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『清い心が創造されて』2025年9月28日

  • NEDU Church
  • 9月29日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『清い心が創造されて』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編51:3―19

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:33-37

説教日: 2025年9月28日・聖霊降臨節第17主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日与えられた御言葉はマタイ12:33からといたしましたけれども、先週共に聴きました箇所の31節からと深くつながりがあります。31節からは聖霊に対する冒瀆ということが書かれておりました。先週の説教を今一度繰り返すようになりますが、聖霊を冒瀆するとはどういうことであるのかといえば、聖霊の働きかけに耳を傾けず、それゆえに神の御心から離れるということです。聖霊の働きかけ、聖霊の力は人々を罪の支配から解放し、神の国、神の支配のうちを歩む者とします。しかし、聖霊を冒瀆し、聖霊の力を拒む時、人間は罪の支配のうちに置かれるのです。主イエスは人間の心と体を悪の力から解放してくださるお方。今日の箇所では、前回のファリサイ派の発言をもとにして、心と言葉の関係について彼らに厳しい言葉を向けられました。今日の箇所33節から37節の小見出しには「木とその実」と書かれており、この同じことがすでに山上の説教の7章15節から19節「実によって木を知る」で語られていました。山上の説教においては、弟子たちや主イエスの教えを聞こうとする群衆に向けて語られましたが、今日の箇所では目の前にファリサイ派の人々がおり、彼らに向けて直接語られています。このマタイ福音書において、主イエスとファリサイ派の対立がだんだんと直接対決となってくることを見てきました。その緊張する対立関係がここにも示されているのです。

 

■蝮の子ら

「蝮の子らよ」、つまり、蝮は毒蛇の一種であり、アダムとエバを唆した蛇の子孫として、「悪魔、悪霊の手下とされている者たちよ」と主イエスははっきりとした意図を持ってファリサイ派の人々に呼びかけておられるわけです。続けて「あなたがたは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」と言っておられます。人の心と言葉を、木と実の関係に譬えてお話されます。33節で「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」と主イエスは言われました。イエス様がおられた2千年前、実を結ぶ果物として真っ先に思いつくのはぶどうでありましょう。イザヤ書5章には「ぶどう畑の歌」というものが記されており、神が民に対して、慈しみを持って育てる様子が書かれています。しかし、イスラエルの民の背きにより、実ったぶどうは酸っぱいぶどうであったと書かれています。そして新約聖書では、ヨハネ福音書15章に神につながっていること、それが豊かな良い実を結ぶことであると繰り返し告げられています。「木が良ければ実もよく、木が悪ければその実も悪い。」酸っぱいぶどうができるならば、その木が良くない木であるというわけです。そして主イエスはファリサイ派の人々に「あなたたちは悪い木である。だから良い実がなるはずがないのだ。」とここで断定しておられます。続く35節では心が倉に譬えられます。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」善い人の倉には善いものが詰まっており、逆に悪い人の倉には悪いものでいっぱいになっている。と、これは極めて一般的に理解できる事柄です。その直前にあります、「人の口からは心にあふれていることが出てくるのである。」という言葉ともつながっています。人の心と口は一致しているということです。

 

■良い実を結ぶために

ここで主イエスは「人の口からは、心にあふれていることがでてくる。」と言っておられます。心にあることではなく、「あふれていること」と言われます。コップに注がれた水は一杯になれば溢れ出てきます。それと同じように、心の中にある、だけではなく、心が熟し、いっぱいになって、あふれて口から出て、言葉となるということです。ですから言葉となったもの、それは私たちの心そのものが結ぶ実ということです。私たちの言葉には、私たちの心が映し出されているのです。ですから、「心にもないことを口にする」という表現がありますけれども、主イエスはそうではない、と言われるのです。口から出た言葉は、私たちの心から溢れたもの、私たち自らの心が結んだ、良くも悪くも実りだということです。ガラテヤの信徒への手紙5章の19節からを見てみますと、肉によって結ばれる実が列挙されております。「姦淫」、「わいせつ」、「好色」、「偶像礼拝」、「魔術」、「敵意」、「争い」、「そねみ」、「怒り」、「利己心」、「不和」、「仲間争い」、「ねたみ」、「泥酔」、「酒宴」、「その他このたぐいのもの」これらのものは私たちの内に、見え隠れしています。これらの事柄が具体的な形となって表に出てくるには、私たちは何らかの言葉を口にしています。これらのものと全く無縁であるとは言えないのが私たち人間です。私たち一人ひとりの心の中にその種があることは誰もが認めるところでありましょう。そして今の日本の社会においても、これらの事柄が犯罪や事件として報道されない日はないというぐらい私たちを取り巻いて、悪い実が結ばれ続けています。それに対して霊の結ぶ実が22節以下に記されています。「愛」、「喜び」、「平和」、「寛容」、「親切」、「善意」、「誠実」、「柔和」、「節制」、これらが良い木の結ぶ良い実であります。私たちは自分の生き方、また、その歩みがこれらの実を結ぶようにと考えているでしょうか。自分自身を満足させるということを目的としていないでしょうか。結果、肉の実、悪い実を結ぶということになっていないでしょうか。主イエスの僕となり、主イエスに従う者たちは、主イエスを頭として歩む限り、良い実を結ぶのであります。ぶどうの木の譬えにも示されているように、主イエスにつながるならば、豊かに実を結ぶとヨハネ15章に明言されている通りです。私たちはキリストに接ぎ木されているということなのです。そして主イエスは私たちがどこに向かって歩むべきなのか、ということをはっきり示してくださったのだと思うのです。罪赦されている私たちでありますけれども、私たちの心には良いものと悪いものが入り混じっています。ですから私たち自身の肉においては私たちは悪い木であり、悪い実を結ぶことになりましょう。しかし、神は切り倒さずに手入れをし続けてくださり、そして私たちが良い実を結ぶように聖霊を送り続けてくださっているのです。ですから、35節にあります「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す」というのは、キリスト者が聖霊の恵みによってのみ可能となるのであって、これを拒んだ者たちのところでは良い実は期待できないということです。

