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『苦しみに勝利する道』 2023年9月24日

説教題: 『苦しみに勝利する道』 聖書箇所: マルコによる福音書 14章32~42節 説教日: 2023年9月24日・聖霊降臨節第十八主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

過越しの食事を終えた主イエスと弟子たちはオリーブ山へと向かったのでした。その道の途中で主イエスはペトロ、そして弟子たちが裏切ること、信仰の挫折を経験することをお話になられました。しかし、ペトロは「たとえ死なねばならなくなったとしても、知らないなどとは決して申しません。」と自分の信念を話し、他の弟子たちもまた、同じ気持であることを表明したのでありました。また、ここで主イエスは大切なことをお話になられています。それは「復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」という約束をされたことです。このお言葉は、今の私たちへも届けられている大きな希望のメッセージであります。これから先、主イエスが迎えられる十字架の死、それは決して終わりではなく、始まりなのです。

そして一行はゲッセマネというところに着きました。ゲッセマネと聞きますと、すぐに「祈り」と結びつきますけれども、この「ゲッセマネ」というのは、オリーブの実からオイルを搾るそのための用具を指す言葉です。ここはオリーブ山の小さな片隅です。名前の通り、オリーブの木が一面に植えられていたことでしょう。オリーブオイルの歴史は6千年以上も前に遡ると言われています。オリーブの実は、料理や、薬などに使用されて、ぶどう酒と共に、王様に献上されてきたのでありました。一面に植えられたオリーブの木から実を収穫し、そしてオイルを取るための油搾りの機械が置かれていた場所、それがゲッセマネでありました。そこへ主イエスと弟子たち一行は食事を終えて、夜道を歩いてきたのであります。時はもう夜更けでありました。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」主イエスは弟子たちにそのように言われました。ここまで一緒に来た一行でありましたが、主イエスはここで弟子たちから離れるのです。主イエスの道が、弟子たちの道と異なることが強調されております。


■死ぬばかりに悲しい祈り

そこで主イエスは弟子たちの内のペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を伴って、祈られました。33・34節にこのようにあります。「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」主イエスは「死ぬばかりに悲しい」と言われました。「ひどく恐れ」と訳されている言葉は、驚愕するとか、愕然とするというような意味でもあります。理解できないほどの驚きと恐れ、脅え、そのような状態を表す言葉です。そして「もだえ」と訳されている言葉はどうにもならない苦悩、不安の中にある落ち着かない状態を表す言葉です。主イエスは恐れ、脅え、苦悩のお姿を弟子たちに見せられました。「死ぬばかりに悲しい」と新共同訳で訳されている言葉は、直訳いたしますと、「悲しみのあまり、私のたましいは死までである。」つまり、死に至る程であると言われました。主イエスは神の子であられます。その神の子である主イエスが苦しまれる、死に至る程の悲しみの中におられたのです。この時、このように苦しまれる主イエスと共にいたのは、3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ。この3人は主イエスが会堂長ヤイロの死んでしまった娘を甦らせた時、また、主イエスのお姿が真っ白に輝いた時、そばにいた者たちであります。つまり、主イエスの神の子としての秘義が垣間見える時、十二弟子の中でもとりわけこの3人に大きな責任をお与えになったのです。神の子である主イエスの悲しみ、苦しみのお姿をも見届ける責任をも彼らにお与えになったのでありました。


■目を覚ましていなさい

そして「あなたがたはここにいて、目を覚ましていなさい。」そうも言われました。この「目を覚ましていなさい。」、それはこの3日前、主イエスが終末についてお話された時、つまり13章32節以下で、この言葉を3回言われたのでありました。「最後の時がいつ来るのか、誰もわからない、だから目を覚ましていなさい。旅に出る主人は僕たちに仕事を割り当て、門番には目を覚ましているように言うのである。主人がいつ帰って来るのかはわからないのだから、目を覚ましていなさい。」こうお話されたことを思い出してください。

父なる神の決める時、その時のために、目を覚ましていなさい、その時にほかのことに気を取られるのではなく、その時を迎えることができるよう備えておきなさい。という弟子たちへの戒めのお言葉でありました。ここでも同じことが指示されているのです。これから起ころうとしている事、神がお定めになる時のことに思いを寄せ、主イエスと共に祈ること、主イエスのことを思うこと、そのための「目覚め」でありました。主イエスは少し進んでいかれて地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られました。「苦しみの時」とは、神がお定めになった、神のご計画による裁きと成就であります。旧約聖書ダニエル書8章19節にはこう書かれております。「見よ、この怒りの時の終わりに何が起こるかをお前に示そう。定められた時には、終わりがある。」

