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『行くべき道』 2024年7月21日

説教題: 『行くべき道』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編32:8-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書2:1―12

説教日: 2024年7月21日・聖霊降臨節第10主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

今日の箇所は、まさにクリスマスの時に何度もお聞きになっている箇所でしょう。私たちは今、7月という時を過ごしており、主イエスのご降誕を待ち、お祝いする待降節・降誕節には後数ヶ月を要する時であります。時は聖霊降臨節、この聖霊降臨節というのは、教会暦において最も長いものです。教会暦で言えば、降誕前(アドヴェント)、降誕日、降誕節、復活前、復活祭(イースター)、復活節、聖霊降臨日(ペンテコステ)、そして聖霊降臨節、そしてまた降誕前に戻るのが一年のサイクルです。つまり、主イエスのご誕生を待つ、そしてお生まれになるクリスマス、復活、主イエスが父のもとに帰られて、聖霊が降る。これを通常の流れとして理解しています。今、私たちが歩んでいるこの聖霊降臨節はアドヴェントに向かう降誕前の暦まで20週以上続く一番長い教会暦の時ということになります。

さて、このことは、主イエスのご生涯とも重なります。つまり、主イエスの御降誕を待ち望み、お生まれになり、そして人としての30数年を歩まれました。そして十字架の死を迎えられ、父により復活なさり、父のもとに帰られた。そして聖霊が降る。そこから教会の歩みが始まったわけですが、この聖霊による時、これが今2千年の時が流れているわけです。聖霊の働き、聖霊の力、私たちには見えず、そして気づいていませんが、神はひとときも休まれることなく、働いておられるのです。もっともっと聖霊の導きを祈りたいと思います。この一連の暦、今お話ししたように、主イエスのご降誕からこれらの出来事が始まると考えますが、実は降誕が始まりではありません。初代の教会が祝いとして始めたのは、復活でありました。教会の歩みの始まりから日曜日に礼拝をするようになったのも、主イエスのご復活を祝ったからでありました。主イエスのご誕生のシーンは、寒い夜空に星が煌めいているそんな12月の25日をイメージいたしますけれども、実はその日にお生まれになったというわけではないようです。4世紀ごろのローマ帝国で冬至の時期に農耕の儀式を行う習慣があり、それを合わせてキリストの降誕祭を制定したようです。ですから、正確にはいつというのはわからないのです。なんだかせっかくのクリスマスの喜びを半減させてしまうようなことを申しましたけれども、そもそもクリスマスの喜びとは、救い主が私たちのところに来てくださったという喜びの出来事でありますから、その喜びはいつでも祝うことができると言えるのではないでしょうか。正確な日付よりも、大切なのは、「主イエスがこの世に人としてきてくださった」ということであり、この事実は変わらないのです。今日も暑い夏を前にした時でありますけれども、主イエスがきてくださった喜びの出来事、そしてその時、関わっていた者たちの心の動きが示されるこの箇所を味わいたいと思います。

 

■占星術の学者たち

今日の第2章に登場いたしますのは、占星術の学者たちです。クリスマスのページェントなどでは3人の博士として登場いたします。この後で、主イエスに捧げられる贈り物、黄金、乳香、没薬と重ね合わせて3人というイメージが定着していますが、実際にはもっと大勢の学者たちでありました。この人たちは東の方から来た、と書かれています。ですから、ペルシア、もしくはバビロニアの学者たちと考えられています。この「博士」という言葉はギリシア語でマゴスと言います。このマゴスはマジックの元となった言葉です。直訳すれば魔術師ということになりますが、今の私たちの知る魔術師とは異なります。彼らは天文学者と言った方が良い人々でありました。私は全くの理系音痴でありますから、現在の宇宙科学者、天文学者がどのようにして、星の動きを調べたりすることができるのか、ということについて、全く無知なのですが、それでも一般の人が使うような望遠鏡とは桁違いの宇宙望遠鏡と呼ばれるものを使っているということぐらいは分かります。それに比べて、主イエスのお生まれになった2千年前、もちろん、星はもっともっと見えたことでしょう。けれども、それらがどのように動くのか、特別な機械もなく、彼らはその動きを見続け、記録し続け、そこからさまざまな予測を立てました。世界の情勢なども予測したと言われています。星の動きを通して、世界の行く末を見極めるということをしていた人たちなのです。ペルシアやバビロニアにおいては、学者として地位を持っていたその人々でありますが、イスラエルの民にとっては異邦人、異邦の民です。イスラエルの人々は救い主の誕生を待ち望んでいたのでありますから、本来であれば、イスラエルの民こそが、自分たちの王としてお生まれになった方の誕生を知るべきであったでしょうし、また、そのことを喜びを持って祝うはずでありました。しかしながら、そのユダヤ、イスラエルの抱いた気持ち、それは「不安」でありました。

 

