない人にとっても、また連れてきた仲間の人たちにとっても、これは意外な言葉であったのではないでしょうか。彼らが期待していたこと、願っていたことは、中風が治って歩けるようになることでありました。実際には先ほど読みましたように、最終的には癒され実現することではありますが、その前に主イエスは「子よ、元気を出しなさい。安心しなさい。あなたの罪は赦される。」と言われたのです。主イエスはこの人に向かって、私があなたを癒してあげるから、安心しなさい、と言われたのではありません。主イエスのこのお言葉によっては、彼の動かない体はそのままでありましたし、現状は何も変わっていません。しかし、この言葉、主イエスの宣言こそが、救いなのです。この後の律法学者とのやりとりの後に行われた癒しの奇跡は、この宣言が真実であるということを示すためになされたのであります。マタイがここで示そうとしているのは、主イエスによる癒しの御業の根本には、主イエスの「あなたの罪は赦される」という宣言があるということです。主イエスはこの人に癒しよりも何よりも赦しをお与えになろうとしておられるのです。当時、病気は罪の結果であると考えられていました。本人もしくは家族が罪を犯したがゆえに、その罰として病気になっていると考えられていたわけです。日本でも、「親の因果が子に報い」という言葉は普通に知られていますから、親の悪い行いのために、子どもに災いが及ぶという考え方は一般的とされてきました。また、重い病気にかかっている場合、実際の病気の痛み、苦しみ以上に、人々からの差別にさらされていた人が多くありました。ただ、ここに登場する人は、彼を床に寝かせたまま主イエスのもとに連れてこようと考える友人がいたのでした。マルコによる福音書の並行箇所では四人の人が、となっておりますけれども、実際に担架のようなもの、当時の状況から考えると、四隅を持たないと床を運ぶことは難しかったでしょうから、それらの人々の協力がないとできなかったことであります。この人は長年の病気の苦しみはあっても、そうした共同体から排除されてはいなかったようです。主イエスはこの人をそのように愛する周囲の人々の信仰をご覧になった、と聖書は記しています。そして主イエスは、「子よ、元気を出しなさい。安心しなさい。あなたの罪は赦される。」と言われたわけですが、この人の病気の原因が罪なのではなく、罪赦されることによって安心して生きていくことができる、という意味です。安心して生きていくことができるとは、つまり救われる、ということです。もし、病の癒しが主イエスのお働きの目的であったとしたならば、それはその人の死を持って終わる事柄になります。人は誰でもいずれ死を迎えるのです。本当に大切なことは、その人が新しく出発をするということなのです。そしてここで主イエスが「子よ」と呼びかけてくださっていることもとても重要なことです。神がこの人を、そして私たちを、「私の子よ」と呼んでくださったのです。それは主イエスが神との関係を回復してくださったからに他なりません。罪が赦されるとは、神が私たちに「あなたは私の愛する子」と呼んでくださっているということであるからです。

 

■律法学者のつぶやき

さて、そのような主イエスによる罪の赦しの宣言を聞いていた律法学者が「この男は神を冒瀆している」と思いました。何を持って、それを思ったか、マタイは記していませんが、マルコの並行箇所では「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と思ったと書かれています。神お一人が罪を赦すことができるのであって、それをこのイエスという男が行なっている、それが神への冒瀆だと思ったということです。しかし、主イエスは人間であられるのと同時に、神の独り子、まことの神であられるお方であります。主イエスが罪を赦す権威と力を持っておられるまことの神であるのです。主イエスは律法学者の心の中を言葉になさって、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と逆に問われました。律法学者は「起きて歩けというのは、実際にそのようになるかどうかを目に見える形で確かめることができるけれども、罪が赦されたかどうかは実際には確かめようがないこと。はったりでも言えることだ。」と心の中で思っていたからです。このような律法学者の心のつぶやきは、実は私たちも抱く思いです。主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと救いの恵み、それは具体的に私たちの目には見えないからです。私たちは自分の目に見えるもの、自分の目で確かめることのできるものを信じがち、目に見えるしるしを求めがちです。今日のはじめにも申しましたけれども、あなたの罪は赦されると言われるよりも、目の前で病が癒やされて歩けるようになることを、連れてきた人々も、中風の人も、そして私たちも望むのです。この主イエスの律法学者の言葉は、私たちへの問いかけでもあるのです。

