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『しるしを求める信仰』2025年10月5日

  • NEDU Church
  • 10月6日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『しるしを求める信仰』

聖書箇所: 旧約聖書 ヨナ書2:1-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:38-45

説教日: 2025年10月5日・聖霊降臨節第18主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「先生、しるしを見せてください」、律法学者とファリサイ派の人々が主イエスにこのように申しました。主イエスが神から遣わされた救い主であるということがはっきりわかる証拠を見せてほしい、ということです。主イエスが神の子であり、そして救い主であるという証拠なしには、信じることはできないという思いから発せられた言葉です。ヨハネ20章には弟子のトマスは、主イエスの復活を信じることができず、「あの方の手に釘の跡を見て、そしてこの手を脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言ったことが記されています。自分の目で見て、自分の手で証拠を確かめてみなければ、信じられないというこのトマスの思いは私たちも持っているのではないでしょうか。証拠を求めているのは、この律法学者、ファリサイ派だけではなく私たちも同じではないでしょうか。

 

■よこしまで神に背いた時代のものたち

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」主イエスはそのようにお答えになりました。「神に背いた」訳されているこの言葉は「姦淫を犯している」という意味の言葉です。旧約聖書では、神と人間、神とイスラエルの民との関係はしばしば結婚、夫婦関係になぞらえて語られてきました。神に背く、神に忠実でない、ということは、姦淫の罪を犯す、夫婦の関係を裏切っていると表現されるわけです。神はイスラエルの民を選び、特別の関係を結んでくださった、ご自分の民として、彼らの神となってくださったという契約、その恵みはまさに結婚の誓約と重なります。ですから、イスラエルの民が神に背き、他の神々を拝むようになったことを旧約の預言者たちは、姦淫の罪として厳しく糾弾しました。彼らがなぜそうなっていったのでしょうか。彼らはカナンの地に定住して、そして畑を耕して生活するようになったのち、バアルに代表される農耕の神を拝むようになりました。彼らの生活に根ざしていたからといえます。田植えをすれば、その豊作を祈願し、雨を降らせてくれることを願い、その成長を祈り、収穫できれば感謝する。その感覚は日本においてもごく自然でもあります。そしてそれをかなえてくれる、つまり、目に見えるしるし、作物の豊作を与えてくれるという神々を拝むようになったのでした。このしるし、証拠は、自分の求めているものを満たしてくれるかどうか、ということが基準です。イスラエルの民は主なる神とカナンの神々を比べてみて、カナンの神々の方が自分たちが納得する、目に見えるしるしとして叶えてくれそうだと思い、そちらの神を崇めたのでした。本来の主なる神を離れ、別の神へと心を移したこと、それが彼らの姦淫の罪です。ですからしるしを求めるということと、姦淫の罪とは一見まったく異なることのように思えますが、深く結びついているのです。

 

■ヨナのしるし

このしるしを求める律法学者、ファリサイ派の要求を主イエスは拒否なさいました。この証拠を見せて欲しいという彼らの根底にあるものは、不信です。しるしとは先ほどもお話ししたように何らかの保証であります。保証を求めているということは、相手を信用していないということです。利益があれば信じる、なければ信じない。それはご利益宗教ということです。すでにこのマタイ8章以下に記されていた、主イエスの癒しの御業を見たではないか、病の人が癒やされ、目の見えない人の目が開いた。そこになぜ神の憐れみを見ないのか、主イエスはそのように言われるのです。悪霊に取り憑かれた人を癒し、目の見えない人が見えるようになり、死んだ人さえ生き返らせた主イエスの御業を見ても、律法学者やファリサイ派の人々はそれらの「しるし」を見ても信じませんでした。「預言者ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない。」そしてヨナのしるしを見ても信じないだろう、と言われたのです。ヨナのしるしとは、ヨナ書に記されている預言者ヨナが三日三晩、魚のお腹の中にいて、そこから救い出されたことを指しています。預言者ヨナは主からアッシリアの都ニネベに行って宣教するように命じられます。アッシリアは敵国でありますから、ヨナは敵のために祈ることを拒みます。そして主に逆らってタルシシュ行きの船に乗り込みました。しかし、主はヨナを離すわけもなく、ヨナの乗った船は嵐に遭い、結局ヨナは海に投げ出されることになります。そして大魚に飲み込まれ、三日三晩、その魚の腹の中にいました。その腹の中でヨナは必死に神の救いを求めるのです。その時の祈りが今日与えられた旧約聖書ヨナ書の2章です。そのヨナの祈りを聴かれた主は、魚にお命じになって、ヨナを吐き出させました。ヨナは三日三晩、魚の腹にいて、そしてその後、神の言葉をニネベで告げました。ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めた、と41節にありますように、ニネベの人々は「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」というヨナの言葉、神から告げられた言葉を信じました。王をはじめとする人々は断食をし、そして頭から灰を被って悔い改めたのでした。これがヨナを通してニネベで起こったことです。また、42節に記されている南の国の女王とは、シェバの女王として知られている列王記上10章に記されていることです。ソロモンの名声を聞き、遠く旅してエルサレムにまいりました。ソロモンの知恵を聞くために地の果てからきた、と主イエスは評価しておられます。ソロモンの知恵とは彼自身の才能ではなく、民に対して公正であるために、神に願って与えられたもの、神の知恵なのです。ですから、南の国の女王は神の言葉に聴いたのでありました。そしてその前において謙遜に、へりくだったのでありました。このヨナにまさるもの、ソロモンにまさるもの、がここにある、主イエスは言われました。神の言葉を告げる、神のしるしを示してくださるお方、主イエスがここにおられるということ、そのことの重みを知ることの大切さがここで語られています。

