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『行くべき道』 2023年5月14日

説教題: 『行くべき道』 聖書箇所: マルコによる福音書 10章46~52節 説教日: 2023年5月14日・復活節第六主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

すでに何回もお話しておりますように、この10章は主イエスがエルサレムにお入りになる前の最後の弟子たちとの道行きであります。すでにホームグラウンドであるガリラヤを離れ、ヨルダン川沿いに南へ南へと進んで参りました。今日の御言葉の始まり46節にはエリコという地名が出てまいります。巻末の地図で見ますと、死海へと続くヨルダン川からエルサレムに向かう時に通る町であることがわかります。このエリコという町は紀元前9千年ころから人が住んでおり、現存する最古の町と言われているそうです。そしてその意味は「棕櫚の町」、棕櫚、別名ナツメヤシの木は日本でも南国宮崎などのイメージとしてご存知でありましょう。すっと伸びた葉は大きなもので2メートルぐらい、木の高さは10メートルにもなるそうです。そしてその木にはナツメヤシの実、デーツと呼ばれる栄養価の高い果実が実ります。ですからこのエリコは古代からナツメヤシの実の産地だったそうです。そして詩編92編13節にはこうあります。「神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。」聖書において、ナツメヤシは勝利、祝福の象徴とされてきたのです。この後、主イエスがエルサレムにお入りになる時、大勢の群衆がなつめやしの枝を持って迎えに出て、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」と叫び続けたとヨハネ12章13節は記しています。そんな高く伸びた棕櫚の木があちらこちらにある町、エリコが今日の御言葉の舞台です。


■道端のバルティマイ

主イエスと弟子たちはエルサレムへの旅の通過点であるエリコを出ていこうとされました。時は過越しの祭りが近づいていました。大勢の巡礼者たちもエルサレムへ向かっていたのです。そのような多くの巡礼者たちからの施しを期待して、町の門の近くにはたくさんの物乞いがいたのです。その中に、ティマイの子、バルティマイという人がいました。彼は目が見えませんでした。当時の社会においては、盲人は社会的にも認められず、目の見えないことは罪の結果とも考えられていましたから、バルティマイは人々から邪魔にされ、物乞いをしてしか生きていく術はありませんでした。人通りの多い道端に座り、人から何かしらのものを恵んでもらうしか方法はなかったのです。しかし、この日、バルティマイは周囲の気配、人々の足音、話し声から何かいつもと違うことに気付きました。耳を澄ましていると、「ナザレのイエス」という声が聞こえました。その人があちらこちらで病人を癒したということを聞いていたのでしょう。その人が自分の目の前を通って行こうとしている。彼はまるで見えているかのように、ナザレの主イエスがいらした!とわかるやいなや、大声で叫びだしました。今どこにいるのか分からない主イエスに向かって自分の声を届かせようとして大声で叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」周りの者たちや弟子たちは「乞食の出番ではない!」「うるさい。道端で大声をあげるな」とたしなめるも、更に大声で叫び続けたのです。「ダビデの子」という呼び名はユダヤ人にとって特別な意味を持っています。ダビデ王の子孫にイスラエルのまことの王が救い主として現れ、主なる神様の救いが実現すると預言されていました。ですから、「ダビデの子」は神が遣わしてくださる救い主を意味します。このバルティマイはその言葉を主イエスに向かって呼び続けたのです。病を癒すと評判のお方は、単なる奇跡を行う人ではなく、神から遣わされた救い主と信じて、「わたしを憐れんでください。」と救いを求める言葉を叫び続けたのです。


■主の呼びかけ

叫び続けるバルティマイの声を主イエスはしっかりと聞いて下さり、立ち止まって彼に目を向けられます。「あの男を呼んできなさい。」ここで注目したいのは「呼んだ」という言葉です。主イエスがバルティマイのところに近寄っていったとは書かれていません。

相手は目の見えない人ですから、その人のそばに行ってあげる方が親切なのでは、と思ったりもしますが、主イエスは彼を呼ぶのです。そこに、主イエスの救いに与るということがどのように実現するのか示されているように思います。苦しみの中で主イエスに救いを求めて叫ぶ、そして呼ばれる、それにこたえて、主イエスのもとに行く、それが主イエスによる救いと言うことであろうと思います。この49節には、その「呼ぶ」が3回も繰り返されているのです。それも「あの男を呼んできなさい。」、人々は盲人を呼んでいった、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」というように主イエスのお言葉も、人々の言葉のいずれもが括弧に入れられて、文章ではなく、語った言葉、そのままに書かれています。ここから私たちは、この言葉を、語られた言葉、そのままのものとして聞くことができます。主イエスの呼びかけの声は、今、この礼拝でもそのままに聞くことができます。主イエスはおっしゃるのです、「あの人を呼びなさい」バルティマイをお呼びになったように、それぞれ一人一人に呼びかけてくださっていることを知るのです。