主イエスは父なる神がご自分に課された受難の意味を、明確に、その必要性を理解しておられました。


■「この杯を取りのぞいてください」

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この時が自分から過ぎ去るように、と願った主イエスの祈りそのものが、改めて36節でこう言われた、と記されています。この時、それがここでは「この杯」と記されています。「この時」とはこのゲッセマネの祈りに始まり、十字架に至る苦難、その死までをも表しています。主イエスはこのゲッセマネに来る直前、弟子たちと過越しの食事を共にされました。過越しの食事は出エジプトに由来した食べ物が用意されるとお話しいたしました。そして食事のルール、食べ方にもそれぞれ意味があり、食事の中で4回、四つの杯を飲みます。23節に記されている、「杯を取り、感謝の祈りを唱えて彼らにお渡しになった。」とありますのは、第三の杯、贖いの杯と言われ、これが聖餐式の起源となっています。そして最後の四つ目の杯は、主を賛美した後に飲まれるものです。26節に「一同は賛美の歌を歌ってから」とありますように、この後に飲まれるものなのです。ですから、主イエスのお言葉の「この杯」はこの第四の杯を指しています。この第四の杯は「賛美の杯」そして「完了の杯」と言われています。主イエスはこの第四の杯を、できることなら取り除いてくださいと父なる神に祈られました。神が過ぎ越されたことに由来する過越しの祭り、過越しのための犠牲の小羊として、主イエスが捧げられることによって結ばれる新しい契約が成立、つまり完了するためには、主イエスはこの第四の杯を飲み干さなければなりませんでした。壮絶な苦しみの杯であり、その苦しみのゆえに、主イエスはこのゲッセマネの祈りにおいて躊躇し、苦しまれたのです。ご自分の意志を持って神の意志と格闘されました。しかし、主イエスは自分の願うことではなく、父なる神の御心が適うことが行われますように、と言われたのです。父なる神は沈黙しておられました。その沈黙によって、主イエスは父なる神の御心が分かったのであります。つまり、父は何を望んでおられるかではなく、何を望まないかが沈黙で分かったのです。苦難の時を過ぎ越すことを父なる神は望んでおられないのでありました。


■心は燃えても肉体は弱い

そのような苦しみの中で祈られた主イエスでありましたが、弟子たちのところに戻ってみますと、弟子たちは眠っていました。「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」そう言われました。「目を覚ましている事」、つまり祈っている事、また、主イエスのお苦しみに心を合わせること、が求められていた彼らでしたが、眠ってしまった。心では主イエスの祈りに心を合わせようと思っていても肉体の弱さゆえに祈りを失ってしまったのでした。誘惑に陥らないように、と言われていますように、誘惑、試みは神に対抗するサタンの働きです。人間はそれらの働きに対して、心と肉体の両方を保つことができないのです。心と体は結びついているからです。私たち人間は肉の弱さによっても、神の御心から離れてしまうのです。

主イエスご自身は、人であられながら、サタンの試みに屈せず、心も肉も燃える祈りの時を持たれました。しかしそれは、神であられながらも、人として苦しまれ、悲しまれ、苦悩の祈り、戦いの上の祈りであったことは記されているとおりです。


■時がきた

主イエスはペトロ達を起こされて、再び離れて、お一人で祈られました。神の子であられながら、人としての苦悩を表された主イエスは、こうして苦しみに真正面から向き合いながら、何度も神の御心がなることを祈られたのであります。その姿をペトロ、ヤコブ、ヨハネは理解することができず、目を覚ましていることができませんでした。主イエスは再び祈り、そして弟子たちのもとに戻られます。しかし、弟子たちは眠っていたのでありました。主イエスは三回、弟子たちが眠っている姿を見出します。37節「戻って御覧になると」、40節「再び戻って御覧になると」、41節「戻って来て言われた」。主イエスは何度も、何度でも弟子たちに目を向けておられました。しかしながら、それを理解しない弟子たちがいるのです。主はこのように、何度でも、いつでも私たちに目を向けておられます。しかし私たちもこの時の弟子たちと同じように、眠ってしまうのです。

後にペトロはペトロの手紙Ⅰ4章7節でこのように小アジアの教会の人々に書き送っています。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、良く祈りなさい。」身を慎んで祈りなさい、これは目を覚まして祈りなさいということでありましょう。そして5章8節にはこうも書かれております「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかりふみとどまって、悪魔に対抗しなさい。」まさにペトロはこのゲッセマネの祈りの時を思い起こしていたに違いありません。主イエスは悪魔と戦っておられ、そして悪魔の手先となったユダも園に近づいていました。そのような緊張の時に、自分たちは眠ってしまった。大切な師である主イエスを孤独に捨て置いてしまった自分の失態を、主イエスの言われた意味を深くかみしめ、次のキリスト者達に向けて書いているのです。


■結び

三度目に戻って来られた主イエスは、弟子たちに「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時がきた。」と言われました。これは決して眠ってしまった弟子たちへの叱責の言葉ではありません。それに続く主イエスのお言葉には、「立て、行こう。」と弟子たちと共に歩まれようとしていることがあるのです。そしてついに主イエスが捕らえられる時が来たのであります。主イエスは立ち上がり、十字架へと歩み出されます。父なる神の御心に従い、苦しみを超えて歩み出されるのです。主イエスは罪がないお方であるにもかかわらず、父なる神が定められた私たちの罪の清算のために、死ぬほどの苦しみをお一人で背負ってくださいました。弟子たち、私たちが眠っている間にも、主イエスは父なる神の御心がなるように、と死ぬほどの悲しみ、苦しみの中でなお、父なる神に深く信頼して、祈ってくださいました。その祈りが今も私たちを支えているのです。私たちは主イエスの祈りに導かれて、主の祈り、「天にまします我らの父よ、」と父を呼ぶことを許され、そして自らの願いではなく、「御心がなりますように」と祈ることができるのです。私たちをそうして、今も、いつも、主イエスが支えてくださっている。それがゆえに私たちは、苦しみを乗り越えることができる。主イエスが苦しみに勝利する道をお示しくださったからであります。わたしたちにできることは感謝してその恵みを受け、共に主の祈りを祈り続けることであります。



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