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『誘惑に打ち勝つ力』 2024年8月18日

説教題: 『誘惑に打ち勝つ力』 

聖書箇所:旧約聖書 申命記8:2―10

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書4:1-11

説教日: 2024年8月18日・聖霊降臨節第14主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

次回の4章の12節から主イエスがガリラヤで伝道を始める、という救い主としてのお働きが始まります。主イエスの公生涯、つまり救い主としての本格的な伝道の活動のご生涯、その始まりにあたり、主イエスがなさったことが前回の洗礼であり、そして今回の悪魔から誘惑を受けられる、ということでありました。1節には「悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて」とあります。神の子であられる主イエスがなぜ、悪魔からの誘惑を受けなければならなかったのでしょうか。それは主イエスが人として、人間としてこの世に来てくださったがゆえに、私たち人間が受ける以上の誘惑を受けなければならない、それが神のご意志でありました。ヘブライ人への手紙4章15節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とある通りです。私たち人間で誘惑と無縁な人はいるでしょうか?100人が100人、さまざまな誘惑にあい、時にその誘惑に負けたりしながら、闘っていると言えるのではないでしょうか。聖書の始まり、創世記において、神が人間を造られた後、すぐにアダムとエバが蛇の誘惑にあったことが記されています。そして人間はその蛇の誘惑に負け、神の顔を避けることになりました。つまり、私たち人間の罪の始まりがそこにあります。

つまり、主イエスの荒れ野の誘惑は、本来ならば私たち全ての人間、罪人が受けるものであります。洗礼者ヨハネからの洗礼も、神との正しい関係を私たち人間に示すために受けてくださった、とお話しいたしました。この悪魔からの誘惑も、同じように考えることができるのです。主イエスは私たちと神とを繋ぐ存在でありますから、神が正しいとお考えになること、神との正しい関係に生きるために、私たち人間はどうあるべきか、そのことを体現してくださっていると言えるのです。

さらに今日の悪魔と主イエスの対話には、先ほどお読みした申命記の御言葉が使われております。それは旧約の民、イスラエルに与えられた神からの約束でありました。主イエスが神によって選ばれたように、イスラエルの民も神によって選ばれた民であり、その民は40年荒れ野を彷徨い、そして失敗を重ね、誘惑に負け、罪人としての道を歩みました。主イエスが申命記の御言葉を語られて、誘惑との闘いを示されたのは、この旧約の民を指し示すものであったということです。

 

■第一の誘惑

誘惑する者は主イエスにこう言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」主イエスは40日間、断食をなさいました。主イエスは人間であられますから、40日間の断食は主イエスの体を弱らせるものでありました。誘惑はそのような弱きを覚える時にやってくるのです。そして1節には「悪魔」とありますが、3節では「誘惑する者」と記されています。「誘惑する者」は「私は悪魔です」と言って登場したのではない、ということです。悪魔というと角があったり、牙があったり、とんがった尻尾を持っていたり、というようなイメージを持ち、現代に生きる私たちには架空の存在と思うかもしれませんが、そうではありません。今の私たちの世界にも私たちを堕落させようする力や人がいることは誰もが認めるところでしょう。私たちを神から引き離し、悪へとひきずりこむ、それらが悪魔なのです。そしてそれは甘い囁きとして、私たちに近づいてきます。この誘惑する者は、むしろ、助言する者のように、優しい雰囲気を持って近づいてきたということでしょう。男性かもしれないし、女性にもなりえましょう。最初は悪魔だとわからないのが悪魔なのです。「お腹が減っているのだろう、神の子なら石をパンに変えるなど簡単だろう。そして空腹を満たしたらどうだ。」悪魔はそう囁きました。サタン、悪魔の目的は一貫して、人を神から離れさせることなのです。

主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われました。先ほど共に読みました申命記8章3節にありました。イスラエルの民はモーセによってエジプトから導き出された後、40年彷徨わなければなりませんでした。飢えに苦しむ民を神はマナで養われました。それは、マナというパンを通して、神がイスラエルの人々を養い続けていることを教えるためでした。続く4節には、「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」とありますように、神によって生かされていることを知るのだ、ということです。

 

■第二の誘惑

さて、こうして最初の誘惑に失敗したサタンは、第二の誘惑へと作戦を変更します。悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」この悪魔が引用したのは、詩編91編11-12節、「どんな時であってもあなたを守ってくださる」という信仰の表明の詩編の一部です。神を避けどころとするというもっとも信仰的な言葉を用いて、不信仰な事実を飾ろうとしているのです。悪魔も聖書に通じているのです。逆にいうと、聖書を語る人の中にも悪魔が入り込むこともありうるということを示唆します。私たち日本基督教団信仰告白の最後で私たちは「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、」と告白しています。私は毎回、この部分を告白いたします時に身の引き締まる思いがいたします。御言葉を語るということは、「福音を正しく宣べ伝える」ことでなければなりません。私たちは御言葉によって養われ、御言葉によって癒しや慰めをいただきます。御言葉は神の恵みでありますから、恵みに何かを増し加えることなく神の言葉を伝える、説教という人間の語る言葉を通して神の語りかけが起きること、そのことに忠実でありたいと願うのです。

