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『裏切りの可能性』 2023年9月3日

説教題: 『裏切りの可能性』 聖書箇所: マルコによる福音書 14章10~21節 説教日: 2023年9月3日・聖霊降臨節第十五主日 説教: 大石茉莉

■はじめに

今日の御言葉は14章10節の「ユダ、裏切りを企てる」という箇所から始まりますが、前回の14章1節とも密接な関係にあることがお分かりいただけると思います。14章に入り、主イエスの受難が刻一刻と迫っています。祭司長たち、律法学者たちはどんなことをしてでも主イエスを殺そうとしていました。しかし、時は過越祭がまさに始まろうとする時、そしてそれに続く除酵祭の間は民衆が騒ぎを起こすかもしれないので、祭りが終わってからにしようと考えていたのでありました。そんな中、主イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダが裏切りの行動に出ました。


■イスカリオテのユダ

今日の始まりのこのユダの裏切りは、先週の1節と2節につながっている方が自然であります。この1・2節と10・11節に挟まれるようにして、ベタニアで香油を注いだ女性の話が記されておりました。主イエスに惜しみない愛を注いだ女性の物語でありました。主イエスを愛す女性の対極に主イエスを裏切るユダが描かれています。主イエスを巡る表と裏がここに示されているといえるでしょう。マタイでもマルコでもルカでもこのイスカリオテのユダが登場いたしますのは、十二弟子の選びとこの裏切りの箇所であります。十二弟子の選びのところでは、マタイでは10章4節に「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」、マルコでは3章19節に「このユダがイエスを裏切ったのである。」、ルカでは6章16節に「後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。」と、いずれも「裏切り者ユダ」という但し書き付きで記されています。今日の箇所を読みましてわかることは、ユダは自ら主イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところに出かけて行った、ということです。確かに祭司長たちは主イエスを殺そうとしていました。しかし、彼らがユダに持ち掛け、ユダがその誘惑に乗ってしまった、ということではないのです。ユダ自らが彼の意志で主イエスを裏切ることを彼らに話したということです。ここで些細なことのようですが、こだわりの表現があります。10節に「ユダは、イエスを引き渡そうとして」とあります。ユダはイエスを「裏切ろうとして」ではなく、「引き渡そうとして」であります。主イエスはご自身で3度、受難予告をなさいました。そしてその時にこの「引き渡す」という言葉を使っておられました。三回目の最も具体的に語られたその受難予告はこのようでありました。10章33節「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。」まさにこのお言葉通りのことをユダは行うのであります。

この受難予告の1回目、8章31節のところでお話しいたしましたけれども、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」の「そのようになっている」という言い方は、それが神の計画である、ということを明確に表す言葉です。ですから、ここでユダが主イエスを引き渡す、ユダがその決心をした、そのこと自体、主イエスが言われた通り、神のご計画に沿っていることなのであります。マルコはそのことを明確に語るために、あえて「裏切ろうとして」ではなく、「引き渡そうとして」という言葉を使ったのです。


■裏切りの理由

ユダがそのような決心をすること、そのユダの心を主イエスはすでに見抜いておられました、知っておられました。そしてその行為の背後には、神のご意志があること、神の御心が働いておられることを信じておられました。ユダの裏切りの背後に神が立っておられることはおそるべきことではないでしょうか。

ユダの裏切りの理由については、聖書は記していません。ユダにはユダの理想があって、彼が主イエスを裏切るというよりも、彼自身が主イエスから裏切れたと感じていたかもしれません。つまり、ユダが自分の思っていた救い主の姿と異なっていて、ローマ帝国から解放してくれる力強い指導者ではないらしい、と思うようになったとか、もしくは、切羽詰まった状況になれば、主イエスが立ち上がってくれるかもしれないから、あえて行動に出たなど言われてきました。また、この直前のベタニアの女性の行いを正面切って憤慨したのはユダであったと別の福音書は記しています。そしてそのことに対して主イエスが「するままにさせておきなさい。」と遮ったことで、彼は自分を否定されたと考えたのではないか、この極端に美しいベタニアの女性の行為がユダをその対極に走らせるきっかけになった、とも言われたりします。しかし、それはあくまでも想像であって、聖書にはその理由は書かれていないのです。マルコはなぜ裏切ったかということには関心を寄せておらず、「十二弟子のひとり」が自らの意志で主イエスを裏切ったという、この事実を伝えたいのです。この14章の少し後には、あのペトロが主イエスを否定する、ペトロも主イエスを裏切る、そのことが書かれております。そしてそのことも主イエスは知っておられました。

