『注がれている神の霊』2025年9月21日
- NEDU Church
- 9月22日
- 読了時間: 9分
説教題: 『注がれている神の霊』
聖書箇所: 旧約聖書 ヨエル書3:1-5
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:22-32
説教日: 2025年9月21日・聖霊降臨節第16主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
この12章では主イエスとファリサイ派との対立が表面化して、ついには主イエスをどのようにして殺そうかと相談するまでになったという緊迫した場面でもあります。安息日論争に続く今日の問題は悪霊論争です。この22節の始まりにも「そのとき」と書かれておりますので、一連のファリサイ派との対立の出来事が続いていることがわかります。今日の論争の発端は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人の癒しであります。その人の癒しについては、ただ22節に「イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。」とあります。そしてそれをみた人々が二通りの反応を示します。それが今日の論争です。
■二通りの反応
群衆は皆、驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。と23節にあります。神がイスラエルの民に遣わしてくださる救い主、メシアはダビデの子孫から現れると人々は信じ、期待していました。ですから、主イエスの癒しの御業を見て、この人こそ、と思ったということです。一方、ファリサイ派はなんと言ったかと言いますと、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と言いました。つまり、悪霊が言うことを聞いて出て行ったのは、主イエスが悪霊の親分、ベルゼブルであると言ったのでした。ベルゼブル、すでに10章25節にも出て来ましたが、元々は偶像の神バアルに由来しています。列王記下1章に登場するアハズヤと言う北イスラエルの王はまことの神により頼むのではなく、バアル・ゼブブと言う偶像の神に依り頼みました。このバアル・ゼブブと言うのがベルゼブルという名前の由来であると考えられています。そして主イエスの時代には悪霊の頭の代名詞になっていました。
彼ら、ファリサイ派は自らが権威を持った存在であると自負していました。人々が自分たちの言うことに従うのが当然であり、それゆえに自分たちを脅かす存在を認めようとはしないのです。自分たちに与えられている権利や地位、また人々から尊敬されているというプライドは守り通さなければなりません。主イエスがメシアであり、神の国をもたらされることになれば、今自分たちが手にしているものは手放さなければなりません。そんなことは絶対にできない、そのように考える彼らは、主イエスの権威を否定し、おとしめる、さらには偽メシアとして亡き者にすることで自分達を守ろうとしていました。
■主イエスの反論
そのようなファリサイ派の思いに対して、主イエスは淡々と反論されます。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」ここでの主イエスのお言葉から察するに、ファリサイ派の人々も、癒しを行っていたようです。主イエスは内輪もめしていたのでは、サタンの国も成り立たないであろう、と当然のことを言われました。あなたがたが私の力を悪霊の仕業だというのであれば、あなたがたのしていることも同じ悪霊によるであろうという訳です。こう言われた彼らはそれ以上何も言うことができませんでした。続けて主イエスは決定的な宣言をされます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている。」肝心なことは、悪霊と戦うのは誰か、ということです。ここで悪霊に取り憑かれて目が見えず、口の利けない人、その人はただ主イエスの癒しの御業によって癒されました。その人自身が戦ったわけではなく、その人自身がその苦しみに打ち勝ったわけではありません。ただ主イエスのみが、悪霊と戦い、その力に勝利してくださったのです。これはこの人に限ったことではありません。私たちにおいても同じです。私たちの苦しみや悲しみ、それらに自分の力で打ち勝って平安を得るということはできないのです。ただ、主イエスに依り頼み、ただ主イエスを信頼して祈ること、従うこと、そのことを主イエスは求めておられるのです。それが神の国の到来を信じることであり、神の国への招きに従うことであります。しかし、それを拒否したのがファリサイ派でありました。彼らは主イエスにおいて、神の霊が働き、そして神の国が到来しているということを認めなかったのです。認めたくないという頑なさは、神の霊の働きを悪霊の働きという屁理屈で通そうとしました。
■信仰は戦い
主イエスはその後に続けて一つの譬えを持って、悪霊を打ち破る神の霊が戦いに勝つことを示しておられます。29節です。「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」家を略奪しようとするならば、その家の一番強い人を抵抗できないよう縛り上げなければ、何かを奪うことはできないであろう、と物騒な譬えでありますが、主イエスはこうして戦いの様子を示されました。家を略奪しようとする、それは主イエスです。この家とは悪霊、サタンの家です。そしてそこの一番強い人というのは先ほど彼らがあげた悪霊のかしらベルゼブルです。主イエスはまずベルゼブルを縛り上げ、そして家財道具を奪い取る、つまり悪霊追放の御業をなさるということです。ファリサイ派は、主イエスのことを悪霊のかしらベルゼブルだと申しましたけれども、主イエスはその一番強いとされているベルゼブルの上をゆき、すでにそのベルゼブルを縛り上げているのだが、と言われたのです。