説教題: 『解き放たれる日』
聖書箇所: マルコによる福音書 2章23節~28節
説教日: 2022年7月10日・聖霊降臨節第六主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」ある安息日の出来事です。主イエスと弟子たちは麦畑を通っていました。弟子たちは、なぜ麦の穂を摘んだのか、マタイには「空腹であったので、穂を摘んで食べ始めた」ルカには「穂を摘み、手でもみながら食べていた」と弟子たちが自らの空腹を満たすために穂を摘み、食べる姿が記されています。
この「穂を摘む」ということに関して、申命記23章25節以下には「人の畑のもの」という小見出しで以下のように記されています。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、かごに入れてはならない。隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」ここに書かれていることは、生活の知恵といいましょうか、モラル的にも理にかなっていると言えるでしょう。私が子どもの頃、近所に大きな柿の木があって、毎年たくさんの実をつけていました。家主の方は、取り切れないし、鳥に持っていかれてしまうから、好きな時に取って食べていいよ、と言ってくださっていました。ですからその言葉にありがたく、ひょいっとひとついただくというようなことはありました。しかし、かごを持ってきて、持ち主に黙ってたくさん取ってもらっていく、などということはもちろんしたことがありません。それは盗みの領域になるのは明らかです。
この時代の規定は貧しい者、弱者、未亡人、孤児などへの配慮がなされたものでありました。生きるために根本的な必要なものが確保されるように、それを抑圧するようなことは禁じられていたのです。ですから弟子たちが行った見ず知らずの人の麦畑から穂を摘むこと、これは法律では認められていたことでした。
■十戒第四の戒め
ところがファリサイ派の人々はその様子を見て、主イエスを責めました。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」彼らはそれをしていたのが安息日であったことを責めたのです。安息日に麦の穂を摘むことは、「収穫や脱穀」という仕事をしている、それは禁じられているではないか、というのがファリサイ派の主張です。この安息日規定は出エジプト記20章8節以下に記されています。十戒の第四の規定として私たちもよく知っているものです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」この規定ゆえに、律法を守ることに厳格であったファリサイ派は、麦の穂を摘むことを労働と見なして主イエスを責めたのです。
十戒はたしかに、「わたしをおいてほかに神があってはならない」「いかなる像も創ってはならない」「主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を覚えて、これを聖別せよ」以下、「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」「隣人のものを欲してはならない」と「してはならない」ことが記され、禁止命令として受け止められますが、そもそもそれは何のために与えられたものでしょうか。十戒の前半は、神との関係について、後半は対人間における関係についての掟です。それを守ることで神との正しい関係に生きるため、神との正しい関係を保つためです。
第四の安息日の掟については、先ほどお読みした言葉の後に、このように続いています。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」神様が七日目に休まれたとはどういうことでしょうか。神様の天地創造については創世記1章の終わりのところに記されています。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。」神様は私たち人間を含むすべてのものを、極めて良いものとして造ってくださいました。そしてそれをご覧になったのです。七日目に休まれたのは、そのすべてをご覧になり、祝福されるためです。神様はお造りになった私たち人間を含むすべての存在を喜んでくださったのです。そして私たちが神様の祝福の元にあることを覚える日として、安息日を定めてくださったのです。ですから安息日とは、神の祝福を受けるため、祝福のうちにあることを私達が覚えるためなのです。
■安息日のもう一つの意味
さて、先ほど出エジプト記の十戒をお読みしましたけれど、旧約聖書の別のところ、申命記の5章にも十戒が記されております。そしてそこにはこの安息日について、違った文言が加えられております。申命記5章14節、15節です。少し長いのですがお読みします。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同じである。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」ここまでは内容は一緒です。この後を聞いてください。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」つまり、この申命記では、エジプトの奴隷状態からの解放のことを言っています。イスラエルの民はエジプトで奴隷としてあった時には、休みのない日々とおくっていました。しかし、主によって救い出され、そして安息が与えられたのです。そのことを覚え、休みにあずかるように言っているのです。
