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『後の者も、先の者も』2026年6月7日

  • 6月8日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『後の者も、先の者も』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編145:8-16

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書20:1-16

説教日: 2026年6月7日・聖霊降臨節第3主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」前回19章の最後に主イエスはこのように言われました。19章の富める青年の出来事の後、ペトロが「私たちは何もかも捨ててあなたに従ってきました。何がいただけるでしょうか」と尋ねました。自分たちは先に従ったから、より大きな報いをもらえるはずだという弟子たちの思いに対して、主イエスは「先の者が後になり、後の者が先になる」と語られました。弟子たちへの警告の言葉としてお話しされたのち、今日の20章の「ぶどう園の労働者の譬え」においてそれが具体的に示されます。

 

■ぶどう園のたとえ

1節にありますように、天の国のことがぶどう園を譬えとして語られます。ですから「ある家の主人」は天の父、神であります。ぶどう園の主人がそこで働く労働者を雇い入れるという話です。まずは夜明けと共にいき、町の広場にいる人たちに1日1デナリオンの約束で人々を雇い入れました。1デナリオンは以前にも出て参りましたように、1日の賃金の相場です。主人はさらに午前9時にも広場に出かけて行き、何もせずにいた人々に声をかけて、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って雇い入れました。そして同じことを昼の12時、午後の3時にもしたのでした。そして夕方の5時にも主人は広場に行きます。そこにはまだ人々がいました。主人は「『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ね、彼らが『だれも雇ってくれないのです』というのを聞くと、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言いました。もう日没まで1時間ほどだというのに、主人は新たに人をぶどう園に送りました。そして日が暮れて、労働者たちは仕事を終えて賃金をもらう時となります。主人は監督に「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言います。そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取ったのでした。それを見ていた人々、特に最初に雇われて、朝から一日中働いた人たちは自分たちはもっともらえるだろうと期待しましたが、やはり同じ1デナリオンでした。主人に不平を言うのです。「1時間しか働かない彼らと一日中暑い中働いた私たちとが同じ賃金とはおかしいではないか!」納得できません、と言うわけです。主人は言います「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」わざわざ繰り返してお話しいたしましたけれども、その内容は読んでいただいただけでわかる譬え話であります。さて、主イエスがこの譬えから何を語ろうとなさったのか、それをじっくりと聴き取りたいと思います。

 

■先にいる者が後になり

最初にお話ししましたように、前回の最後30節に「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」とあり、今日の最後16節にも「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とありますから、このぶどう園の譬えはこの言葉をキーワードとしています。まずこの話の中で最後に来た者たちに最初に賃金が支払われ、最初から働いていた者たちに最後に支払われたという、後の者と先の者の逆転が起こっています。この賃金を支払う順番をわざわざ主人は指定します。もしも逆の順番、つまり朝早くから働いている人が約束通りの賃金1デナリオンをもらって帰っていって、そのあとで、夕方から来てわずかしか働かない人も賃金として同じ1デナリオンをもらって喜びながら帰っていく、というのであれば、何も問題はおきませんでした。しかし、わざわざ問題の起こる仕方で賃金の支払いをさせたのです。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とある主イエスのお言葉は、単なる順番だけではなく、気持ちにも影響します。最後に来てちょこっとだけ働いた者たちは、ほんのわずかしか働いていないのに、こんなにくださり、ありがとうございます、とおそらくこのように思ったことでしょう。しかし、最初から働いていた人、その人たちはその日の朝、広場で主人に雇ってもらった時には、1日働けば1デナリオンの報酬が得られるということをとても喜び、ありがたいことだと思ってぶどう園にきたのです。賃金の支払いが始まるまでは、1デナリオンで満足していたのです。しかし目の前で最後の人たちが1デナリオンをもらうのを見、そして自分も同じ1デナリオンをもらった時、「最後に来たこの連中と自分たちを同じ扱いにするとは」と怒りをあらわにしています。主人はその人に言うのです。「友よ、あなたに不当なことはしていない。」つまり、主人は確かに何も不正はしていないのですが、最後に来た者たちが自分たちと同じ賃金なのは不公平だという感情が起こっているわけです。この感情は非常に自然な感情でありましょう。私たちも時に同じ感情を持つことがあります。自分の方が頑張ってきたとか、苦労してきたとか、教会でもこんなに奉仕をしているなどなど。後から来た人が同じ恵みを受けると心がざわつくのです。この主人の良さ、気前の良さを喜べないこと、15節に主人の言葉として「わたしの気前のよさをねたむのか」とあります。直訳に近い表現では、「あなたの目は悪いのか。私が良い者だから」となります。「悪い目」とは嫉妬や貪欲を示す言葉です。このことがなぜ起こるのかといえば、それは自分と相手とを比較しているからです。しかし、本来、ここで目を向ける、見なければならないのは、相手ではなくて、与えてくださる神なのです。神の恵みに生きる者になるのか、他者との比較に生きる者として生きるのか、ということが問われているともいえましょう。