主イエスの勝利、神の勝利はすでに決定的になっているということをこうした譬えで話されました。主イエスは悪の力に対して、悪を持って勝たれたのではなく、神の力を持って悪に打ち勝たれました。私たちがキリスト者として歩んでいくその道、穏やかな道であることにこしたことはありません。しかし、信仰は戦いであるということを受け止めておかなくてはなりません。それは決して武器を取るということではありません。パウロもその信仰の戦いをエフェソの信徒への手紙6章で「神の武具を身に付けよ」と言っています。「私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、悪の諸霊を相手にするもの」とも言います。だから「しっかりと立つことができるように、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとしてつけ、平和の福音を告げる準備を履き物とし、そして信仰を盾とし、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」と力強くいうのです。私たちはさまざまな誘惑を受け、そして私たちを神から離れさせようとする悪霊の力は常に私たちに働きかけます。私たちはこのパウロの言うような力強い姿を持って立ち向かう覚悟が必要なのです。
■聖霊を冒瀆する者は赦されない
今日の結びの箇所31節、32節には「聖霊」に対する冒瀆のことが書かれています。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」主イエスは「だから言っておく」と言ってこのお言葉を語られています。主イエスは大切なことをお話しされる時、この前置きを持って語られます。このことから私たちは何を覚えておかなければならないのでしょうか。ここまでの論争は、この場で働き、人を癒したのは「悪霊」なのか、「神の霊」なのか、と言うことでした。
「霊」に対する冒瀆、「聖霊」に言い逆らう者は赦されないと主イエスは言っておられるわけです。今、私たちは聖霊降臨節を歩んでおり、父・子・聖霊、三位一体と口にすることはあっても「聖霊」を説明することはなかなか難しいことでありましょう。しかし、聖霊は常に私たちに働きかけています。そしてパウロが1コリント12:3で言っていますように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」のです。そして、その3節の前半にはこう記されています。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わない」とあります。つまり、聖霊、神の霊は、私たちの心に働きかけ、神の言葉、神の意志を伝えてくださるということです。具体的に天から言葉が直接に与えられるということではなくとも、聖書の言葉を通してであったり、言葉にならない思いが湧き起こることもあるでしょう。時には誰かを通して与えられることもあるでしょうし、また、思いがけない形で示されることもあるでしょう。神の霊、聖霊はさまざまな仕方で語りかけてくださるのです。そのようにして働いているのが聖霊です。
主イエスは「人の子に言い逆らう者は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は赦されない」と言われました。つまり、私、主イエスに逆らうことは構わない、とイエス様、言っておられるのです。なぜならば、私が全てを引き受けるから、ということです。実際、主イエスはそのように全てをお引き受けくださったのです。そのことを日々覚え、私たちは日々、悔い改めの祈りを捧げ、そして神のもとに立ち帰ることを赦されています。しかし、聖霊を冒瀆することは赦されないというのです。それは、聖霊を冒瀆というのは、聖霊の促しに耳を傾けないということだからです。私たちが神の御心を知るのは、聖霊の働きによるわけですから、その聖霊の声を聞かない、もしくは従おうとしないということであれば、神の御心を知ることができないのです。私たちに罪を認めさせて、悔い改めに導くのも聖霊の働きであり、先ほどあげた1コリント12:3にあるように、主イエスを受け入れ、救い主と信じる信仰を与えてくれるのも聖霊の働きであるわけです。ですから、聖霊を拒む、聖霊を冒瀆するということは、自ら神の救いから離れることになるということなのです。
この時、ファリサイ派たちが大事にしていたのは、自らのプライドであって、聖霊の声に耳を閉ざし、神の御業を悪霊の力と呼びました。主イエスはそのことを問題にされ、このような強いお言葉を残されたのです。
■結び
私たちが神の愛、主イエスの恵み、そして聖霊の働きかけという三位一体の働きのうちにおかれるためには、私たちの頑なさを捨てなければなりません。私たちは自分を守るための言い訳はいくらでも出てきます。人類最初の人間、アダムとエバも犯してしまった罪を、蛇のせい、そしてこともあろうか、エバを造った神のせいにしました。自分の罪を認めようとしませんでした。自分の罪を認めず、人のせい、神のせい、とすること。そのような態度こそ、聖霊の冒瀆であると言えます。私たちも日々、些細なことであっても、私は悪くないとか、私のせいではない、といった形で自分を正当化しようとします。神は赦したいと思っておられるのに、自分は悪くない。赦される必要はないと思っている限り、それは聖霊を冒瀆していることに他ならないのです。確かに私たちの周りには悪霊の働きかけがあり、そして神の霊と悪霊との戦いは繰り広げられています。しかし、私たちが主イエスを信じ、主イエスに従って歩む時、神の霊が私たちの武器となり、私たちも主イエスが戦われた闘いを共に歩むことになります。私たちには神の霊が注がれているのですから、謙虚に、素直に、神にお委ねして歩みたいと思うのであります。
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