説教題:『聖霊か悪霊か』
聖書箇所: マルコによる福音書 3章20節~30節
説教日: 2022年8月7日・聖霊降臨節第十主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日の御言葉は、実は後に続く31節~35節「イエスの母、兄弟」という箇所と繋がっております。今お読みした聖書箇所冒頭の20節、21節に「身内の人たち」という言葉が出てまいりましたが、それがそのまま31節に続いているのです。つまり、22節から30節の別のテーマがサンドウィッチのように間に挟まれているといったらよいでしょうか。ですから、30節から35節までを一つのものとすることも考えましたが、それぞれに大きな主題なので、前編・後編として、今日はその第一部、間に挟まれたサンドウィッチ部分、22節から30節を中心に、共に御言葉に耳を傾けたいと思います。
■主イエスの家
20節は「イエスが家に帰られると」という御言葉で始まっています。「帰る」というからにはご自宅でしょうか。口語訳では「家に入られると」と訳してありました。たしかにこの言葉は、「家に入る、来る、」という言葉ですが、同時に「家に帰ってくる」という意味を持っており、ここではどこかの家に入ったという意味よりも、明確に「帰宅した」という意味で使われています。それでは主イエスはどこに帰られたのでしょうか。1章でシモンのしゅうとめが熱を出して臥せっていた時、主イエスがその家に行き、癒され、そしてしゅうとめはそれ以降、主イエスのお世話をし、その家が定宿のようになっていたとお話しいたしました。今日の「家」、これも、カファルナウムのシモンとアンデレの家のことを指しています。ペトロの父や、義両親、兄弟もいたことでしょう。主イエスにとっては、そこがホームでありました。くつろぎ、食事を摂られ、お休みになっていた家でありました。しかしこの時、くつろぐどころか、またまた群衆が集まってきました。主イエスに癒しを求めて来た人々が押し寄せたのです。主イエスと弟子たちは、食事をする暇もないほどであった、と聖書は記しています。
さてそこに、そのような主イエスに対する群衆の人気、評判を聞いて心配になった身内の者たちが登場いたします。ナザレから主イエスを取り押さえにきたのです。おそらく親族会議を開いて、主イエスの身の上を案じて、ナザレに連れ帰ろうと考えたのです。母マリアも一緒にきたことが31節以下に記されています。この家族をめぐるお話が後半戦です。ですから、これについては控えて次週に譲りたいと思います。
■エルサレムから下ってきた律法学者
さて、身内の者たちと時を同じくして、エルサレムから律法学者たちも下ってきました。彼らは当時のユダヤ人社会で起こっていることを把握し、監督する役目を果たしていました。彼らは主イエスの癒しの御業の力を悪魔からのものと考え、主イエスを悪霊の頭、悪霊どもの君主としたのです。主イエスの癒しの御業によって、今まで悪霊に取りつかれていた人々が解放されていたということは律法学者たちも認めざるを得ないことでした。自分たちの力の及ばないことが主イエスによって起こったのです。自分たちの言葉が通じず、自分たちに従うこともなかった悪霊は主イエスによって追い出されました。主イエスが悪霊に言葉が通じ、悪霊を従わせることができるのは、悪霊の頭、悪霊の支配者ベルゼブルの力を借りたからだと解釈したのです。それゆえに、主イエスが「ベルゼブルに取りつかれている」と言って非難したのです。ベルゼブルとは古いシリアの神の名で「家の主人」という意味です。イスラエル人はこれを「エクロンの神、バアル・ゼブブ」と呼んだことが列王記下の1章2節に記されています。異教の神の名であり、悪霊を示すものでありました。
取り押さえにきた身内の者も、ベルゼブルを持ち出す律法学者も主イエスに対して誤った判断、誤った見方をしていました。それに対して主イエスは譬えでお答えになるのです。
■譬えによる答え
「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。」主イエスは、それは内輪もめであり、そんなことをしたら、家が破滅するといわれました。サタンはサタンとして自滅することはない、と言われるのです。サタンは人間の様々な欲望に取りついて破壊的な力を発揮します。人の罪に取りついて、人と人との不和に取りつき、そして人の病や人の死に取りつくのです。そして人を神から引き離し、破滅的な働きをします。この世は常にそのようなサタンの働き、悪霊の支配下にあるのです。主イエスの神の国宣教はそのようなサタンの支配に立ち向かい、神の国支配を確立するための挑戦でありました。主イエスは続けます。「まず強い人を縛り上げなければ、だれもその人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」ここでは、サタンを強い人、主イエスご自身は押し入る強盗にたとえているのです。サタンの支配するこの世において、サタンを縛り上げなければ、新しい義の支配、新しい神の国の支配はないのだと言われるのです。
■聖霊を受けた存在
主は神のひとり子であられ、聖霊を身に受けておられる方です。主イエスはヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられた時、「天が裂けて、”霊”が鳩のように下ってくるのをご覧になった。」1章10節にありました。主イエスはこうして神からの聖霊をお受けになりました。その後、荒れ野に行かれた主イエスはサタンからの誘惑を受けられました。サタンは主イエスを悪霊と手を組むよう、あの手この手を使って試みたのです。しかし主イエスは神と共に、サタンを打ち破る強い存在と共に歩まれます。ですから、主イエスは荒れ野において、すでにサタンを縛り上げたといえるでしょう。
