【聖書箇所】 エフェソの信徒への手紙1章11–14節 【説教題】 『聖霊による保証』
【説教】 石丸泰樹牧師
一、「前もって定める」という表現が5節、9節に続いて用いられます。三回目です。私たちの地上の人生で様々な苦難が予想されているのに、それを避ける方法も、克服する知恵も無い時、もし様々な事件が「前もって予知できれば」と多くの人が思うことでしょう。現在の「新型コロナ」の世界的な蔓延を目の当たりにして苦闘しておられる方々も先触れとなる最初の情報の共有が、どれほど重要であるか強調していますね。旧約聖書は全巻終末への警告に満ちています。 「主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、たち帰れ(エゼキエル33:11)」 二、目前の危機が過ぎると、すぐに気がゆるんでしまいます。「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい(エフェソ5:17)」。主イエスの御心は「天地創造の初めから」いや天地創造の「前に、私たちを愛して(1:4)」下さっていたことをしっかり、心にとどめておくようにとパウロは熱誠をもって訴えます。主イエスが来臨され、その小羊のような、父なる神への愛と従顧によって「怒りと裁きの神」の心が変化して、「愛する我が子イエスよ、それほどまでに反逆者どものために執り成したいのであれば、かれらを赦そう」などということではありません。それどころか、神の「恵みの相続者」となっているのですよ、とパウロは顔を輝かせて訴えるのです。 パウロは、「わたしたちは」と11節で書きます。この「わたしたち」は‘イスラエル’のことです。神様の愛と誠を信じられず、なんとかして律法を守り抜いて「神よ我らは、汚れのない、聖なる、傷のない、完璧な者です。地上の全異邦人のように汚れにまみれた愛される価値のないもの、救われる資格の全くないものではありません。」と主張して、ナザレのイエスさまの救い、贖罪の十字架の意味など全く心にも留めない民族のことです。 三、13節の「あなたがた」はエフェソの人々、ギリシャ系の人々、ローマからの支配階級の人々、ローマとの交易によって利益を得ようとしてこの地で離合集散し、豊穣、多産のアルテミスの女神を崇め、もうけること、悦楽を追い求めることを第一に生きている人々です。その「あなたがたもまた・・真理の言葉、福音、聖霊の証印」を聞き、信じ、証印をバーンと押されたのです。 「こうして、わたしたちは贖われて、神のものとなり」ついに「神の栄光をたたえることになり(1:14)」主の体なる教会において、恵みを分かち合い、共に礼拝を守り、讃美し、与えられた財を、才能を、時間を自分の人生の主人である主イエスに喜んで捧げると、主はそれらを必要としている隣り人に、主のみ名の下に届けて下さるのです。 主よ感謝します。主の体なる教会の交わりの中で、み名を讃美し、ほめたたえることの幸を。アーメン、ハレルヤ。 【主の祈り】
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