■新しくされる

そして主イエスのお呼びを聞いたバルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がりました。乞食であるバルティマイにとって大切な持ち物である上着、それを捨てるのです。パウロはエフェソ書4章で「キリストに結ばれた者は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」と書いていますけれども、まさにバルティマイのこの行動はその通りです。そしてまだ癒しの奇跡がなされたわけでもないのに、呼ばれただけで、呼ばれたことで、躍り上がっているのです。主イエスのお呼び、主イエスの声は喜びなのです。まさに幼子のように喜ぶバルティマイです。「躍り上がってイエスのところに来た」と聖書は記しますけれども、彼は目が見えないのですから、その歩みは手探りで、おぼつかないものであったことでしょう。私たちも同じなのです。主イエスが呼んでくださるとき、たとえ私たちの歩みがおぼつかなくとも、安心して、主イエスに向かって行ったらよいのです。そして主イエスは「何をしてほしいのか」と聞かれます。バルティマイは即座に「先生、目が見えるようになりたいのです。」と答えます。彼は変えられたいという願いをはっきりと持っていました。目が見えるようになることによって、それまでの生活を脱ぎ捨てて、新しくされて生きることを切に願っていました。主イエスの「何をしてほしいのか」という同じお言葉が36節でヤコブとヨハネにも語られたことを思い出してください。その時の彼らのお願いは、いかにもこの世の自分たちの欲に満ちたものでした。主イエスはそのようなヤコブとヨハネの願いを「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」と否定されます。主イエスは弟子たちに向かって、目があっても見えないのか。と実際には目が見えていても、理解できない弟子たちに盲目である、と言い放っておられるのです。

バルティマイにとって「見えるようになること」は生きることそのもの。上着を脱ぎ捨てたように、古い人を脱ぎ捨て、新しく生きること。主イエスの救いに与るということは、今までの自分から新しい人にされ、変えられる、ということです。持ち物である上着を捨て去り、喜んで主イエスのところに来て、見えるようになりたい、新しく変えられたいのです、とバルティマイは申しました。そして主イエスはおっしゃいます。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」彼の目は開かれます。主イエスは彼に触れたわけでも、何か他の癒しの行為をされたわけでもありません。主イエスの呼びかけに即座に従ったバルティマイは、それだけで、いえ、それゆえに、目が癒され、新しく変えられたのです。主イエスはそのような主イエスへの絶対的な信頼のことを「あなたの信仰」と言っておられるのです。そして主イエスから「行きなさい」と言われたバルティマイ。目が見えるようになったのですから、物乞いではなく、何か仕事に就くこともできたはずです。にもかかわらず、バルティマイは主イエスのもとを去るのではなく、主イエスに従うのです。ここまで読み進めてきますと、このバルティマイのお話は、奇跡物語ではなく、主イエスの呼びかけ、召命に答えるバルティマイの話であることが見えてまいります。


■結び

「なお道を進まれるイエスに従った」とマルコは記しています。新共同訳の聖書では「なお道を進まれるイエスに従った。」と書かれていますけれども、本来の言葉をそのまま訳しますと、「そして彼の道に従い続けた、」となります。主イエスの呼びかけに出会ったバルティマイは、目が開かれ、見えるようになって、そして主イエスに従う者になるのです。道端に座っているしかなかったバルティマイは、主イエスの後に従って、即ち、主イエスの背を見つめて、主イエスの道を歩む者とされたのです。

この「見えるようになること」これは肉体的な目の機能ではなく、心の目、霊の目が開かれることです。弟子たちは機能としての目は十分に持ち合わせていましたけれども、主イエスと共にいながら、同じ道を歩きながらも心の目、霊の目が閉ざされてしまっていたのでした。そのことが対比させるように、この10章の後半に示されています。

こうして弟子たちとバルティマイを見てきますと、一緒の道を歩いてきた弟子たちが盲目で主イエスの道から離れ、道の外にいたバルティマイの目が開かれ主イエスに従う、というこの対比は、福音書記者マルコが明らかな意図をもって記したことがわかり、聖書の奥深さに触れることができるように思います。

主イエスの道はエルサレムへ向かう受難の道でありました。ここで目が開かれたバルティマイは主イエスに従い、主イエスと共に、エルサレムへ向かっていったことでしょう。そのエルサレムにおいて、自分の目でバルティマイは何を見たのでしょうか。そこで十字架につけられた主イエスを見て、そこに神の子をはっきりと見たでありましょう。そして救いを見たのでありましょう。主イエスに従うというこの道は、主イエスが「あの男を呼んできなさい。」という呼びかけ、招きによって始まりました。バルティマイはこの道を歩み通したに違いありません。

東大総長を務めた無教会主義キリスト者の矢内原忠雄先生もバルティマイについてこう記されておられます。「あわれバルティマイよ、汝もただイエスに従ってエルサレムに上りゆく。汝、そこにおいて何を見んとするか。「十字架につけられ給いしイエス・キリスト」を見て、汝の霊眼開かれ、罪を悔い改めて福音を信ずるならば、その時、汝は幸福である。汝は百倍の歓喜を持って躍り上がって、神の国に入るであろう。然るに、肉眼が癒されたことだけで終わり、目に見る十字架を信ぜずしてこれに躓くならば、汝は禍なるかな。汝盲目のままでいたほうが、まだ幸福であったろう。」

そして弟子たちにも行くべき道は示されております。受難予告の通りに十字架にかかって息を引き取られた主イエスは、復活予告の通り、3日の後に復活されました。復活された主イエスは、弟子たちより先にガリラヤに行かれます。かつて伝道を始められた旅の始まりであるガリラヤで、復活の主に出会った弟子たちは、その地において霊の目が開かれます。新たな道を歩みだすのです。ペトロは私たちの教会の礎となりました。

目が見えると言い張るなら、それは目の見えない、盲目であり、逆に、自分が盲目であることに気づくなら、その人は目が開かれ、救われると主イエスはおっしゃっています。

私たちも、私たちの導き主である主イエスに呼ばれていることに気づき、応えることで目が開かれなければなりません。イザヤ書30章18節~21節にも書かれています。「主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。」と。そして、行くべき道を示してくださるのです。右へも左へも、つまりどちらの方向へも私たちを導かれる方は、「これが行くべき道だ、ここを歩け」と語りかけてくださるのです。

私たちは主を信頼し、黙さずに主に呼びかけ、主からの声に耳を向け、その呼ばれている恵みに感謝して、歩む者でありたいと願います。



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