弟子たちはすべて、主イエスが捕らえられた時、逃げ去りました。ユダ、ペトロ、弟子たち、そのすべてが、私たち人間の弱さ、罪深さを指し示しており、そしてまた、そのような者たちを主イエスは弟子としてくださった、主イエスが弟子の選びを間違ったのではなく、そのようなそれぞれの人間の弱さをご承知の上で弟子にしてくださったのであります。そのことを知る時、わたしたちはただただ主の愛の大きさに驚きと感謝するしかなく、そして神をあがめ、御前にひれ伏すしかありません。

すべてが神のご計画でありました。愛する独り子である主イエスを死に向かわせ、それも十字架という最も惨めでむごたらしい姿を晒したのです。そこに私たち人間の醜さ、罪深さ、裏切り、欲、を関わらせ、見せておられるのです。それは私たちを裁くためではなく、私たちを救いへと導くためなのです。神は私たち人間をどれほどに愛しておられるのでしょうか。その神のご計画、主イエスはすべてを知っておられる、そのことはこの後に示される「過越しの食事」の出来事にも示されております。


■過越しの食事

さて、12節には、「除酵祭の第一日、すなわち過越しの小羊を屠る日」これはまず過越祭が1日だけ行われ、その次の日から7日間、除酵祭が行われます。前回もお話ししたように、ユダヤでは日没から翌日ということですから、過越祭の日であり、夜には除酵祭の第一日となるということです。そしてエルサレム神殿の庭で屠られた小羊を祭司からいただき、家に持ち帰って食事をする、そのようになっていました。エルサレムの都でしかできない祭りでありましたから、沢山の巡礼者たちが集まって来て、そしてエルサレムの住人たちは、その広間などを巡礼者達にも提供したようです。そのため、12節にあるように、「食事をどこに用意しましょうか」と弟子たちが尋ねたのであります。二人の弟子が都に行くと、水瓶を運んでいる男と出会い、その人が入って行く家の二階の広間が私たちの過越しの食事の場所であると言われたのです。主イエスはすべてご存知であり、神のご計画に沿って歩まれる、ここにも人間の思いを超えた神の備えがあることが示されているのです。

この過越しの食事について調べてみますと、ほぼ10人から20人程度で集まる、となっています。誰でもよいわけではなくて、それぞれが信頼できる仲間を招いて食事をしたようです。そして過越しの祭りの小羊はそこにいる人すべてに行き渡り、残すことなく食べつくす。そのようなしきたりがあったそうです。出エジプトの出来事に由来しているわけですから、イスラエルの民すべてが神の救いに与っている、神の民として生かされているのだということを、同じ食卓を囲み、確認する時でもあったというのです。食べ物も奴隷から解放され、エジプトを脱出し、イスラエルにたどり着くまでの期間を忘れないようにするために、それぞれに意味のこもったものを順番に食べました。犠牲やいけにえの象徴としての肉、奴隷だった時の苦しみを象徴する苦みのある野菜などを食すのです。

そしてこの過越しの食事の主人、つまりホストは主イエスであられます。主イエスは「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と言いなさい、と弟子たちに言われました。「わたしの」と言っておられるのです、この食事は主イエスが主催するものであります。


