『見えるようになったら』2026年6月21日
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説教題: 『見えるようになったら』
聖書箇所: 旧約聖書 列王記上3:4-14(旧531ページ)
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書20:29-34(新39ページ)
説教日: 2026年6月21日・聖霊降臨節第5主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。」前回、主イエスはご自身による3度目の受難予告をなさいました。場所はエルサレムへの途上。主イエスと弟子たち一行は列をなして、南へ、南へと下り、エルサレムを目指しています。ガリラヤからヨルダン川に沿って死海を目前にして西に向かうことになります。もうエルサレムは目前、エリコの町を出ました。エリコという町はエルサレムから30キロほどのところです。エルサレムに向かう者たちは必ず通る町であります。そしてここでの登場人物は二人の盲人であります。さて、先ほど今日の箇所を読んでいただいたわけですが、なんだか同じような話があったような・・・とお思いになったのではないでしょうか。9章27節から31節をご覧になってください。まるで双子のようなエピソードです。また今日の箇所のマルコやルカの並行箇所を見ていただくと、マルコでは盲人バルティマイ、ルカではある盲人となっていますが、いずれも一人の盲人です。このマタイだけが二人の盲人として記述されています。この9章と20章という二つの箇所、そして二人としてマタイが記したその意味、その関係性を紐解きながら、御言葉に聞きたいと思います。
■「主よ、ダビデの子よ」
「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。」と今日の始まりにありますように、これらの大勢の群衆は主イエスの教えやその御業に触れて、この方こそ来るべきメシア、救い主なのではないかという期待を抱いてついてきた人々です。そして主イエスの一行がエリコの町を出ようとしたその時に、「二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。」とあります。道端に座っていたということですから、彼らは物乞いをして暮らしていたということです。ほとんどの盲人には仕事はありませんでした。ですから、町のはずれで物乞いをして生計を立てるしかすべはなかったのです。彼らは、『主よ、ダビデの子よ』と叫びました。大勢の人々が群れをなして通っていく、その中におられる主イエスに向かって彼らは叫び続けるのです。ここから想像できる光景は、弟子たちを含む大勢の群衆たちは彼らに目を留めることなく、むしろ邪魔だと言わんばかりの態度をとったことでしょう。二人の盲人は「主よ、ダビデの子よ」と叫んでいます。このマタイによる福音書の始まり、1章1節は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」と主イエスがダビデの子であること、救い主であることを記していますけれども、この主イエスと共に生きた人々がそのことを確信していたわけではありませんでした。マタイ12章で主イエスが悪霊に取り憑かれて目が見えず口のきけない人を癒されたとき、人々は驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いましたけれども、あくまでも疑問形のものでありました。ここでこの盲人の二人ははっきりと、「主よ」と3度も呼びかけ、そして主イエスのことを「ダビデの子」と呼ぶのです。ダビデの子孫から救い主が現れると信じられていたこの時代、この方こそがダビデの子、救い主であるお方とは、この主イエスであると彼らは確信して叫んでいるのです。双子のエピソードの9章27節以下でも二人の盲人は「ダビデの子よ」と呼びかけていますが、直前のエピソードで十二年間長血で患った女性をいやし、死んでしまった指導者の娘を生き返らせた話がその地方一帯に広まったとありますから、それを聞いた二人の盲人が期待して叫んだということでありましょう。いずれにしてもこのマタイによる福音書では4人の盲人だけが「ダビデの子よ」と告白しています。
■立ち止まる主イエス
主イエスはこの二人の叫びを聞き、立ち止まられました。大勢の人のざわめきの中に、主イエスは彼らの声を聞き止めて、そして足を止められたのです。弟子たちをかき分けるようにして彼らが主イエスのそばに呼ばれました。主イエスは彼らに声をかけられました。「何をして欲しいのか。」二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言ったのでした。そして主イエスが彼らを憐れんでくださり、そして彼らの目に触れられると、彼ら盲人たちの目は見えるようになったのです。さて、ここで主イエスが言われた「何をしてほしいのか」というお言葉は、実は前回のヤコブとヨハネの母の願いのところでも全く同じ言葉が使われています。ヤコブとヨハネの母が何かを願おうとして戸惑っていた時、主イエスは「何が望みか」と言われたとありました。原文では全く同じ言葉です。協会共同訳では両方とも「何をしてほしいのか」に統一されて訳されるようになっています。前回の出来事と今回の出来事において、主イエスが全く同じお言葉で相手に対応されている。ということは、この二つの話には繋がりがあるということです。聖書というのはこのようなつながりが大切なのです。私は聖書研究祈祷会で協会共同訳の宣伝のようなことを結構話しているので、またかと思われる方もあるかと思いますけれども、新共同訳では前回の出来事が「何が望みか」と訳されていて、今回の出来事は「何をしてほしいのか」と訳されていると、これが全く同じ言葉であって、繋がっているということに気づくには少し「ひねり」が必要になります。しかし、同じ言葉で記されていれば、前後のつながりを見つけやすくなります。それだけでも是非とも協会共同訳聖書もお手元にお持ちいただきたいと思いますし、教会ではある程度の冊数を用意してありますので、礼拝の際にそちらをご覧になるのも良いと思います。