■不安

3節にこう書かれています。東の学者たちが「その方の星を見て、拝みに来たのです。」というのを聞いた「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあります。ヘロデ王は独裁的な人物であり、王と自認するもののローマ帝国に取り入りながら、ユダヤ王としての地位をなんとか保っている人物でありましたし、自分の地位を脅かすものに対してはたとえ親族といえども排除するような者でありました。ですから、わざわざ、東、他国の学者たちが一団を組んで拝みにくるような人物に対しては、不安、警戒心、そしてそれ以上の殺意を抱いたのは至極当然でしょう。当時のローマ帝国との関係、ヘロデ王の性格を思えば、不思議でもなんでもありません。問題は、「エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあっさり書かれているこちらです。なぜ、人々は喜ばなかったのでしょうか?なぜ人々は不安を抱いたのでしょうか?エルサレムの人々にとって、新しい王の誕生、それは本来、良き知らせであったはずです。人々はその誕生を待ち望んでいたはずなのです。しかしながら、それは喜びではなかった。不安でしかなかったのです。6節に引用されているミカ書5章1節にはこうあります。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」人々は当然ながら、この預言者の言葉を知っていました。さて、本当にそのような人が出てきたら、どうなるのか?どのように変わるのか?ヘロデ王とは対立するのか?自分たちの今の生活は本当に良くなるのか?今のままで我慢した方がマシではないのか?などなど、変わることに対して渦巻くさまざまな声が聞こえてくるようです。彼らは口では救い主を望むようなことを言いながら、自分中心のものであり、もしかしたら自分を脅かすかもしれない存在に不安を覚えたということでありましょう。本当の意味で救いを求めてはいなかったのです。一般の人々がそのようであり、さらに祭司長、律法学者に至っては、ミカ書の預言に基づいて、「ユダヤのベツレヘムで産まれることになっている。」とヘロデ王に進言いたしました。この2章の始まりの部分には、「ユダヤ、ユダヤ人の王」というようにユダヤが何度も出て参ります。マタイはこの福音書をユダヤ人のために記し、ユダヤ人のための、ユダヤに始まる神の救い、主イエスがユダヤ人の王として、ユダヤ人の地にお生まれになったことを告げているのです。しかし、ユダヤ人の指導者、祭司長、律法学者たちも、ユダヤ人のまことの王を喜び迎えることはありませんでした。

 

■喜び

ユダヤの人々の「不安」に対して、「喜び」として登場しているのが、この異邦の国の博士たちであります。彼らは、「拝みにきたのです」と言っています。「拝む」これは、礼拝でありますから、喜びに満たされて、東の遠方から礼拝をするためにやってきたのです。その拝みにやってきた博士たちを星が導き、そして幼子のいる場所の上に止まりました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」と10節に記されています。この博士たちの大きな喜びは幼子である主イエスに会えて喜んだのではありません。すでにお会いすることができるということだけで満たされているのです。私たちが喜ぶのは、一般的には達成した時に感じるものではないでしょうか。しかし、博士たちは礼拝をお捧げできる幸い、そしてその前に、神に導かれているという喜びに満たされている、そのことがこの10節に示されていると言えるでありましょう。学者たちは自分たちの東の国で、その方の星を見ました。その星が自分たちを導いている、そのように思い、はるばるエルサレムまでやってきたのです。そしてその後は、その星が学者たちを幼子、主イエスのところまで先導して進みました。彼らの喜びは、神に導かれている、という喜びなのです。そして、学者たちは、喜びに満たされたまま、母マリアと共におられた主イエスにお会いします。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬という三つの贈り物を致します。黄金はいつの時代でも貴重なものでありますし、王に相応しいものでありましょう。そして乳香は木から採れる樹液が固まると乳白色になり、それを焚くと美しい香りのお香となり、香水などに使用する香料の原料となっています。古代においては、神殿での礼拝の聖なるお香として使われたと言われます。ですから、学者たちは、幼子主イエスへの贈り物として黄金と乳香を携えてきたのは、主イエスが王であり、神であると理解していたからであるとわかります。そして三つ目は没薬です。古代エジプトでは防腐剤としてミイラ作りのために使われたと言われています。主イエスが十字架につけられ、死を迎えられた後、婦人たちはそれを見届け、香料と香油を準備いたしました。この香料、香油が没薬であったと言われています。主イエスの死に際して用いられたこの没薬を、学者たちは生まれた時に献上いたしました。その死をもって、人々を救いに導く王であるということを予測して没薬を贈ったとも言われたりも致します。当時、高価で貴重であったとはいえ、主イエスがこの世に来られたのは十字架で死ぬためであった、というのが神のご計画でありましたから、没薬が捧げられたという出来事は、罪の贖いという使命を暗示していたといえるでありましょう。

 

■結び

今日の最後の箇所には「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。」と記されています。ヘロデのところへ戻る道とは違う道を通って、自分たちの国に帰っていった、ということでありますが、単純なルートの話ではありません。学者たちは神に導かれていることを知ったのです。神が共にある喜びを知りました。彼らは救い主と出会いました。それは今までとは違う道が与えられた、ということです。私たち一人ひとりも同じように導かれ、そして主イエスとの出会いによって、何の変わり映えもしない日常のように見えても、私たちには今までとは異なる新たな道が与えられているのです。そのようにして新たに示された道は、主の御心に適う道であります。足元のおぼつかない私たちではありますけれども、御言葉に養われ、そして主に示される道を歩んでまいりたいと思います。

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