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『仕えることを喜びとして』2026年6月14日

  • 6 日前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『仕えることを喜びとして』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編49:8-9

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書20:17-28

説教日: 2026年6月14日・聖霊降臨節第4主日 

説教: 大石 茉莉 牧師


はじめに

主イエスがエルサレムに上って行く途中で受難予告をなさった。それが今日の箇所です。受難予告は主イエスによって3回なされ、小見出しにありますように、これが三度目の受難予告です。受難予告はその場所、そして内容は次第に深まりを見ています。第1回目は16章21節以下。場所はフィリポ・カイサリア地方、ガリラヤ湖の北側です。それはペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した直後のことでした。第2回目は17章22節以下。場所は「一行がガリラヤに集まったとき」となっています。この時にお話しいたしましたように、単にガリラヤ湖の北側から戻ってきたというだけでなくて、ここからエルサレムに向かうのだ、という、いわば決起集会のような緊張感を持つものでありました。そして今日の第3回目に記されていますように、一行は南へ、南へ、刻一刻とエルサレムへ近づいているのです。そして主イエスによって語られた内容も、回を重ねるごとに予告の具体性と緊迫感が増していきます。第1回目では、「苦しみを受けて殺される」と語られました。第2回目では、「人の子は人々の手に引き渡される」と「引き渡される」という言葉が使われました。そして今日の第3回目では誰に、どのように処刑されるのかということが極めて具体的に語られました。祭司長や律法学者たちに引き渡されて死刑を宣告される。そして異邦人に引き渡される。そして嘲られ、唾をかけられ、鞭で打たれて、十字架につけられて殺される。そして三日目に復活する、とありますが、ここで「引き渡す」という言葉が2回繰り返して使われています。捕えられてユダヤ人たちに、そして異邦人であるローマ人に引き渡されるのです。

 

■引き渡されて

十字架刑は、ローマ帝国の権力に対する反逆などに対する見せしめの処刑方法でした。ユダヤ人からすると、それは神に呪われた者の死でありました。申命記21章22節以下に、木にかけられて死ぬ者の規定があります。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」まさに主イエスはこの旧約聖書に記されている言葉の成就として、十字架で死を迎えられます。主イエスはすべての人の罪を身代わりに背負うために、神に呪われて死を迎えるのです。

さて、今日の後半のヤコブとヨハネの母の願いの話というのは、単に時系列で記されているのではなく、主イエスの歩まれる苦難の道と、弟子たちの的外れなこの世の栄光への執着が対比して示されているということでしょう。ヤコブとヨハネの母がやってきて、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」ヤコブとヨハネの母がこの場面に突然登場する理由は分かりませんけれども、子どもを思う母の気持ちとしてはわからないでもありません。そしてすでに弟子たちの間での一番争いがあったことが18章の始まりに示されていました。17章で主イエスがペトロとヤコブとヨハネを連れて山に登られたという出来事の後、弟子たちの中でのやっかみというか、人間的な駆け引きがあったのです。主イエスがなさった最初の受難予告の時から、主イエスは徹底的な低さ、自分が捉えられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられて殺されることを示しておられたわけですが、弟子たちが求めていたのは世俗的な高さ、地位でありました。主イエスと弟子たちは共に同じ方向、エルサレムに足は向いていましたけれども、その心のうちは逆方向を向いているという痛烈なすれ違いが示されています。

 

■杯を飲む

主イエスは言われます「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」主イエスが十字架を見つめておられるのに対して、弟子たちは栄光の座を見ていました。それも12人という主イエスの弟子たちの中で、この人よりは上にありたいとか、認められたい、評価されたい、と思っていたのです。そのことは24節にある「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」という言葉からも理解できます。しかし、このような弟子たちの視点は私たちにもあるのではないでしょうか。私たちも口に出さないまでも、大切にされたい、上に立ちたいという思いを抱えることがあります。教会の奉仕においてさえも、こんなに頑張っているのに、という思いが忍び込むことだってあるのです。ヤコブとヨハネは主イエスが飲まれる杯を飲むことができるか、とお聞きになった時、「できます」と答えましたけれども、この杯は主イエスの十字架の苦難の杯、この時弟子たちが想像していた栄光の喜びの杯とは正反対のものであります。私たちの聖餐式において「ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲むことのないよう、自分をよくたしかめて信仰と真実とを持って聖餐にあずかりましょう。」という勧めの言葉を聞きます。歴史的には、コリントの教会における食事の問題が背景にあるわけですけれども、パウロが指摘したことは、利己的な思いに生きることの戒めでもあり、一つの信仰共同体としての一致としての聖餐の恵みであることを改めて覚え、主イエスの十字架の苦難を忘れることのないようにという勧めなのです。杯とは苦難と神への従順の象徴です。主イエスが飲もうとしておられる杯とは、これから捕えられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられて殺されるという苦しみの杯なのです。主イエスはゲッセマネで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたように、できるならば受けたくない大きな苦しみであったのです。しかし、その苦しみの杯を飲まなければ、復活の栄光に至ることはないのです。主イエスが示される栄光というのは、十字架を通ることで表される栄光です。ヤコブとヨハネが「できます」と言ったように、私たちも、主イエスに従い、主イエスの杯を飲んで、苦しみを背負っていく、そして復活の栄光に与る、それが信仰であると思っているかもしれませんが、さて、私たちにそのようなことができるでしょうか。決してあなたのことを知らないなどとはもうしませんと誓ったペトロもでさえ、主イエスを否認し、そして逃げ去ったのです。それは彼らの信仰が弱かったからではなくて、このような絶望の中での死という苦しみの杯を飲み干せる者は一人もいないのだということです。主イエスお一人がこの杯を飲み干せるのであり、主イエスお一人で絶望の死を引き受けてくださったのです。それによって神の私たちへの救いが実現し、そして私たちが今、聖餐の場で飲む杯は主イエスが共にいてくださる恵みの杯となっているということです。

