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『試みの中で生きる』 2022年5月1日

説教題:『試みの中で生きる』

聖書箇所:マルコによる福音書 1章12節~13節

説教日:2022年5月1日・復活節第三主日

説教:大石茉莉 伝道師


■はじめに

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」12節はそのように記しています。「それから」とありますが、以前の口語訳聖書では「それからすぐ」とあります。そして原文では、「直ちに」という意味のことばがあります。ですから、原文に忠実に訳しますと、直前で語られている出来事の後、すぐに、直ちに、という意味があります。直前には何があったかといいますと、先週お話しいたしました主イエスの洗礼の出来事があり、そしてその後、天が裂けて霊が降り、天の父からの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声を聞くという出来事が続いていました。その後、時を置かずしてすぐに、「“霊”がイエスを荒れ野に送り出した」のでした。「送り出した」と書かれておりますが、原文は少しニュアンスが違うように思われます。送り出す、というと、「いっていらっしゃい」というようなイメージがあるように思いますが、原文では、そのようなあたたかな、穏やかなものではなく、「追いやる、投げ出す」という意味の言葉が使われています。ですから、主イエスは、霊によって、荒れ野へと有無を言わさず放り出された、追いやられたのです。「霊によって」ですから、それは聖霊によって、ということであり、父のみ心によって、ということです。

荒れ野、それは不毛の地を意味しています。作物も実らず、荒涼とした人間が生きていくことの難しい場所です。そのような場所へと主イエスは追いやられました。それが主イエスの洗礼の後、そして神様からの御声のすぐあとに起こった事なのです。


■荒れ野

私たちも洗礼によって、神の子とされ、「神様から愛する子」と声をかけられて信仰の歩みを始めています。しかし、主イエスと同じように荒れ野へと放り出されるようなことがあるのではないでしょうか。クリスチャンになっても、悲しみや苦しみがなくなって、ハッピー・ハッピーな生活になる、などということはないのです。むしろ私たちの現実生活は、まさに荒れ野ともいえる場、それが現実です。信仰者である私たちも、この社会の一員として生きています。私たちの生きる社会を見回してみると、実に多くの問題が渦巻いています。世界では戦争があり、子どもたちの貧困の問題もあります。日本だけを見ても、コロナによる精神的な不安や雇用の問題、幼児虐待や、家庭内暴力、引きこもり、経済的な不安やトラブル、家庭内不和、DV、など、毎日毎日、次から次へと問題が報道されています。私たちはそのような社会で生きており、それは決して他人事ではなく、身近な問題であり、人それぞれ異なっても大なり小なり、問題を抱えていると言えるでしょう。そのように考えると、この世の中を生きていくことは荒れ野の中の歩みであると言えるのかもしれません。

荒れ野という言葉の意味は、文字通り、さびれた、荒れ果てた地であります。乾いた地であり、私たちの人生の歩みにおいても、そのような地にいると感じながら生きなければならない時期もあることでしょう。この言葉には、「捨てられた」という意味もあります。ですから、周りの人たちから、そして神からも捨てられてしまっていると感じ、さくばくとした思いで孤独に歩む時、そのような時はまさに荒れ野の中にいると言えるのでしょう。神が離れてしまっていると感じるからこそ、サタンからの誘惑を受けるのです。神からも捨てられてしまったのではないかという不安の中で、サタンの力に唆されて、私たちは神を試みようとするという罪を犯すのです。しかし、本来は、周りに何もない場所であるからこそ、神に近づく機会を与えられる場所であり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉をしっかりと聞くべき場所であるのです。


■サタンの襲撃と神の平安・誘惑13節には、「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」とあります。並行箇所のマタイ、ルカには具体的なサタンからの誘惑が書かれています。マタイやルカは、主イエスがサタンの誘惑に打ち勝ったことまで書かれておりますけれど、マルコは、ただただ「誘惑を受けられた」とだけ記しているのです。主イエスは、サタンの誘惑を受けながら、神の御心に沿うことだけを考えて、過ごされた40日であったはずです。神のみ旨によって生かされ、神の御心に従うことが一番であるということだけが示されており、主イエスの受けられた誘惑は、人間としてのイエス様の出来事のみならず、神ご自身のサタンとの闘いであることが示されているのです。

そして現代の私たちの生活を荒れ野と重ねるとき、具体的な試みが書かれていないからこそ、重ねてみることができるように思うのです。

「誘惑」と訳されている言葉は「試す」とか、「誘う」「試練にあわせる」というような意味を持つ言葉です。私たちの現実の生活は、神から引き離そうとする様々な力、誘惑に満ち満ちているのです。先ほどすでにお話したような問題だらけともいえるこの世のなかで、私たちは生きているからです。また、東日本大震災が起こった時、多くの人が神様がいらっしゃるならなぜこのようなことが起こるのか?と神の存在を問い、その存在に疑問を投げかけました。また、家族の病気や不和、人間関係のトラブルなどに悩み苦しんでいたり、逆に思いもかけないことが起こった時、何故ですか?と問うこともあるでしょう。そうした時に、神様の存在や神様の愛が信じられなくなる、神様を信頼していたはずが、心が離れていく、そのようなことがあるのが私たちの現実です。それらすべては、私たちを主イエスへの信仰から、神の愛を信じることから引き離し、信仰に生きる生活を壊そうとする、妨げようとする誘惑です。私たちは、日々、そのような中に生き、さらされて生活しているといえるのです。


