『荒れ野から始まる』2025年12月14日
- NEDU Church
- 19 時間前
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説教題: 『荒れ野から始まる』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書40:1-11
聖書箇所: 新約聖書 マルコによる福音書1:1-8
説教日: 2025年12月14日・待降節第3主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日は待降節第3主日です。この待降節、私たちは主イエスの御降誕の準備の時として過ごしておりますけれども、主イエスの再臨を待つ時として与えられているということでもあります。今年の待降節は、主イエスがお生まれになる前、イスラエルの歴史において多くの混乱があったその時代に救い主の到来について語った預言者の御言葉を中心に聞いています。先週は預言者エレミヤから聴きましたが、今週は再び預言者イザヤから聴きたいと思います。すでにお話ししましたように、イザヤ書の40章から55章までが一般的に第二イザヤによるものと言われています。紀元前586年にバビロニアによってエルサレムが滅ぼされ、南ユダ王国の人々が捕囚としてバビロニアに連れていかれるという暗黒の時代、この屈辱の時代の預言者がイザヤです。人々が絶望の中にいるその時、イザヤは神の希望の到来を語りました。今日のイザヤ書40章は「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」と始まります。神は「わたしの民」と呼びかけ、そして「エルサレムの心に語りかけ」ます。別の聖書訳では「優しく語りかけ」とありますように、慰めるとともに用いられて、「ねんごろに優しく」語りかけるということを意味しています。イザヤは絶望の中にある民に、「わたしの民」と優しく呼びかけ、そして彼らのホームであるところの、エルサレムへの帰還の希望を告げています。
しかし、そのように語りかけられた民はそれに素直に応答はしません。彼らの故郷と言え、エルサレムはすでに陥落し、神殿も崩壊され、廃墟となってしまったのです。人々はエルサレムから数千キロ離れたバビロンで捕囚として暮らして50年経っています。50年というこの年月の間に、最初に捕囚となった人々の多くは死んでしまい、第二世代、第三世代へと移っていました。彼らは祖父母、両親から故郷エルサレムの話を聞いてはいましたが、彼らはここ、バビロニアで生まれ育ってきたのです。すでにこの地で生活を築き、生きてきました。今更、故郷のエルサレムへ帰れと言われても戸惑うばかりです。
■預言者の戸惑い
そして語る預言者にも同様の戸惑いがあります。6節以下です。神から、民に呼びかけよと言われても、なんと呼びかけたら良いのか。すでに50年、民はすでに故郷への帰還の希望を失っているのです、とイザヤは言います。私たち人間はまるで草に等しく、野の花のように、しぼみ、枯れていく。そのような存在であると言います。そしてそのように私たちを置かれたのは神、あなたではないですかという訴えでもあります。神のこれまでの長い沈黙が、重く人々の心を占めているのです。本来、神の民として選ばれていた私たちを神は忘れたのではないか、捨てたのではないか、民はそのように思っているのです。私たちも悲しみの中、苦しみの中で神が見えなくなります。神などいないのではないか、そのような思いに心が占められることがあります。神がおられるならばなぜ、黙っておられるのか、そのように思う気持ちは今も3千年前と変わりません。預言者イザヤも同じ想いを持ち、なぜ、50年も沈黙しておられたのですか、と抗議をするのです。その預言者の訴えに、主は預言者に語らせます。8節です、「草は枯れ、花はしぼむが、神の言葉はとこしえに立つ。」このような揺るぎない言葉が与えられます。そして言葉は続きます。9節以下「高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。」こうして新しい希望、新しい現実が伝えられるのです。これが福音です。
■良き知らせが告げられる
この福音、希望の知らせのために備えよ、と主はイザヤを通して語られているのです。それが3節から告げられています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」この道、それは主が通られる道です。バビロンから解放してくださった神が、罪から解き放ってくださった神が、道を通って都エルサレムに戻って来られて、新しい希望、新しい現実を示される。だからその道を整えよというのです。ゴツゴツの荒れ地ではなく、広く、真っ直ぐに、でこぼこ道は平らにせよ、という命令です。そして大切なことは5節に「主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」と記されていることです。新共同訳にはありませんが、単に肉なる者、つまり人間は見る、ではなく、元の言葉では「すべての」という言葉が入っています。ですから、主の栄光は、イスラエルの民のみならず、すべての人々に示される、という壮大な神のご計画が示されています。そのようにして主の道が整えられ、そして主の栄光が表されて、良い知らせはシオン、エルサレムに伝えられると言います。その良い知らせとは、神が到来されるという決定的な転換を告げるものなのです。
■荒れ野から始まる