 

■主イエスというしるし

しかし、「今の時代」の者たち、主イエスを取り囲んでいるこの人々は主イエスに現された神の言葉、神のしるし、を見ても聞いても悔い改めることはありませんでした。主イエスはご自分にこの後起こること、つまり、十字架につけられ死んで葬られ、そして三日目に甦りをなさる、そのことをここでヨナのしるしに重ねてお話になられました。与えられるしるし、それはただ一つ、主イエスの十字架と復活、このことだけであると主イエスは言われるのです。しかし、敵対する人々のみならず、弟子たちさえも、その「しるし」が何のことであるか、気づきません。私たちに与えられているしるし、それは主イエスが十字架におかかりになり死んでくださったこと、そしてそれは私たちの罪の赦しのためであり、神がただ私たちを愛するが故に、神との交わりの中に置くためであったということです。そしてその主イエスが死者の中から復活したことです。神の恵みが死の力に勝利したということです。死に打ち勝った主イエス・キリストが今も生きておられて、私たちと共にいてくださる、それが唯一のそして最大のしるしです。主イエスが言われた「ヨナのしるし」、それは神の深い愛、私たちに対する慈しみ、罪の赦し、永遠のいのち、それらを主イエスの十字架と復活によって示してくださったということです。これ以上のしるしが必要でしょうか。私たちにはもうすでに示されているのです。

 

■聖霊が住んでくださる

さて、今日の43節からは「汚れた霊」について語られています。ここまで話されてきたことと一見、繋がりがないように見えますが、この12章の中心が22節からのベルゼブル論争でありました。つまり、22節からはじまった聖霊についての話の締めくくりであるとも言えます。今日の前半に語られてきた神のしるしに従うこと、このことも聖霊の働きと関係しております。私たち人間の中に、聖霊が住んでくださっている時、それは神との交わりのうちに置かれている時でありますが、私たちとて悪霊と無縁ではないのです。人間の内に出たり入ったりしているという様子がここで描かれています。主イエスは悪霊に取り憑かれた人から、悪霊を追い出すという御業をなさいましたけれども、その後に聖霊が宿ってくだされば、人間の内側は空き家にはなりません。しかしながら、きれいに掃除したところで、内側を整えてきれいに飾ったりしたところで、聖霊を迎え入れないならば、それは空き家であって、汚れた霊はさらに悪い仲間を引き連れてやってくるというのです。ここで主イエスが言われた「掃除をして、整えて」というのは、ここでの論争の論敵であるファリサイ派のことを言っておられます。表面的には立派な行いをして、正しくきちんと見える彼らでありますけれども、その内側においては、愛の業とは縁遠く、貧しい人々に対する憐れみの心もなく、そして主イエスを邪魔者として殺そうと企んでいるわけですから、主イエスはそのような彼らの全てをお見通しです。そうして時代はもっと悪くなる、と言われるのです。

 

■「時代」

今日の箇所で主イエスは何度も「時代」という言葉を使っておられますけれども、私たちが時代という言葉を使うとき、何か自分の周りに時代と呼ばれる流れのようなものがあって、自分の外側のことを意味しているように思いますが、ここで使われている「時代」という言葉は、「生まれてこの世に生きている人々」のことを指します。ですから、いつの時を指すとしても、そこに生きている人ということです。ですから、主イエスが時代はもっと悪くなる、と言われる時、私たちはもっと悪くなる、と言われているということです。神の言葉を聞かず、神の御業に目を向けず、聖霊を迎え入れなければ、私たちは悪霊の住処になりかねないということです。神に目を向ける、神の方を向く、それが悔い改めということです。そして聖霊が私たち一人ひとりのうちに住んでくださることを願うということです。

 

■結び

ヨナは三日三晩魚に飲み込まれ過ごしました。ヨナは神に背き、そして海の中の大魚の暗い腹の中にいたのでありました。それはヨナが死を迎えたことを意味しています。そして神への切なる祈りによって、悔い改めによって神の救いの手段である魚を通して、三日目に甦ったということです。「ヨナのしるし」それは死と甦りです。パウロもロマ書6:4で述べているように、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」主イエスを救い主と信じる者は、キリスト共に死に、そして葬られます。けれども、私たちは新しい命へと、キリストに結ばれて神の子として生きる命が与えられます。体の甦りは未来に属することですが、今生きている私たちの魂は、主と共に生きるようになります。それが聖霊によって信仰へと導かれ、生きるということなのです。私たちは、自分の内が空き家にならないように、常に聖霊をお迎えして、新しい命に生かされていることに感謝したいと思うのです。私たちの生きているこの時代は混沌としています。けれども、悪くなっていく周りに振り回されず、私たちの家には聖霊をお迎えし続けたいと思うのです。そのために主イエスを神が送ってくださったのであります。聖霊が私たちを住まいとしてくださり、主イエスという最大なるしるしが与えられていることに感謝したいと思います。

 
 
 

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