■「まさかわたしのことでは」

こうして、主イエスご自身が、過越しの食事を備え、弟子たちを招いて下さったのでありました。主イエスは弟子たちと食事の席につかれました。まずは主イエスがこの食事の主人として、また弟子たちの師として、彼らに祝福をなさるところであります。そこで主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」主イエスが大切なことを話される時の「はっきり言っておく」という宣言と共に、衝撃的なお言葉が発せられました。これは衝撃的な言葉であります。そして続く19節、「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」とあります。主イエスのこの言葉を聞いた時、ユダはどのように思ったでしょう。自分が裏切ろうとしていることをズバリと指摘されて、ユダはドキッとしたのではないかと想像いたします。しかし、聖書はユダがどのようであったかなどは何も記しません。むしろ、他の弟子たちのことを記しているのです。心を痛めて、とありますのは、心が苦しくなって、とも訳せる言葉です。彼らはここで、自分は絶対に裏切らないと宣言したわけではなく、また、自分たちのこの仲間の中で裏切るのは誰か、と言い合ったりしたのではなく、自らの中に、ドキリと、裏切ってしまうのは私かもしれない・・・という人間の弱さがあきらかにされ、彼らが自覚し、意識したのでありました。十二弟子全員が自分の中に裏切りの可能性を見たのでありました。

詩編41編10節にはこのような言葉があります。「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。」主イエスが言われたお言葉の背景にはこの言葉があるのです。この「わたしの信頼していた仲間」は、元々のことば、ヘブライ語では「わたしのシャーロームの人たち」つまり、「わたしの平安の人たち」という言葉です。シャーローム、平安、はイスラエルの人たちが日常の挨拶に「シャーローム」「平安がありますように」と使いますが、意味としては、もっと深いものがあり、神と人との間のあるべき関係、強い絆、信頼関係に結ばれている状態を指しているのです。主イエスは続けて言われました。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」先ほどこの過越しの食事で何を食べるか、という話を少しいたしましたけれども、この「鉢に食べ物を浸す」これはこの過越しの食事において、野菜を塩水の入った鉢に浸して食べたものを指します。この野菜は、苦みのあるもので、奴隷だった時の苦難を思い起こさせ、塩水も同様に苦難の歴史を意味するものであります。皆がこの食事を儀式として順序に従って食べるのです。このように苦みのある野菜を一緒に鉢に食べ物を浸し、そしてまた、他の食べ物も共に食す、裏切り者は主イエスとの密接な交わりの中にいることが示されています。


■結び

今日の御言葉の最後にはこうあります。「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」この衝撃的な言葉はどのように理解したらよいのでしょうか。愛の人、主イエスがこんなことを口になさるなんて、と思うでしょうか。確かに厳しい言葉であります。しかし、裏切るユダに対する呪いの言葉でしょうか。決してそうではないのです。主イエスは既に知っておられた。ユダに向かって、「わたしはあなたがしようとしていることを知っている。それでもまだやめようとしないのか。」と言っておられるかのようです。そして、主イエスは前もって、彼に、彼が行おうとしていることの結果について語っておられるのです。引き渡した結果、自らを責め、生まれてこなければよかったと自らを呪うほどに苦しむことになる、と最後の一歩を踏みとどまるように語られたのであります。厳しい言葉はそのまま主イエスの愛の深さなのです。

ユダと私、は無関係でしょうか。ユダのような大それたことはできない、そうかもしれません。しかし、たとえ小さな裏切りでも、結果が大きくなることはあります。そのように思います時、ユダと私、わたしたちは決して無関係でははく、むしろ、わたしたちを的確にあらわしているとさえ思うのです。こうして私たちの中にも裏切りの可能性を見る時、私たちは自分たちの罪の大きさにおののきます。しかし、私たちの罪は主イエスの十字架の贖いによって、呪いは祝福へと変えられ、背きは赦しへと変えられています。これは主イエスにしかできないことであります。神はそのために主イエスを人として遣わして下さり、そして十字架への道をお定めになったのです。主イエスご自身もそのことを十二分にご存じであり、それゆえに、最後の食事を弟子たちと共にされて、神を讃えるためにオリーブ山への道、十字架への道を歩まれたのです。このことを思います時、改めて、あなたに従う者として歩ませてくださいと祈りを捧げるのであります。

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