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『行くべき道』 2025年3月9日

  • NEDU Church
  • 3月10日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『行くべき道』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書30:15-22

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書7:13-14

説教日: 2025年3月9日・受難節第1主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日、与えられました箇所は短い2節のみです。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」主イエスの言われた御言葉によりませば、私たちの前には二つの門、そしてその先の道があります。一つは滅びに通じる門です。そちらは広い門であり、道も広い。そしてそこから入る人がたくさんいる。もう一つの道は命に通じる門です。その門は狭く、その先の道も細いものである。そして見出すことが難しい、ということです。

 

■山上の説教のまとめとして

繰り返しお話ししておりますように、このマタイ5章から7章は山上の説教。主イエスが弟子たち、そして群衆たちに語られた教えであります。主イエスの具体的な教え、これは先週の部分で終わっております。様々な旧約の戒めではこのように命じられているが、しかし、私は言っておく、とおっしゃって、主イエスの愛の戒めを示してこられました。主イエスは律法と預言を廃止するためではなく、成就するためにいらっしゃいました。その教えを一言でまとめるならば、先週の7章12節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」ということでありました。これは単に「人に親切にしなさい。」というような一般教訓的な教えではなく、私たち生きる者たち全てが神に愛されている存在であり、すでに主イエスによって天の父と繋がって生きる私たちは、天の父に愛され、天の父に養われているのだということを覚え、そして主イエスが貫かれた愛の生き方のうちに置かれていることを覚えるということでありました。

そして今日の箇所から7章の終わりの部分までは、山上の説教のまとめとして、弟子たちへの励ましと覚悟が語られているのです。

 

■狭き門・細き道

私たちの目の前にある二つの道。私たちは常に様々なことで決断をしていかなくてはなりません。それは日常の小さなことから、人生の分岐点というような大きなものまで多々あります。人生、生きていくことは選択の連続です。さて、その時に何を基準にして道を選び取っていくでしょうか。右か左か、どのようにして決断していくでしょうか。仕事などであれば、成功への道はどちらだろうか、とか、損得も一つの基準になりましょう。また、人にどのように見られるか、ということも気になるかもしれません。それらの決断において、どちらがキリストの言われる狭い門、細い道なのでしょうか。どちらがキリストに従う道なのでしょうか?主イエスはどのような意味でこの狭い門、細い道といわれたのでしょうか。一般的に狭い門、狭き門と聞きますとイメージするのは、主イエスの御言葉のその意味よりも、もっと一般教訓的な意味合いではないでしょうか。つまり、人生には二つの門、二つの道があって、どちらかを選んでいく。一つは厳しく辛い道。もう一つは楽な道。楽な道を選びたくなるけれども、厳しい道を選ぶ方が、結果的に人生は豊かなものになる。いわば、たとえ修行のようであったとしても狭い門から入り、細い道をいくことによって、本当の幸福が与えられる、というような理解です。しかし、主イエスが言っておられるのは、そのようなことではありません。将来の幸福のために苦労の道を選びなさい、ということではないのです。

 

■狭い門、細い道

私たちはこのように一般的な自分たちの理解に基づいて、主イエスの言われる「狭い門、細い道」を捉えますが、実際、この門、この道がどこからどこへ通じているのかをわかっているでしょうか。実は、私たちはわかっていないのではないでしょうか。なぜならば、主イエスは「それを見いだす者は少ない。」と言っておられるのです。その前の13節の広い門、広々とした道、「そこから入る者が多い」とも言っておられます。この「多い」と訳されている言葉は、実際にはもっと強い意味があって、「ほとんどすべての」というような意味です。命に通じる狭い門、その道に気づくことなく、私たちのほとんどすべては広い門から入って、広々した道を歩んでいるというのです。私たちがわかっているつもりでも、実は、狭い門、細い道は見つけていない、と主イエスは言っておられるのです。主イエスはこれらの言葉を弟子たちに語られました。その時、具体的に広い道をゆく人たちとして具体的に指摘されたのは、5章20節に出てまいりました律法学者やファリサイ派の人々のことを念頭に置いておられたでありましょう。彼らは自分たちこそが正しい信仰に生きており、断食も行い、厳しい道を辿っている代表であると自負していたからです。律法学者たちは狭い門から入り、細い道を辿っている、自分たちはそこにいて、人々にそれを語り教えることができる、と思っていました。それがファリサイ派の「義」でありました。しかし、主イエスは彼らの「義」によっては、天の国に入ることはできない、と言われた、そのことは5章20節で聴いた通りであります。主イエスはヨハネ9:41で、ファリサイ派の人々に、「あなたたちは『見える』と言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われました。つまり、狭い門、細い道がわかっている、見えていると主張していた彼らは、実は狭い細い道を歩んでいるわけではないのです。

 