さて、前回のヤコブとヨハネの母は二人の息子を高い地位につけてください、と願いましたが、叶えられませんでした。しかし、二人の盲人は「目を開けていただきたいのです。」と願い、そしてその願いは叶えられました。この違いはなんでしょうか。
■ソロモンの願い
今日の旧約聖書は列王記上の3章4節以下を共に聴きました。ソロモンが王となって間もない頃、主がソロモンに「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われました。そしてソロモンが願ったものは何であったのか、ということが9節に記されています。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」ソロモンは知恵に富んだ王として知られていますけれども、このソロモンの知恵は神によって与えられたのです。神はソロモンのこの願いを喜ばれたとあります。そして続けて言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」ソロモンの願いは、自分のためではなく、神によって与えられた務めを果たすことができるための知恵をと願いました。これが先ほどのヤコブとヨハネの母と二人の盲人の違いなのです。とはいえ、もう少し説明が必要です。二人の盲人は自分のための願いではないのかということですけれども、この二人は、最初に主イエスに願ったとき、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください。」と申しました。「わたしを憐れんでください」ではなく、「わたしたちを」です。そしてさらに「主よ、目を開けていただきたいのです」は正確に訳しますと、「主よ、私たちの目を開けていただきたいのです。」とこちらも複数形の願いであります。このマタイ福音書は「教会」について書かれているものであるということをすでにお話ししてきました。一人の信仰者が主イエスをかしらとする信仰共同体となっていく、そしてその信仰共同体は神の国の前進のためにどのような働きをするのか、そのための信仰者のありようがこのマタイ福音書の18章以下に示されてきました。18章19節に「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という主イエスのお言葉がありますが、まさにそのことがここにも示されております。
主イエスはこのあと21章からエルサレムにお入りになり、十字架への道をまっすぐに歩んでゆかれるのです。主イエスがこの地上から離れられた後、主イエスに従う者たちがどのように歩んで欲しいのか、ということがこの18章から20章に集約されているのです。さてこのマタイ福音書を記した記者マタイの意図をもう一つお話ししたいと思いますが、主イエスによる二人の盲人の癒しは9章でした。主イエスのガリラヤ宣教の始まりの象徴的な出来事でありました。そしてこの20章で主イエスの癒しの御業は終了します。つまり、盲人の癒しに始まり、盲人の癒しで終わっているということです。さらに、9章20節で主イエスは「このこと(癒やされたこと)は誰にも知らせてはいけない」と厳しくお命じになられました。つまり、主イエスが救い主、メシアであるということは隠されなければなりませんでした。まだ時が来ていなかったからです。しかし、時はすでに主イエスご自身によってメシアの受難予告がなされ、そして二人の盲人の「ダビデの子よ」という叫びがこだまして、群衆による「ダビデの子にホサナ。いと高きところにホサナ!」という大合唱になって主イエスはエルサレムへとお入りになる、すでに時がきたということです。
■結び
「主よ、私たちを憐れんでください。」「主よ、私たちの目を開けてください。」これは今も私たちが切に願うことです。私たちも自分が抱えている問題からの解放や、負っている苦しみが取り去られること、悲しみが癒やされること、を祈り願っています。けれども、これらのことの根本は主を見失っているということではないでしょうか。外界のものを見る視力は与えられていても、わたしたちが歩むべき道を示し、導き、養ってくださる主を見ることができずに、道端に佇んでいることの悲しみなのではないでしょうか。この目の開かれた二人の盲人が主イエスによって癒やされて見えるようになってしたことが今日の締めくくりの御言葉でありますけれども、「イエスに従った」です。彼らは見えるようになって、これでやっと自分のしたいことができると思ったのではなく、「イエスに従った」です。主イエスによる奇跡というのは、それによって問題が解決される終わりではなく、神との真の結びつきが示されて、神との歩みの始まりなのです。「目が開かれる」とは神の恵みを知り、神中心の、神に従う生き方へと変えられると言うことです。主イエスはご自分の身に同じ痛み、いえ、それ以上の痛みを覚えて、わたしたちすべてを憐れんでくださいます。十字架に向かう厳しい歩みの中でも「主よ、私たちを憐れんでください」と言う二人の盲人のために足を止めてくださった主イエスであられます。私たちも同じように「主よ、憐れんでください」と祈りたいと思います。さらにはそれぞれ一人一人の祈りではなく、共同体として「主よ、私たちを憐れんでください」と祈る群れでありたいと思います。主によって目が開かれて、主に従う者としての歩みを確かなものとされますように。
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