 

■まっすぐな神との関係

そして36節では、主イエスは改めて厳しいお言葉を話されます。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」「つまらない言葉」と聞くと、良くも悪くもない中立的な言葉に聞こえますが、もっとはっきりした「悪い」という意味を持つ言葉です。先ほどのパウロが記したガラテヤ書の言葉に当てはめますと、敵意、争い、妬みなどが言葉となるということでしょう。この「つまらない言葉」とは聖霊の働きによらないものということです。聖霊の働き、その導きに従えば、言葉は愛をもたらします。良い言葉、愛の言葉というのは決して私たちの耳に心地よい言葉というような基準ではなく、神の目的に沿った働きをなす言葉であるかどうかということです。このような自分の言葉に対する責任は大きい、重大であるということを主イエスはここで語っておられます。人は誰もが、自分の語った言葉の責任を最後の時に問われるのです。善い心と善い言葉がしっかりと結びついたまっすぐな関係を神は求めておられます。

 

■ダビデの罪

今日の旧約聖書の詩編51編は1節にありますように、ダビデが部下の妻バト・シェバを自分のものにし、部下であるウリヤを戦地で死に追いやった、姦淫と殺人という大罪を犯したというサムエル記下11-12章の出来事に基づいています。誰の目にも明らかな罪を犯した罪に染まった人間、詩人はその罪の清めを神の憐れみと慈しみに訴えて願っています。大罪を犯したことの懺悔ではなく、人間は自分ではなんともしがたいほどに罪に染まりきっているというのです。7節にありますように、母がわたしを身ごもった時もわたしは罪の中にあったと詩人は言います。サムエル記を読んでいただくとわかるとおり、ダビデはウリヤを殺しただけでなく、他の兵士たちをも巻き込みました。部下を思う王の姿はなく、自分の不祥事が公になることをなんとか防げたことに安堵するという、神と共に生きる姿とは程遠いダビデがありました。罪が大きければ大きいほど、罪を犯した人間は、その罪を隠蔽して明るみに出ないようにする傾向があります。昔、一つ嘘をついたならば、それを隠すために三つの嘘を重ねることになるという言葉を聞いたことがありますが、一つの罪を隠すために次々に罪を犯す人間の罪深い恐ろしさをこの物語は明らかにしています。そしてそのような人間を清くできるのは、ただ神の憐れみによるのであり、神からの確かな霊、聖なる霊を授けられることによって、初めて新たに生かされるということなのです。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」ダビデは、神の前における清さ、善い心は、神によって創造されるしかないと知っていました。神によって「新しく確かな霊」が注がれる以外にはあり得ないのです。私たちも新しく創造され、造り変えられて、新しく確かな霊を授けられるのでなければ、裁きをまぬがれずただ滅びるしかない者たちです。新しい創造も、新生も、私たちのうちに永遠に住んでくださる霊も、全てキリストを通して私たちに与えられます。第2コリント5:17に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とありますように、キリストと結ばれることが全てなのです。

 

■結び

「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」コロサイ書3章にこのような御言葉があります。そうでなければ、私たちは裁きと滅びの道しかありません。キリストに結ばれている私たちでも、なおも悪い言葉がつきまとい、悪い実を結びかねないのです。常にキリストの言葉が宿るように、祈り、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しに立ち帰ることが大切なのです。聖霊が働きかけ、主イエスによる罪の赦しの恵み、救いの恵みに与らせてくださっているという原点に立ち帰りましょう。その恵みの中でのみ、私たちは、積極的に、そして大胆に、喜びを持って神と人とに関わり、語っていくことができるのです。私たちが互いに愛し合い、また赦しあって生きるようにしてくださる主の赦しに感謝し、主イエスにつながる木でありたいと願います。そこに与えられる善い実を、愛を、平和を隣人と共に分かち合いたいと祈り願います。

 
 
 

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