■広い道

今日の旧約聖書、イザヤ書30章15節にはこうあります。「『お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」「お前たち」と言われているのは、イスラエルの民。神を信じて生きているはずの者たちに向かって、このように主は言われました。静かし信頼するのではなく、それを望まず、むしろ早く逃げよう。馬に乗って、速い馬に乗って逃げよう、と自分たちの持てる力により頼みました。神を待つのではなく、神に信頼するのではなく、自分たちの力でなんとかしよう、神を当てにして待つよりも、滅ぼされる前に馬に乗って逃げる方が確実だ。神の民であるはずのイスラエルの民はそのように考えました。つまり、馬に象徴される人間の持てる力の方が確実な道。それは門構えも広く、その先に広がる道も広い。その方が安心である、と考えたのです。目に見えない神、祈りにすぐに答えをくださらない神よりも、滅びないためには馬で逃げる。そのように一人の威嚇によって共に逃げた千人は広い道を行こうとも一人の敵に怯える。イザヤ書30章17節は告げています。神に安らかに信頼することのなかなかできない私たちは、広い道が安心に見え、その道をいく方が確実であると思ってしまうのです。そしてその先にあるのは、一人の敵に怯えるという、結局は不安の中を歩くという間違いを犯すのです。神を信頼せず、神の道を歩まず、神と共に生きないこと、それが私たちの罪です。ここで主イエスは神に信頼して歩む道を行きなさい、と示しておられます。それが狭い門であり、細い道であります。しかし、この教えを主イエスが語られた時、直接に聞いていた弟子たちも同じ間違いを犯し、主イエスのお言葉、招きに従うことはできませんでした。主イエスが捕えられ、十字架にかけられた時、弟子たちは怯えました。怖くて、不安だったのです。それゆえに、強く否定し、そして「馬に乗るかのようにして急いで」ガリラヤへ逃げようとしたのでした。

 

■わたしは門

しかし、弟子たちには、復活した主イエスが現れてくださいました。ルカ福音書24章に記されている「エマオへの道」という箇所です。弟子たちが歩くその「道」に主イエスが共に歩いてくださったのです。この時初めて、弟子たちは主イエスに従う道を歩み始めたのです。主イエスが語られたお言葉、狭き門、細い道、この意味に目が開かれたことでしょう。ヨハネ福音書10:9では主イエスはご自身のことを「門」そして「道」と言っておられます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」続く28節「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」また、14:6では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とも言っておられます。狭い門に入る、細い道を行く、ということは、主イエスの招きに従って、わたしのところにきなさい、という主イエスと出会うことです。この細い道は主イエスそのものであり、主イエスが歩まれた道であるということです。この山上の説教を弟子たちに語られたこの時、主イエスはご自身の十字架への道をすでに知っておられました。「命に通じる門、その道」を開くために、主イエスは十字架におかかりになり、そして父なる神によって甦りをなさり、弟子たちへ道を示されたのです。

 

■マイノリティでも

そして主イエスは「それを見いだすものは少ない」と言われました。つまり、主イエスを見出す者が少ない、主イエスに従う者が少ないことを嘆いておられます。確かに主イエスに従うキリスト者、日本でもかなりなマイノリティです。しかし、すべての人のための道が、この狭く細い、小さな群れである私たちのような教会、狭いところから示されてゆくのだと思うのです。それは地の塩であり、燭台の上に置かれたともし灯であり、敵を愛し、祈り続け、求め続ける歩みであります。私たち自身の行いが道を広くするのではなく、そのようになることが神の御心であり、主イエスがそのようにしてくださる、私たちはそう信じるのです。私たちがこの現実の生活において、キリスト者として生きることは、狭い門、細い道を歩むという決断をすることであり、それには勇気が必要でありましょう。難しいことだと思うかもしれません。しかし、実はそれが最も安心な道であることに気づかされます、なぜならば、狭く細い道を、私たちは一人で歩むのではなく、私たちの歩みに先立ち、主イエスが歩いておられるのです。

 

■結び

ここを生きよ、この道、この細くとも一本の道、私の道なのだ、ここを行け、と主は言っておられます。このお方、主イエスは神を知らずに生きていた私たちのために、十字架にかかって死んでくださったお方なのです。私と共に生きるものは、私の命を受ける。新しい命である、と新しい霊を注いでくださったお方なのです。このお方、主イエスは今も生きておられ、今も私たちと共にいてくださるお方なのです。私たちは一人で歩んでいるのではないのです。常に、いつも、私たちを導き、私たちを支えてくださるお方と共に歩んでいるのです。イザヤ書30章21節に素晴らしい御言葉があります。「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け』と。」私たちは不安なく、恐れなく、狭い門、細い道を、感謝と喜びを持って歩み続けることができるよう、聖霊の導きを祈りましょう。

 
 
 

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