■40日

主イエスは40日荒れ野に留まられ、試みを受けられました。

40という数字は聖書において、節目節目で出てくる数字で、大きな意味を持っています。エジプトを脱出したイスラエルの民は約束の地カナンに入る前、荒れ野で旅をしたのは40年でした。(出16:35)ノアの箱舟における洪水では、雨は40日40夜降り続きました。(創7:4)モーセは40日山に独りで入りました。(出24:18)預言者エリヤもホレブ山に向かって40日歩き続け、神様の声を聞きました。(列王上19:8)そして主イエスも復活後、「40日の間、弟子たちに現れ、神の国について語られた」ことが使徒言行録に記されています。この40という数字は、神による救いの業がなされる時、救いの歴史における新しい局面を示す時のしるし、神の救いの象徴として使われているのです。さて、それでは主イエスが40日、荒れ野に留まり、誘惑を受けた、そのことにより、どのような新たな局面が開かれたのでしょうか。13節後半、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」と書かれている箇所に目を向けたいと思います。


■完成の先取り

繰り返すようですが、主イエスがおられたのは荒れ野。人の住める場所ではなく、危険な場所であり、荒れ果てた地です。そこに野獣と共におられた、と聞きますと、緊張感漂うものを感じます。私の想像できる野獣と言えば、ライオンや虎、狼ぐらいしか思いつかないのですが、人に襲い掛かるタイミングを虎視眈々と狙う野獣たちと主イエスの緊迫感漂う攻防があったのだろうか、などと考えます。しかし、主イエスには天使が仕えていたため守られていた、まずはそのように考えます。

私たちの信仰生活もそのような何かが襲ってくるような恐怖の中で神が共にいて下さり、聖霊の導きによって、主イエスに天使が仕えていたように私たちも守られる、そのようなことももちろんあると思います。

しかし、それ以上に、主イエスの到来によって、旧約聖書の預言は成就します。マルコは主イエスこそが旧約聖書に預言されていた方として到来したのであり、荒れ野においてサタンとの戦いに持ちこたえられた、そのことを伝えたいのです。そこでは神の救いの実現において、野獣さえも神の支配のもとで害を加えるものではないということが記されています。イザヤ書11章1節以下です。旧約聖書1078頁です。この箇所は「平和の王」という小見出しがついております。1節はこのように始まります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」イスラエルのダビデ王の子孫から、主によって霊が注がれた救い主が現れる、ということが預言されています。そして、その方が平和の王です。さらに6節以下に野獣さえもが一緒に憩う世界が実現することが語られているのです。

狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。

つまり、主イエスは荒れ野において、野獣たちが虎視眈々と狙うような危険の中で天使たちに守られていたのではなくて、野獣と共に平和の内にありました。神様の救いの完成において実現する恵みの中に主イエスはおられたのです。主イエスがおられたのは、もはや荒れ野ではなく、聖なる山であり、そこでは何ものも害を加えず、滅ぼすこともない、という約束が実現していたのです。

この野獣という言葉はマルコにしか記されていません。マルコはイザヤが預言した平和の王として、主イエスがすでに実現していたのだということを私たちに告げているのです。


■結び

もちろん、この主イエスの実現によって神の救いの御業が成し遂げられたわけではありません。それは主イエスのご生涯全体によって、つまり、十字架の死と復活によって与えられるものです。

しかし、今日与えられたみ言葉から、私たちが覚えるべきことは次のことではないでしょうか。

ヘブライ人の手紙4章15節にはこう書かれています。「この大祭司、主イエスは私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練にあわれたのです。」

主イエスは私たちのために、神の子でありながら、洗礼を受け、そして試みにもあってくださったのです。そしてサタンの誘惑にも勝利してくださいました。私たち人間は弱く愚かな者です。神様のみことばに従うことができず、サタンの誘惑に勝利できるものではありません。しかし、王であるイエス・キリストにあって、サタンに勝利しているということです。神様は私たちを、イエス・キリストの民として、罪赦された者として受け入れてくださっているのです。イエス・キリストの名によって罪を告白し、日々、新しくされて神様の元へ立ち返ることが赦されているのです。何と大きな恵みでしょうか。私たちの現実は決して楽なものではなく、むしろ、厳しいものかもしれません。しかし、主イエスは私たちにこう言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)そのような主イエスの御声に聴き従う私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の救いの恵みに与り、約束されている救いの完成の先取りを味わいつつ歩むことが赦されているのです。荒れ野のようなこの世にあって、常に共にいて下さる主イエスの守りの中で、野獣と共に、そして天使に仕えてもらう、その平安の中を生きていくことに感謝しつつ歩んで参りたいと思います。


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