イザヤ書49章24節以下を見てください。「勇士からとりこを取り返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしがあなたの子らを救う。」勇士、暴君であるサタンより強い存在として、「わたし」とご自身を呼ばれる神が述べられています。そして「あなたの子らを救う。」と力強く宣言されています。主イエスは神からの聖霊を受けられ、悪霊追放の御業を行われます。まさにそれは悪霊対聖霊の戦いなのです。主イエスは悪霊に支配され、自分を見失い、神様に敵対する人を救おうとされます。そのような人は他の人を傷つけ苦しめ、そして自分自身をも苦しめるのです。そのような人を悪霊の支配から解放し、主イエスは自由をお与えになります。それは神の国の実現であり、神の恵みの支配の到来であります。聖霊の力を得た主イエスは侵入者と対決し、支配していた罪の力を追い払います。主イエスはこうして時に力づくで、私たちに踏み込んでこられるのです、私たちの大いなる喜びであります。
■はっきり言っておく
28節には「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」と書かれています。この「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、他の訳では、「まことにあなたがたに告げます。」であり、原文では、「「アーメン」まことに、はっきり、言う。」です。主イエスは大切なことを言われる時に、この話し方をなさいました。これは主イエスによる権威ある宣言です。ここで言われていることは、罪の赦しの徹底的な宣言です。そして同時に「赦されぬ罪」の宣言でもあります。29節に書かれています。「しかし聖霊を冒瀆する者は、永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
さて、それでは赦されるのか、それとも赦されないのか、わからなくなりそうですが、これはこのように考えることができます。「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」これはキリストの十字架の贖いのゆえに赦されるのです。神に背き、不信仰と不従順の罪を犯したとしても、悔い改めて福音を信じるならば、救われる。罪の赦しが与えられるのです。イザヤ書1章18節にあるように、「たとえ私たちの罪が緋色、鮮やかな赤であっても、雪のように白くなるのです。」しかし、聖霊を侮り、聖霊を否定し、聖霊を汚す者は、自らの罪の悔い改めはなく、したがって、「イエスは主である」と言う信仰告白もなされません。そのような者は永遠に罪から解き放たれることはないのです。
今日の場面で律法学者たちは、主イエスがなされる悪霊追放の御業は、サタンと手を組んだものと申しました。本来は聖霊のはたらきによるものであるにもかかわらずです。このように「悪霊と手を組んだもの」ということは聖霊を汚すものであり、それは決して赦されるものではないのです。何故ならその声こそがサタンの声だからです。聖霊は、十字架の意味を人々に分からせるように働くものです。十字架によってすべての罪が赦されることを教えるものなのです。
■私たちに働きかけるベルゼブル
私たちは、わかっていてもなかなか主イエスに自分を明け渡すことができません。ベルゼブルに支配されているのです。それは私たち自身がかたくなな心を持っているからです。しかし、主イエスはそんな私たちの頑なさを強奪するかのように、時には私たちという家に押し入ってくださるのです。そしてベルゼブルを縛り上げ、主イエスご自身が戦ってくださいます。それは何を意味しているかと言えば、罪の赦しであり、主イエスによって世に到来している神の国の支配を受け入れることです。主イエスによってもたらされる赦しなのです。
主イエスの十字架の死は、人間の支配のもと、人間の手によって、主イエスが縛り上げられ十字架に付けられたように見えます。しかし、この方は十字架の死を経験され、そして復活されて、死の力に勝利されたのです。この主イエスの御業によって、本当に縛り上げられているのは私たちの罪そのものなのです。
■結び
自分たちでは償うことのできない私たちの罪が赦されるのは、主イエスが十字架にかかって死んでくださったことを信じることによってです。そして、この「信じる」ということさえ、私たちは自分の努力や熱心さによってできることではないのです。それは聖霊の導きによって与えられるのです。私たちは神様からの恵みが一方的に注がれて、それを受けとることだけです。聖霊なる神に導かれて、そして自分が主人ではなく、主イエスだけが私たちの主人であると、受け入れることが求められているのです。その恵みを受け取り、神の支配に身を委ねるならば、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」主イエスはそのように言ってくださるのです。主イエスが私の家の主人であること、そのことだけが私たちの平安であり、癒しなのです。私たちはその時に恵みで満たされます。私たちには神の赦しが与えられております。そのことをなさしめるのは聖霊の導き、聖霊の力です。聖霊は私たちの心に平安を与えてくれる神の力なのです。今日の最後の28節、29節には、赦しの確かさ、救いの確かさが語られています。そして赦されぬ確かさ、滅びの確かさも語られています。その赦しの確かさは聖霊のかかわりにおいて語られているのです。
今日の箇所には続編があります。はじめにお話しいたしましたように、31節以下とのつながりがあるからです。21節にしるされているように、身内の者は主イエスが「気が変になっている」と思いました。律法学者たちは、主イエスが「ベルゼブルに取りつかれている。」と言いました。いずれも主イエスの神の国の働きを妨害するものとなったのです。
主イエスが実現されようとする神の国の家族とは、どのような者たちが神の国の構成員となるのか、について語られています。次週は31節からを中心として、御言葉に聴きたいと思います。
本日の最後に、ガラテヤの信徒への手紙5章16節からをお読みします。「霊の導きに従って歩みなさい。それすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」聖霊が共にあることによって、喜びと感謝を持ちこの世を確信をもって歩んでゆくことができるのです。今日は聖霊降臨節第10主日。ペンテコステに始まった聖霊降臨節のちょうど真ん中です。聖霊のはたらき、聖霊の導きを祈り願いましょう。
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