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『神の可能性を信じる』 2026年5月31日

  • 6月1日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『神の可能性を信じる』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:1-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書19:23-30

説教日: 2026年5月31日・聖霊降臨節第2主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日の箇所は前回の「永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに問うた青年が、自分で積み重ねる善いことを求めるのではなく、善い方との交わりの中に生きるようにという主イエスのお答えに悲しみながら去っていた話の続きであります。主イエスの言われた「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。」ということの意味は、自らの善い行いにおいては、救いは獲得することはできない。永遠の命とは、神との交わりの中に生きることによって得られるということを気づかせるためでありました。彼が手放せなかったのは、実際のこの世の財産であるのと同時に、彼自身が努力して積み重ねてきたもの、自分自身の善い行い、そして自分の「正しさ」という財産でした。この青年は「悲しみながら立ち去った」と前節22節にあります。律法を守る、善い行いを積み重ねる、父母を敬う、隣人を自分のように愛する、そのような行いをいくら重ねても得られない悲しみがあり、人はそのようなものでは満たされない、その満たされないものを感じていたからこそ、主イエスのもとに来た青年でありましたけれども、悲しみを持って立ち去らなければならなかったこの姿は私たちと重なるものでもあります。

 

■らくだの方が

こうして青年が去った後、主イエスは弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」この主イエスのお言葉を聞いて、弟子たちは、「非常に驚いた」とあります。彼らは「では誰が救われるのだろうか」と思って驚きました。なぜ彼らはそんなに驚いたのでしょうか。彼ら弟子たちというのは、お金持ちとは言い難いでありましょう。そういう意味で自分たちは特に何も持っていないのであるから、天の国に入れると思ったならば、何もそんなに驚く必要はないでありましょう。しかし、彼らは主イエスが言われた「金持ち」という言葉の意味は単に物質的なお金のことだけを指すのではないということを意味していることに気づいたということでしょう。この青年のように、自分の豊かさ、自分の善い行い、自分の正しさを財産とし、それに依り頼むことをやめることの難しさに気づき、そのように自分の善い行いという財産に依り頼む、そのような思いが自分の中にもあるとわかったのです。それゆえに彼らは、救いの難しさということに落胆しました。自分の善い行い、自分の正しさに依り頼んで生きるならば、救いというのはらくだが針の穴を通ることよりも難しいということに気づき、そうであるならば、誰が救われるのだろうか、誰も救われないではないか、それが弟子たちの驚きと戸惑いだったのです。それに対して、主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」と言われました。私たち人間がどんなに努力して善い行いを積み重ねたところで、救いを獲得することはできません。青年は努力し、これでもか、というほどに善い行いを積み重ねたものの、何かが欠けていると感じ、満たされなかったように、安心することはできないのです。救いは神の与えてくださるものです。しかし、それは善い行いへの努力の報酬ではありません。悲しみながら立ち去った青年は、その欠けを満たすにはあと何をすれば良いのか、と人間の力で何とかする、なんとかしよう、なんとかしたいと思っていたのです。

 

■さらにペトロも

今日の聖書箇所でペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言います。あの青年は結局、持っているものを捨てることができず、主イエスに従うことができずに立ち去るしかなかったけれども、わたしたち弟子たちは何もかも捨てて従ってきたのです。どんなご褒美がいただけるのでしょうか?と聞いています。主イエス、あなたは、あの青年にすべてのものを捨てたその時には、と永遠のいのちを約束なさいました。私たちはそれをしたのですからという気持ちから発した言葉でしょう。主イエスは救いは人間の力で獲得できるものではなく、善いことをしたらその見返り、報酬として与えられるものではない、と言われたのに、主イエスの御言葉を全くわかっていないトンチンカンなペトロの言葉であるといえましょう。この時、主イエスは弟子たちを「見つめて」「人間にできることではないが、神はなんでもできる。」と言われました。ただ彼らをみるのではなく、主イエスは弟子たちの心の中を見ておられました。ここまであなたがたが私についてきたのも、そもそも私があなたがたを招いたのも、天の父のなさったことであって、人間の努力によるものではないことを知りなさい、ということを思っておられたのであろうと思います。さらにいえば、この後、主イエスが十字架におかかりになる直前に、ペトロの離反を予告されました。あなたは私を三度知らないと言う、と言う主イエスのお言葉に、ペトロは、たとえみんながあなたにつまずいたとしても、私は決してつまずきません、と言い、そしてたとえご一緒に死なねばならなくなったとしても私はあなたを知らないなどとは決して申しません、と断言しました。しかし、ペトロはどうしたか、みなさますでにご存知の通りです。主イエスはすでにこの時に、ペトロの離反を知っておられたでありましょう。ペトロをはじめとする弟子たちの目を見つめながら、彼らの心の中をじっと見つめながら、「神はどんなことでもできる。あなたのような者を、あなたがたを神は救うことができる」そのように言っておられたのではないでしょうか。努力によって救いが与えられるというのではなく、神は救いを与えてくださる、と主イエスは言われます。何の見返りもなく、報酬としてではなく、神はただただ、私たちへの恵みとして、私たちを憐れんで、私たちを慈しんでくださって、救いを与えてくださいます。