 

■神の正義

「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」人間と神様において、正しさの基準というのは全く違います。人間、つまり朝一番から働いた者にとっての正義、正しさは、その働きに応じて賃金がきちんと支払われることでありましょう。できる人には多くのものが支払われ、頑張った人たちにはたくさんのご褒美がある。頑張っていない人にはご褒美はなし。それが先の者たちの正しさです。誰かと比べて、その人よりも上ならば、多くのものがもらえる。それがこの人たちにとっての正しさでありましょう。しかし、神の正しさ、神の基準は異なるのです。この「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」というこの言葉は、前回の富める青年、そしてペトロの発した質問ともつながっているのです。ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」というこの彼の言葉を言い換えますと、私たちは朝一番から一日中働いた者たちであるということを言いたいわけです。このぶどう園の譬えでは、それぞれの働きが時間で示されていました。朝から働いた者、夕方に来て少しだけ働いた者。時間に換算したならば、何倍もの開きがあるのに受け取った賃金は一緒であったということですけれども、この譬えにおいて示された1デナリオン、これが何を表しているのかといえば、それは「救い」そのものであります。この1デナリオンは私たちの良い行いへの報酬として獲得できるものではなく、ただ神の恵みと憐れみによって与えられるのだということが示されています。14節の主人の言葉「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」つまり、神は「あなたへの救いを受け取りなさい。私はこの最後の働きのほとんどない者たちも、あなたと同じように救いたいのだ。それが私の愛、私の恵みなのだ。」働きに応じた報酬を支払うというのであれば、最後の人たちがもらえるのは最初の人たちの十分の一ぐらいでしょうか。しかし、十分の一の救いなどというものはないのです。神の恵み、神の救いは救われるか、救われないかのどちらかであり、十分の一の救いがないのと同様に、十倍の救いもありません。人間の業や善い行い、どれだけ働いたか、ということには全く関係なく同じ救い、同じ永遠の命、同じ天の国が与えられます。それが恵みと憐れみに満ちた神の全能の力による救いなのです。

 

■信仰の報い

主イエスは信仰には報いがある、ということもおっしゃいました。この譬え話にはそのことが描かれているとも思うわけです。ぶどう園に雇い入れられて、そして働き、賃金をもらうという設定で語られているからです。雇われて働くというのは賃金という報酬を得るためであるわけです。信仰を持って生きること、それは神のぶどう園で雇われて働くことなのです。一日につき1デナリオンという雇用契約です。一日の賃金の基準である1デナリオン、つまり日々の生活が成り立つための金額です。主イエスに従い、神に従い、神を信じて生きるということはそれが約束されていることであり、それがあるから、たとえ苦労があってもしっかりと働くことができるのです。信仰には報いがあります。お金ではなく救い、永遠のいのち、天の国という報いを求めて、私たちは神のぶどう園の労働者として喜びを持って働くのです。しかし、それが人間基準による報酬ではなく、神の恵みの御心によって与えられるものであるということを明らかにするために、最後に来たものから賃金を支払うということが示されたのです。

 

■結び

「自分のものを自分のしたいようにする」神はご自身のその自由な御心によって、愛する独り子である主イエスを十字架に送られました。それはその苦しみと死によって私たちの罪を赦し、主イエスを復活させるということによって私たちに永遠のいのちの道を示してくださいました。私たちの救いは、この神の自由な、恵みと憐れみに満ちた御心によって与えられているものなのです。朝から晩まで何度でも人々のいる広場へといく主人の姿はとても印象的です。それが神様なのです。待っておられるのではなく、来たら雇ってあげるよ、というのではなく、ご自分から捕まえに来てくださる。それが私たちの神のお姿です。そしてこのぶどう園には定員もなく、どんな人でも、いつからでも働くことができるのです。汗水垂らして働くその日々は確かに大変さもあります。それでもこの主人のもとに置かれていることはこの上ない喜びであることをそこで働く者たちは、つまり、私たちは何度も何度もその生きる道のなかで示されるのです。実は、朝早くからぶどう園で働いた人が、実は一番幸せな人なのです。しかし、なかなかそれに気づく人はいません。私たちはいついかなる時からでもぶどう園の労働者となることができます。たとえ、夕方5時にやってきて賃金をもらうに値しないとしても同様に、賃金が与えられます。神の自由な恵みが与えられ、共に神のぶどう園の労働者として生きることができます。信仰者として生きることの喜びは、後の者も、先の者も同じ恵みにあずかるのです。イザヤ書56章8節には次のような御言葉があります。「イスラエルの追い散らされた者たちを、集められる主なる神の仰せー私はさらに人々を集め、すでに集められた者たちに加えよう。」神はそのようなお方なのです。感謝いたします。

 
 
 

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