説教題:『聖霊のはたらき』
聖書箇所:使徒言行録 2章1節~13節
説教日:2022年6月5日・聖霊降臨日/聖霊降臨節第一主日
説教:大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。私たちプロテスタント教会には三つの大きなお祝いがあります。主イエスがお生まれになった降誕をお祝いするクリスマス、そして主イエスのご復活をお祝いするイースター、そして聖霊が降り教会が誕生した、教会の誕生日と言われるペンテコステです。このペンテコステ、よくわからない・・・と思われている方もあることでしょう。まずペンテコステと言う言葉が聞きなれないのではないでしょうか。これはギリシア語で「五十番目、五十日目」ということです。今日のみことばの始まりは「五旬祭の日が来て」となっています。何から五十日目か、五旬祭とはなにか、といいますと、過越しの祭りの翌日から七週目、つまり五十日目に行われるものが五旬祭です。七週祭とも言います。過越しの祭りについても確認しておきましょう。これは、出エジプトを記念するお祭りです。エジプトを襲った災いの最後の災いでは、王の初子から家畜の初子に至るまですべてが死にました。しかしユダヤ人たちには初子の身代わりとして「傷のない一歳の雄羊」を屠り、その血を、羊を食べる家々の柱、鴨居につけることにより、神の災いがその家を過ぎ越すという約束が与えられたのです。これは出エジプト記12章に書かれています。そして主イエスの最後の晩餐、あれはその過越しの祭りを祝う食事でありました。現代においてもユダヤ教ではこの祭りを当然ですが、大切にしています。今年の過越しの祭りはいつか、と調べてみますと、4月15日から23日とありました。そして、そこから数えて50日後の主日が今日、6月5日となるわけです。主イエスが最後の晩餐として弟子たちと共に取られた食事、それは過越しの祭りの食事でした。主イエスはそのあと十字架へお架かりになり、そして十字架の死…そして復活…その後、天の父の元にあげられた後、約束の聖霊が降る…この期間が50日です。主イエスが天に戻られた後、約束の聖霊が降った日、これが聖霊降臨日、ペンテコステであり、主イエスがお生まれになった日、主イエスがご復活された日、と並んで私たちが大切にすべきお祝いの日なのです。
■主イエスの約束
主イエスは天に上げられる時、弟子たちに次のような言葉を約束されました。1章4節後半と8節です。お読みします。4節「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てまでに至るまで、私の証人となる。」
弟子たちはその約束を待っていました。集まって熱心に祈っていたのです。そしてちょうど五旬祭の日、約束の聖霊が一同の上に降ったのです。何が起こったのかといいますと、その時の様子が2節に書かれています。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡った。」それは突然にやってきました。激しい風と聞いて、私たちは台風のような風をイメージしますけれども、これは「風が吹いてくるような」とあるように、「ような」ですから風そのものではありません。神からの聖霊のしるしが、はっきりと示されたということを伝えるための表現です。聖霊や神様の霊はしばしば風になぞらえて示されます。ヨハネによる福音書3章8節には「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」と書かれています。風は私たちの目には見えません。しかし、私たちは風を肌で感じます。日本語でも「風向きが変わる」というように、新しい出来事の象徴に用いられます。神様の霊が、新しい風として吹き、弟子たちを新しくした、それがこの五旬祭、ペンテコステに起こった事なのです。
■炎のような舌
風の次には炎のような舌という目に見えるしるしのことが書かれています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」のです。炎は神様が人間にご自身を示されようとする時に現れます。よく知られているのが、出エジプト記3章のホレブ山でモーセが召命を受けたとき、燃え上がる炎の中に主のみ使いが現れ、その柴は燃えているのに燃え尽きないというものでした。神は炎の中からモーセに語りかけられました。神はそのようにご自身を現わされたのです。火、炎は神の霊の一つの表れです。バプテスマのヨハネは民衆に向かって、「わたしは水でバプテスマを授けるが、私よりも優れた方、キリストがあとからこられ、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる。」と申しました。そのように、火、炎は神のしるしとして語られているのです。しかし、ここで書かれているのも、炎の「ような」舌、という表現です、炎にたとえられるような舌が、集まっていた弟子たちの集団ひとりひとりに留まったというのです。集まっていた弟子たちは、120人ほどであったことが1章15節からわかります。いずれにしても、風のような音、炎のような舌、私たちの現実では表現しきれないことが突然に起こったのです。
■聖霊に満たされ
「そして一同は聖霊に満たされた」と書かれています。聖霊に満たされるとは、いったいどういうことを言うのでしょうか。「満たされる」という意味のギリシア語は「いっぱいになる」という意味です。一人一人が聖霊で一杯になった。神の与えてくださるものでいっぱいになったということです。聖霊の与える良いものとは、平安であり、愛であり、感謝であり、喜びです。そのようなものに満たされたというのです。