 

■百倍の報い

ペトロの報酬、ご褒美を求める問いに主イエスが言われたお言葉が28節以下に記されています。「イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」救いは善い行いの報酬ではなく、神の全能の力によってただ恵みとして与えられると言ったではないか、とペトロを叱るのではなく、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになると言っておられます。誰であれ、主イエスに従った者は、その百倍の報いがあると言われます。善い行いの報酬や見返り、何かの交換条件として救いが与えられるのではなく、

弟子となって従ってきた者に神は報いてくださると言われます。それはただ「捨てる」と言うことだと主イエスは言われるのです。ここに列挙されているように、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑、それらは確かに私たちにとって大切なものであります。しかし、主イエスが富める青年に全てを売り払いなさい、と言われたように、私たち自身の執着から解き放たれて、神に委ねなさい、と言っておられるのです。つまり、それが捨てるということなのです。神を信頼すると言うことは、自分の手に握りしめているものから手を離すと言うことです。自分が固く、強く握りしめているものから手を離す時、それら全ては神の御手のうちに置かれます。それはここであげられているような財産や地位などの持っていたいものに限らず、悲しみや苦しみ、悩みとて同じことです。自分でどうにかしようとするのではなく、神の全能を信じ、神はなんでもおできになると言うことに委ねて手放す時、神は必ず良いようにしてくださるのです。主イエスはこの私たちの罪を全てお引き受けくださった方です。十字架上で痛み、苦しみながらも私たちのために祈ってくださったお方です。そして神はその主イエスを死から復活させてくださいました。私たちに赦しと救いをお与えくださいました。神は何でもできる、そのことを主イエスの十字架の死と復活によって、新しく生きる力を、神との永遠の交わりの中に生きる永遠のいのちを示してくださったのです。主イエスの御手に私たちが握りしめているものを手放すとき、百倍もの良いものが与えられると主イエスは言われます。

 

■全能の神の思い

今日の旧約聖書イザヤ書55章はイスラエルが滅び荒廃している現実の中で、語られた神の言葉です。捕囚の民に向かって神が無償の恵みを与えてくださること、神が全能であると言うことが力強く語られています。捕囚という絶望的な状況の中で、民はあきらめをかんじていました。しかし、「渇きを覚えているものは皆、水のところに来るが良い。」いう神からの呼びかけで1節が始まっているように、神の救いは求める者に豊かに与えられるのです。水もぶどう酒も、乳も穀物も銀を持たずとも与えられます。神の救いにお金は必要ない、つまり、人間の功績によらない恵みであると告げられているのです。神の思いは私たち人間の思いと異なり、その道も異なり、神の思いは私たちの想像や思いを大きく超えます。私たちの思いには限界がありますが、神には限界がありません。神は全知全能であると言うことがここにも示されているのです。神が思っておられること、神が示されようとされていることは、私たちが価値を置いているもの、私たちが正しいと思っているものを大きく超えているのです。あの青年は善き行い、自分の正しさを握りしめたまま、手を離すことができませんでした。しかし、神が自分より遥かに大きく、遥かに正しいことを知るとき、私たちの信仰というものは、自分の思いによらず、自分の正しさによらず、自分の努力によることなく、ただ神にかかっていることを思い知らされます。ただ神の前に何も持たずに、立つことの正しさと、そして同時に難しさにも直面します。

私たち人間にはこの先どうなるのか、いつ何が起こるのか、も良くわかりません。病もあるでしょう、別れもあるでしょう。死もあるでしょう。そのようなこの世での道のりの中で、自分の持てるものにより頼みたくなる気持ちも起こるでしょう。しかし、私たちにとって不可能なことでも、神が良いようにしてくださると信じる、これが私たちの信仰であり、そのことを軸にして生きてゆけるように祈りたいと思うのです。

 

■結び

今日の最後の30節、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」これはここまでの主イエスのお言葉と次の20章をつなぐ言葉でありましょう。20章ではぶどう園で働く労働者の譬えが語られます。長時間働いた者も、たった数時間働いた者も同じ神の恵みを受けるのです。そこには後も先もない、違いも差もないのだということが示されます。そして何よりも、主イエス、そのお方こそが本来、一番先頭におられる方でありながら、私たちの罪を背負って、十字架という一番低いところに降りられた。一番下に、一番後ろの者になってくださいました。前回、登場しました金持ちの青年は、悲しみながら立ち去りましたけれども、きっとぶどう園に夕刻の最後の時になってやってきて同じ恵みを受け取ったに違いありません。そして今ここにいる私たちも全く同じように恵みをいただいています。神は全てのことを可能にしてくださるお方なのです。

 
 
 

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