福音は荒れ野において告げられて、荒れ野から始まる。荒れ野というのは人が生きていけるだろうか、と思うような、生きるのが困難な場所ということです。救い主、キリストが来てくださるところ、それは花が咲き乱れるような美しい野原ではなく、風が吹き荒れて、美しさのかけらもない荒涼とした荒れ野なのです。キリストの救いの出来事、物語は、この歴史においても、また、私たち一人ひとりに当てはめてみても荒れ野から始まるのではないでしょうか。主イエスとの出会いは穏やかで、多くの人々がくつろぐ美しい草原ではなく、こんなところに人がいるのだろうか、自分一人しかいないのではないだろうかというような荒れ野でまさに一対一で出会うのではないでしょうか。そもそも神がこの世界をお造りになった時、創世記の1章に記されていますように、全てが美しく、全てが極めて良くお造りになられたのです。神と人とが共に生きる楽園を用意してくださいました。しかし、アダムに始まる人間の罪ゆえに、荒れ野を彷徨う者となったのです。罪によって私たちは荒れ野に置かれる。幸せに生きていくことのできない世界、神の愛から離れた場所、人間は荒れ野を抱えて生きるようになりました。しかし、神はその荒れ野から、私たちを救い出すことを望まれて、荒れ野の中に彷徨う私たちの中に、広い道を、まっすぐで平らな道を通す、とお決めになりました。それが主イエス・キリストの救いの道です。
今日与えられた新約聖書はマルコによる福音書1章1節から8節、まさに福音書記者マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き記した福音書の始まりであります。福音書記者マルコが記す、主イエスの福音、神が到来されるという良い知らせは、今、お話ししてきました預言者イザヤの言葉から始まっています。主イエスという救い主が到来される、そのためには先に使者が遣わされ、そしてその栄光がすべての人に示されるために、その道が整えられ、真っ直ぐにされる。それをしたのが洗礼者ヨハネでありました。洗礼者ヨハネが「荒れ野でさけぶ者の声」であります。ヨハネ自身、ヨハネ福音書1章19節以下で、人々から「あなたはどなたですか」と尋ねられ、「私は、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声です」と言っています。自分は救い主、メシアでもなく、エリヤでもなく、ただの荒れ野の声であると言いました。主のために、主が来られるとき、人々をその方のところに導くための者である、と言ったということです。その「主の道」、「救いの道」がここに造られる、ここに救いがある、と洗礼者ヨハネは叫び続けたのです。
■私たちの喜び
確かに「草は枯れ、花はしぼみ」ます。私たち人間の命はまるで草のようでもあり、花が咲くといえる時期もひとときでありましょう。そのように人間は虚しい存在であると言えるでしょう。しかし、それが現実であり、どのような人間もいずれ死を迎えます。それは時に突然、明日やってくるかもしれません。そのことを見つめ、自分の力の限界に目を向けるならば、虚しさだけしかないでありましょう。しかし、神は「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」と言われました。この神の慰め、神によって語られる言葉、神の救い、それは尽きることがありません。この方に信頼すれば、慰めが与えられ、そして失望することはないのです。主イエスによる福音、救いこそが慰めです。ハイデルベルク信仰問答の問1は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」であり、その答えは私自身が主のものであること。主と共に生きることであります。そして問2は「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか」であり、その答えは「自分の罪と悲惨さがどれだけ大きいか知り、どうすれば救われるか知ることであり、そしてこの救いに対して神に感謝することです」と語られています。私たちは罪ある者であり、死を迎える者であり、枯れ果てていくこの世界にあって、この世界を再創造するのは神の言葉です。神の言葉こそが福音の開始であり、その福音の中に置かれ、その福音を聞くことが私たちの生きる喜びであるのです。
■結び
捕囚の時代に第二イザヤによって強く語りかけられた民は、故郷エルサレムに戻ってからも決して順調ではありませんでした。神殿の再建に取り組んだものの、妨害され、また干魃などにより、民の生活は厳しく神殿の再建は中断されました。人々は再び神は我々を救う気は無いのではないか、我々の声が聞こえないのではないか、と呟きます。その時、語った預言者が第三イザヤと呼ばれる預言者です。彼は言います、イザヤ書59:1-2節「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」こうした神の言葉が語られ続け、神殿再建は20年後に再開され、そして完成した神殿を中心としてイスラエルの民は再び神の民として集められていくのです。彼らは旧約聖書を守り、そして当時の共通語であるギリシア語に翻訳されて、多くの異国の民がギリシア語聖書、セプチュアギンタ、70人訳聖書を通して神の言葉に出会いました。こうして神の福音の言葉は多くの人々を立ち上がらせ、聞いた者がまた、他者に向かって福音を告げてきたのです。
神の言葉、主が呼びかけるその声に耳を傾け、荒れ野に道を備え、広くまっすぐな道を通せ、と私たちも呼びかけられています。主が通られる道を自分の中に通す生き方をするようにと言われています。そしてそのような私たちをも良い知らせを告げる者として用いてくださるのです。尽きることのない神の言葉に慰められ、そして希望に生きる私たちに与えられた最大の贈り物は主イエス・キリスト。そのご降誕を祝うとともに、主が再び来られるその日を待ち望む日々を送りたいと思います。


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