私はこのことを神学校時代、すでに天に召された大住雄一先生が書かれたテキストから学びました。恥ずかしながら、神学生として学ぶまで、出エジプト記の十戒と、申命記の十戒、の意味の違いを意識したことがありませんでした。ですから大変に驚きでした。二つあったものがひとつにまとまったのか、ひとつのものが二つの理解になっていったのか、何が正しいのか、というぐらい混乱いたしました。簡単に言えばそのようなことを研究するのが、聖書学であり、様々な研究がなされ意見が交わされています。今、私が申し上げたいことは、そのような学説がどうなっているかということではありません。私たちプロテスタントにとって聖書は正典であり、聖書のみ。聖書にすべての根拠を置いています。ですから、その聖書、そのものから受け取ること、を大切にするのです。ですから、出エジプトの安息日から受け取れることは、私達が神によって祝福されており、その祝福を味わい覚える日であるということですし、そしてこの申命記の安息日から受け取れることは、私たちの魂の安息は神によってのみ与えられるものだということです。魂の安息は、私達を奴隷のように捉える様々な力から、神様が解放してくださる、救い出してくださることによって得られる、ということです。
■本来の意味
そのように考えると、ファリサイ派が律法に囚われ、律法に縛られて、本来の意味から全く逆の、本末転倒になっていることがわかります。しかし、これはファリサイ派に限った事ではなく、私達にもあてはまることです。私もそうですが、ルールを守ること、決められたことをきちんとやることで自分が正しく生きていると判断し、自分の正しさに満足や安心を得ることができます。しかし、それは自分が感じる安心であって、神様が与えてくださる安息とは違うのではないかと気づかされることがあるのです。裏返せば、正しい行いや、何か役に立つこと、良いこと、をしていなかったら、神様からの平安が得られないということです。さらに進めば、他人に対して、あの人は正しい行いをしていない人、役に立っていない、と裁く思いが芽生えるのです。これがファリサイ派の考え方であり、彼らの問題点、そして私たちの中にもある罪の正体なのです。
休むことによって、私たちは最も大切なことに目を向けることができるようになります。つまり、いついかなる時も、神が主であられる、ということです。どんな時、どんな困難にあっても、神様の元で安息することを求めましょう。安息日の本来の意味は、神様が私たちに祝福と恵みを与えて下さり、様々なものから解放してくださる日ということなのですから。
■ダビデのパン
主イエスはファリサイ派の人々にダビデのエピソードでお答えになりました。サムエル記上21章にあるものです。ダビデはこの時まだ王になっておらず、王であるサウルに命を狙われていました。逃亡生活中に、お供の者たちと共に食べ物がなくなり、ノブという街の祭司アヒメレクのところに参ります。(聖書にはアビアタルと記載されていますが、これはマルコ記者の思い違いと思われます。アビアタルはアヒメレクの息子、サムエル記上の記載が正しいものであります。)そしてパン五個でも手元にありませんか、と問うのです。アヒメレクは「普通のパンはなく、聖別されたパンならあります。」と答えます。この聖別されたパンとは、神様に捧げられ、供えられて、祭司しか食べることのできなかったものです。それをアヒメレクはダビデとお供の者たちに与えました。
主イエスがダビデのことを話されたのにはもちろん意味があります。その一つ目は、ダビデはまだ王となってはいませんでしたが、神様によってイスラエルの王となるべく選ばれた人でありました。神様は既にダビデを王と定めておられたのです。主イエスがダビデの出来事をお語りになったのは、ご自分とダビデを重ね、王としての権威を示されたのです。むしろ、ダビデは、まことの王であられる主イエス・キリストを指し示すために立てられた、と言ったほうがよいでしょう。まことの王であられる主イエス・キリストは、いついかなる時も私たちを養ってくださるのです。そして二つ目の意味は、神に捧げられ、祭司しか食べることを許されていないパンをも用いて、助けを求めている者、貧しい者、平安を失っている者たちを養ってくださるということです。神の恵みは掟に勝るのです。安息日の問題に当てはめれば、安息日には何をしてはいけないという禁止よりも、神様による平安を与える事を大切になさる、ということです。ですから主イエスは、27節で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言われたのです。
■結び
そして今日の聖書箇所の最後のみことばにも目を向けたいと思います。「だから、人の子は安息日の主でもある。」マルコは「人の子」という言葉を、「地上で罪を赦す権威を持つ者」「多くの苦しみを受ける者」「栄光を受ける者」であると記しています。そしてこれらは、絶対的権威と力を持つお方のことを意味しており、律法を制定することも、そしてまたそれを廃棄することも自由にすることのできるお方のことです。そのような「主」は新約聖書においては、イエスに対する称号であり、「人の子」も「主」も共に、主イエスに対する信仰の表明です。「安息日の主」という表現は、「モーセの十戒の主」ということですから、それはモーセを導かれた神ご自身であり、「人の子」は「神」である、ということがここで明らかにされているのです。主イエスと共に生きるとき、律法によるのではなく、主イエスは律法から解き放って下さいます。だから、それだから、「人の子は安息日にもまた主なのである」という言葉、この言葉を福音の言葉として聞くことができるのです。私たちの主は、安息日を破るという当時では極刑に値する汚名、非難、排斥、重荷を負って死への道を歩まれました。だれも、その「主」と共に歩めないほどの厳しい十字架を背負って歩まれた主なのです。人の子として来られた主イエスは、神の御心のままに、歩み、十字架、死、そして復活されました。マルコがこの福音書を記した時代から2000年の隔たりがあります。しかしそれを超えて働くものがあります。それは「安息日にもまた主である御方」が共に生き、共に働いてくださっているという事実です。今、ここで働く主の力があることはわたしたちを力づけます。主と共に、主によって、生きる。その恵みを今日も与えられていることに感謝して歩んで参りましょう。
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