 

■癒しの御業と罪の赦し

では、癒しの御業と罪の赦し、どちらがたやすいことなのでしょうか。このマタイ8章の始まりから、重い皮膚病の人を、百人隊長の僕を、ペトロのしゅうとめを癒されました。それ以前にも山上の説教をされる前、4章の終わりでもおびただしい病人を癒やされたとあります。主イエスがこの世でなさったことは、教えること、御国の福音を宣べ伝えること、そして人々を癒されることでありました。それは全て、人々に平安を与える神の救いを人々に伝えるためでありました。そして嵐をも鎮め、悪霊をも退散させる権威と力をお持ちの主イエスなのです。それらは主イエスがこの世に人としてありながら、神の子であるがゆえに、当然お持ちの力なのです。それに対して、罪の赦しはどうでしょうか。罪の赦しとは神と人間の関係の回復です。人の罪、私たちの罪、人間の罪を赦すために、その罪全てを、主イエスが代わりに背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださる、そのことによって初めて実現したことなのです。私たちの罪の赦しは、神の独り子であられる主イエスの死という大きな犠牲によるのです。主イエスが「あなたの罪は赦される」という宣言をされる時、「あなたの罪は私が背負う、私が引き受ける」という宣言でもあるのです。そのように知るとき、この言葉はたやすいことであるとはとても言えないことを改めて知ります。罪の赦し、救いとは何でしょうか。私たちはその言葉をどのように聞いているでしょうか。十字架の死による罪の赦しという救いを与えることができるのは、主イエスだけであり、それは何かと比べることのできるものではないのです。

そして、主イエスが地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために、癒しの御業がなされたのです。こうして、この人も、そして私たちも神との関係に生かされるという救いの恵みが与えられたのです。

 

■教会の権威

これが、今日の御言葉の最後8節「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した。」というところの意味であります。「これほどの権威」というのは、罪を赦す権威ということです。主イエスにそのような権威が与えられていることを知り、人々は畏れを持って神を讃えた、とさらっと読んでしまいそうですが、ここにマタイの強調点があると申しましたのは、「人間に」というこの「人間」が複数形であるということです。ですから、マタイが言いたいのは、主イエスお一人のことではないということです。マタイはここで主イエスを信じ、従う弟子たち、そして私たち、つまり、脈々と続いてきた教会を意識して、このように記しているのです。まだ先でありますけれども、16章では弟子の筆頭ペトロが信仰を言い表し、そして主イエスはペトロに天の国の鍵を授けられ、そして教会が建ちました。主イエスは罪を赦す権威をペトロに委ね、そしてそれが教会に託されているということです。教会は実に神から「あなたの罪は赦される」という権威を委ねられています。主イエスの「あなたの罪は私が背負う、私が引き受ける。だから安心しなさい」という言葉を主イエスから語りかけられ、そのお方を私たちの救い主であると信じ、私たちも洗礼を受けるのです。こうして教会は、主イエスの「あなたの罪は赦される」という宣言を聞き、受け取り、神との関係を回復していただき、そして神を父よ、と呼んで生きるという恵みを与え続けてきたのです。

 

■結び

主イエスが言われた「あなたの罪は赦される」というお言葉は、「罪が赦されてしまっている」ということです。これから赦してあげるから懺悔しなさい、ということではありません。主イエスのお言葉は無条件なのです。信仰は罪の赦しの条件ではありません。罪赦された者として、ただ神の恵みを受け取るだけであります。神の赦しの恵みの中に立つことだけです。そうして初めて私たちの信仰は、恵みという土に根を下ろし育ち始めるのです。私たちの教会が人々に告げ続けていくことはそのことだけであります。主イエスによって、あなたの罪が赦されていることを受け取り、赦しの恵みの中に立ちなさい、ということだけです。歩くことのできなかったこの人が起き上がったように、「あなたの罪は赦される。安心して行きなさい。」という主イエスのお言葉は人を立たせ、人を癒し、人を生かすのです。私たち一人一人もこの友人たちのように、誰かを主イエスのところに連れてくる働きをすることはできます。一人でも多くの方と共に赦しの恵みの中に立ちたいと祈り願います。

 
 
 

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