23節で主イエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」と言われました。このヤコブとヨハネは主イエスの十字架の時には、逃げ去ってしまいました。そして主イエスがゴルゴダの丘で十字架につけられた時、その右と左には二人の犯罪人がいました。人間的な栄光を求めたヤコブとヨハネではなく、天の父が備えてくださったのは二人の犯罪人で、その一人は主イエスによって「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいる」という約束をいただきました。ヤコブとヨハネが欲しがっていた主イエスの左右の座は、この時、主イエスの隣にいた犯罪人にその栄誉を、主イエスを救い主と告白することによって与えられました。そして弟子であった彼らについては、主イエスが復活なさったのちに、ヤコブとヨハネを再び御許に集められ、そして彼らには聖霊の力が与えられ、そして主イエスによる神の救いの恵みを宣べ伝える者となりました。使徒言行録12章にはヤコブがヘロデ王によって剣で殺されて、殉教の死を遂げたことが記されています。ヤコブがこの杯を飲むことができたのも、すでに主イエスが絶望の苦しみの杯をお一人で飲んでくださったからでありました。そしてヨハネはかなり長生きしたと伝えられていますが、主イエスを宣べ伝える者として多くの苦しみ、迫害を受けながら使徒としてその杯を飲む者となりました。

 

■仕える者に

主イエスはこの世の支配の中で、それに翻弄されている弟子たちに「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と言われました。主イエスが言っておられることは、この世の価値観とは真逆のことです。偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさいと言われました。皆に「仕える」というのはディアコノスという言葉であり、簡単に言えば給仕をする者という意味です。僕はドゥーロスという言葉で、意味としては主人の所有物であり、自分の権利を持たないものという意味です。いずれもサーヴァントとして、人に仕えなさいということを言われました。この言葉を本当に受け止めるのはとても難しいことです。頑張って人に仕えるとか、努力して低くなるというようなことではないのです。そうであれば、それはいずれ、頑張ってきた、努力してきたという上への見返りを求めるものとなるからです。主イエスは続けてこう言われました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ここに身代金という言葉が出てきています。この言葉はマタイ福音書ではここにしか出てこない言葉です。口語訳聖書では「贖い」と訳されていました。旧約の時代、贖いというのは二つの側面を持っていました。まず一つは罪の贖いのためには祭儀によってその罪を贖うということがなされていました。つまり、屠られた犠牲の動物が身代わりとなって、人の罪が赦されて清められるということでした。そしてもう一つの贖いが買い取るということです。奴隷を解放するためには、お金が支払われて、そしてそれによって奴隷は奴隷ではなくなり、自由になるということです。主イエスがしてくださったことは、この両方であり、ご自身を犠牲の小羊としてその命をお捧げくださり、そしてその命によって人々を自由にしてくださったということです。したがって、私たちを罪から解放してくださったお方、主イエスが私たちのためにその命を身代金として差し出してくださったのですから、私たちの命とは買い取ってくださった方のものであります。私たちの命はもはや自分自身のものではなく、主イエスのものなのです。1コリント6:19-20に「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」とある通りなのです。

 

■結び

主イエスが究極的に私たちに仕えてくださり、主イエスが命がけで私たちを愛し抜いてくださいました。そして今や、わたしたちの内には聖霊が働き、主イエスの愛が満ちているのです。自らの思いによって、人よりも上に立つことよりも、人の下に立ち、人と共に生きること、多くの人に仕えることによって主イエスの愛を表すことのできることを喜びとすることができますようにと祈るのです。自分の力によってではなく、主イエスによって、変えられることを信じ、祈り願うことができますように。主イエスに従う者としてその歩みが確かなものに変えられていくようにと祈り願いたいと思うのです。

 
 
 

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