さて、ここでの主イエスに対するサタンの誘惑は神を試みる、ということです。信仰が試みられるということは神をとことん信じぬくことができるかどうか、ということです。私たちは日々、神様からたくさんの恵みをいただいているにもかかわらず、それに満足できず、その恵みだけでは不安になり、恵みの更なる証拠を得ようとします。ここでサタンは神殿の屋根の端から飛び降りて守られるかどうかなどという不必要かつ愚かな形で神を試みようとしていますが、私たちも時に、奇跡を見せてくれるような神、ご利益のある神を求めるということをするのです。何か証拠を見せてくれたら安心する、という私たちのおぼつかない信仰はそのようにして神を試そうとします。さらにここで悪魔が示した場所は神殿の頂上、メシアが民に対して救いを告げる場所、それゆえ父に従い通す主イエスを試すには格好の場所であったといえましょう。主イエスのご生涯はそれを拒否し続けるものでありました。さまざまな奇跡、しるし、それらの御業を行ったあと、主イエスは誰にも言わないように、黙っているように、と言われたことがすでに共に読みましたマルコ福音書にも何箇所も記されていました。主イエスはそれによってご自分がメシアと言われること、そしてしるしによって誤解されることをも警戒しておられたのです。神を試みてみよ、というサタンの誘惑には、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてあると言われました。それは裏返せば、「あなたの神である主を信じなさい」ということにほかなりません。

 

■最後の誘惑

第二の誘惑も失敗に終わったサタンは最後の作戦を実行します。主イエスに高い山のてっぺんから全ての国々とその繁栄、素晴らしい光景を見せました。「これを全てあなたにあげよう」というのです。ただし、「ひれ伏して私を拝むならね」とおそらくニヤリとしながら、耳元で囁くように言ったことでしょう。日本語の聖書では、先に「もし、ひれ伏して拝むなら」が先に来ていますが、原文でも英語の聖書でもこの条件文は後にくっつく形で記されています。この辺りの言い方も悪魔の巧妙なやり方です。しかし、そもそも、これらの素晴らしい世界、これらの本来の支配者は神でありますから、サタンには与える権限など持っていないのです。それにもかかわらず、悪魔はまるで自分であるかのようにちらつかせながら、主イエスを自分の支配下に置こうとしたのです。「繁栄ぶり」と訳されている言葉は「栄光」または「栄華」と訳せる言葉であり、本来、神の輝きを表す言葉です、私たちもよく知っている「グローリア」という言葉であります。この神の栄光を、サタンにひれ伏すことで、自分のものにしようとしたサタンなのです。神を拝むのではなく、サタンを拝ませる、これがこの誘惑の意味であります。

それに対して、主イエスが言われたのは一言。「退け、サタン。」サタンとの間に交渉の余地はありません。主イエスはこの言葉に続けて、申命記6章13節の御言葉、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と言われました。主イエスは悪魔の誘惑の意味をもちろん見抜いておられました。

 

■結び

悪魔は主イエスから離れ、そして「天使たちがきて、イエスに仕えた」と最後に記されています。今日の始まりの御言葉に「霊に導かれて」とあり、つまり、それは私たち人間が受ける以上の誘惑に主イエスが会うこと、それが神のご意志であるから、とお話しいたしました。これらの試みの後、天使たちが来て主イエスに仕えたとあるように、この悪魔の誘惑も神のご支配のもとにあることを表しているのです。

私たちのこの世での世界においても、多くの誘惑があります。そして私は誘惑に負けてしまうかもしれない。実際に負けることもあるかもしれない。しかし、私たちには誘惑と戦い、それに打ち勝ったお方が示されています、与えられています。このお方を信じて歩む。これ以上に最強の武器はありません。私たちも「退け、サタン」この一言を言えば良いのです。その時、主イエスが共にいてくださり、そしてその方は私たちと共に歩んでくださる。それが私たちの信仰の歩みであります。一見、悪魔に支配されているかのように見える時も、神は一貫してこの全てを支配しておられるのです。私たちの目には見えなくとも、本来の支配者は神であります。私たちの救いは神に栄光を帰すこと、この神を崇め、この神にお仕えする、そのことが求められているのだと思うのであります。

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