そして神の力は満たすだけでなく、他の国々の言葉で神を賛美し始めるという驚くべき力を発揮します。弟子たちはほとんどがイスラエルの一地方のガリラヤの者達でした。外国語など話すことができるはずはありません。それが突然に、聖霊の力によって、満たされ、知らなかった外国語で神をほめたたえる。これは聖霊の力によるものとしかいいようがありません。聖霊に満たされた者たちは、霊が語らせるままに、語るのです。弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい舌、新しい言葉を与え、語る力を与えたのです。聖霊は、主イエスの約束の通り、主イエスの十字架と復活の出来事を証させ、神の御業を語らせるのです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てまでに至るまで、私の証人となる。」1章8節のこの約束通り、神が聖霊によって弟子たちに力をお与えになり、地の果てまで主イエスを宣べ伝える時が来たのです。人間が神に遣わされて、神の御用に用いられる時が来ました。集まって祈り、備えていた者たちが語り始めるのです。聖霊によって、主イエスの救いの御業を宣べ伝える共同体が誕生しました。それゆえに、ペンテコステは教会の誕生日と言われるのです。
■ほかの国々の言葉
ユダヤ人は当時すでに、あらゆる国に散らされて住んでいました。紀元前6世紀にバビロニアに国を滅ぼされて以来、自分たちの国といえるものがあったり、なかったりという歩みとなりました。逆に彼らは国土に縛られず、世界のどこにでも移り住みつつ、ユダヤ人共同体を保ち、イスラエルの神を信じて生きていました。そのような外国のユダヤ人共同体の中で生まれ育った人たちがエルサレムに帰ってきて住んでいたのです。それが5節に書かれている人々のことです。9節以下に挙げられているように、パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネ、リビア、ローマ、クレタ、アラビア・・・とあらゆる地域、あらゆる国々の人々がそこにはいました。当然、全く異なる言葉が使われていました。生まれ故郷で使われているそれらの言葉が、ガリラヤの田舎の、例えば漁師のような普通の人々によって語られたのです。当然、人々は驚き、怪しみました。聖霊の働きによる奇跡が起こったとしか言えません。
このような奇跡は本当に起こったのだろうか、ということを考えるよりも、ここから見えてくることに目を向けたいと思います。11節の終わりに「神の偉大な業が語られている」とあるように、神様の救いの御業、つまり、主イエスの十字架と復活による救いが語られたということは、これからイエス・キリストの福音が全世界へと宣べ伝えられる、広められるということを示しているということです。そしてそれを聞いたのがみなユダヤ人であるということにも意味があるでしょう。聖霊が降ることで、神の民、イスラエルが、主イエス・キリストの救いの御業のもと、集められたのです。ユダヤ人が神の民イスラエルを受け継ぐ者と約束されているからです。しかし、そこで語られた言語は世界の様々な言語でした。そのことは、新しいイスラエル、教会が、ユダヤ人だけのものではなく、異邦人たち、つまり全世界の人々へと開かれたものである、ということも示していると言えるのです。教会は誕生したこの時にすでにそのことが示されていました。
■バベルの塔
さて、ここで旧約聖書創世記11章に目を向けます。皆さんもお聞きになったことのある「バベルの塔」のところです。11章1節にはこうあります「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」そうです、かつて人類は一つの言葉、共通の言語でありました。その人間たちが、シンアルの平地に住み着き、天まで届くような塔を建て始めます。続く4節、新共同訳では「塔のある町を建て、有名になろう」と訳されていますけれども、つまりは、自分たちの名を成そう、ということです。そして「天にまで届く」という表現は、神様の領域にまで自分たち人間の力が及ぶようにしようと思ったということです。この「バベルの塔」の物語は人間の文明の欲求でもあります。もちろん、人間のこの世での発展には必要なことでありましょう。しかし、生命科学、遺伝子工学などの科学や技術の最先端において、人間の欲求が神の領域までも踏み込もうとするということは、近年、その研究者たちによっても問題視されてきました。人間の欲は留まるところを知りません。その欲は神をも超えて、自らを神にさえしようとするほどに大きく深いものなのです。そのような人間の不遜な営みを、神は見ておられ、人間の言葉を混乱させ、互いの言語が聞き分けられないようにされたのです。それによって、人間は散らされていき、それぞれの違う言葉を使うようになりました。世界には様々な違う言語があり、違う言葉どうしはなかなかコミュニケーションを図ることはできません。このバベルの塔の物語は、そのような人間が神に成り替わろうとした神の裁きを示しているのです。
ペンテコステの出来事、聖霊が降り、新しいイスラエルとして教会が誕生した時、他の国々の様々な言語が語られました。聞き分けられなくなった、混乱していた言語がここでひとつとなり、共に神を賛美するということが起こりました。つまり、バベルの塔の解決がここにあるのです。世界共通語が語られたわけではありません。しかし、皆が同じ神の偉大な業が語られたのを聞く、主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いの恵みを聞いたのです
■結び
父なる神は、聖霊の力によって教会を誕生させ、その豊かな恵みは全世界へと広がっていくことになりました。それがペンテコステの出来事です。「神の偉大な業」それは、主イエス・キリストがわたしたちの救い主としてこの世に人として来て下さったこと、私たちの全ての罪を背負って十字架へと歩まれ、死んでくださったこと。その死をもって、父なる神はわたしたちの罪を赦してくださいました。そして罪と死の力を打ち破って主イエスを復活させてくださり、死に打ち勝つ永遠の命を私たちにも約束してくださいました。それが神の偉大な業です。そしてそれはユダヤ人だけでなく、異邦人の私たちも等しく与えられているのです。「地の果てに至るまで、私の証人となる。」主イエスのお言葉通り、私たちもその証人です。証人として用いられる幸い、用いられる恵みに感謝して、聖霊の働きかけに応答し、この世における証し人としての歩みを続けてまいりたいと願います。
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