『耐え忍び、待ち望む』2026年10月18日
説教題: 『耐え忍び、待ち望む』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書8:16-23a
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書24:1-14
説教日: 2026年10月18日・聖霊降臨節第22主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
前の23章の終わりで、主イエスは「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」とお語りになりました。そして、今日の24章は「イエスが神殿の境内を出て行かれると」という言葉で始まります。神殿が荒れ果てると告げられた主イエスが、その神殿から出て行かれる。この二つが続けて記されていることには、深い意味があるように思います。神の御心を聞かず、神から遣わされた方を退けながら、神殿さえあれば大丈夫だと思っている。そのような人間の確かさというものが、主イエスによって問われているのです。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王による大規模な改築と拡張を経た、実に壮麗なものでした。歴史家ヨセフスは、その神殿のまばゆい輝きについて記しています。並行箇所のマルコによる福音書では、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆の声を上げています。弟子たちが目にしていたのは、人間の力と技術を集めて造り上げた、揺らぐことのないように見える建物でした。しかも、それはただ美しい建物なのではありません。神を礼拝する場所であり、イスラエルの人々の信仰と生活の中心でした。これほどの神殿が失われるなど、弟子たちには容易に考えられなかったことでしょう。
■神殿崩壊
けれども、主イエスは言われました。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」目の前にある壮麗な神殿が、徹底的に崩される。そのお言葉に、弟子たちは驚き、不安を覚えたに違いありません。そして実際、紀元70年、エルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。マタイによる福音書は、一般にその出来事の後に記されたと考えられています。この福音書を最初に読んだ人々にとって、神殿の崩壊は、単なる遠い未来の話ではありませんでした。自分たちが知っている、あるいは身近な人々から聞いている、痛ましい現実だったのです。この箇所で今の私たち自身に問われているのは、何を自分の確かな支えとしているのか、ということです。目に見える建物でしょうか。これまで積み重ねてきた実績でしょうか。いつまでも続くと思っている日常でしょうか。私たちは、目に見えるものが堅固であれば、それによって明日も保障されるかのように思います。しかし、その確かさが崩れることがあります。そのとき、私たちは何によって立ち続けることができるのでしょうか。主イエスは、その問いを抱える弟子たちに、そして私たちに語りかけておられるのです。
■世の終わり・世の完成
主イエスと弟子たちは、神殿を離れ、オリーブ山へ向かいました。そこからは、壮麗な神殿を望むことができました。弟子たちは主イエスのもとに来て、ひそかに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」ここで弟子たちは、神殿の崩壊と、主イエスが来られること、そして世の終わりとを結びつけて尋ねます。自分たちの信仰と生活の中心である神殿が崩れる。それは、世界そのものが終わってしまうような出来事に思えたのでしょう。「いつ起こるのですか。どんな徴があるのですか。」これは、私たちにもよく分かる問いです。先のことが分からないと、不安になります。何が起こるのか、いつ起こるのか、前もって知って備えたいと思います。けれども、ここで心に留めたいのは、「世の終わり」と訳されている言葉には、この時代が完成する、とか完結するという意味があることです。弟子たちがこのように言ったからと言って、彼らが既に神の御計画の完成を十分に理解していたとは言えません。しかし、主イエスがこれからお語りになることを通して、私たちは、この世界の行く末が、ただ混乱と破壊に委ねられているのではないと知らされます。この世の最後を決めるのは、戦争でも災害でも、人間の悪でもありません。主が来られるのです。主が御自身の御支配を明らかにしてくださるのです。その約束のもとで、私たちは今を生きています。
■偽メシアの登場
弟子たちの問いに対して、主イエスは、まず日付や出来事の順序を教えられたのではありませんでした。「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われました。そして、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と続けられます。不安が深まるとき、人は、力強く断言してくれる声に惹かれます。この方法さえ取れば、すべてが解決する。そのような言葉を語る人に心を委ねたくなり、この人についてゆけば安心であると思ったりします。けれども、強く語られる言葉が、いつも真実であるとは限りません。人々の恐れをあおり、自分に従わせようとする声もあります。それは私たちの生活のさまざまな場所で起こることです。主イエスは、そのような声に心を奪われないようにと言われるのです。では、私たちは何によって、その声を聞き分けるのでしょうか。自分の判断力の確かさだけに頼ることはできません。私たちもまた、不安に揺れ、都合のよい言葉に惹かれる者だからです。だからこそ、私たちは繰り返し、主イエスの御言葉に立ち帰ります。私たちの救い主は、恐れによって人を支配する方ではないのです。人を救うために御自身を与え、十字架への道を歩まれた方です。その主を見つめ、その御言葉に聞き続けることが、惑わされずに歩む私たちの支えとなります。今日、共に読まれたイザヤ書にも、不安の中で何に聞き、誰を待ち望むのかという問いが語られています。国の行く末が危ぶまれ、人々が恐れに包まれる中で、預言者はこう告白します。「わたしは主を待ち望む。ヤコブの家に御顔を隠される方を。わたしは主に望みをかける。」ここには、「御顔を隠される方」という厳しい言葉があります。神がどこにおられるのか分からない。祈っても答えが見えない。現実を見れば、不安になることばかりがある。そのような中で、「わたしは主を待ち望む」と言うのです。待ち望む信仰とは、何もかもうまくいっているから、神を信じられるということではありません。神のお働きが見えなくても、神の御言葉を手放さず、主に望みをかけることです。イザヤ書では、人々が口寄せや霊媒に答えを求めようとする姿も語られます。先のことが分からない不安から、別の声に頼ろうとするのです。その中で、預言者は神の教えと証しへと立ち帰るように促します。主イエスが「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われるとき、私たちも同じところに立たされています。不安をたちまち消してくれる言葉を探し回るのではなく、神が既に与えてくださった御言葉に聞く。そして、まだ見えない主のお働きを待ち望むということです。
■戦争の騒ぎ
主イエスは、さらに言われます。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。」戦争の知らせを聞いて、心穏やかでいることはできません。命が奪われ、生活が壊され、家族が引き裂かれている。その苦しみに心を痛めることは、隣人として当然のことです。主イエスの「慌てないように」というお言葉は、その苦しみに無関心でいなさい、という意味ではありません。恐れに心を支配され、判断を失い、もう何もかも終わりだと思い込まないように、という呼びかけです。主イエスは「それらはまだ世の終わりではない」と言われます。戦争の知らせや災害の出来事を、一つ一つ、終末の時刻を計算する材料にしてはならないのです。主イエスは、民と民、国と国との対立、飢饉や地震について語った後、「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われました。「産みの苦しみ」とは、痛みの先に新しい命があることを示す言葉です。つまり、苦しみと死がこの世界の最後の言葉ではない、神が約束された新しい世界への望みは、これらの出来事によって消されないということが語られています。そして、それをお語りになった、その主イエス御自身が、これから苦難を受けて十字架におかかりになります。苦しむ人々を遠くから眺めて、耐えなさいと言われる方ではありません。御自身が苦しみを担い、死の中にまで降ってくださる方なのです。そしてその方が復活されることによって、罪と死の力が最後まで支配するのではないことを示してくださいました。私たちが希望を持つのは、この十字架につけられた主が復活され、私たちと共にいてくださるからです。しかし、主イエスは、弟子たちが歩む道の厳しさをも語っておられます。苦しみを受け、憎まれ、命を奪われることさえあると言われます。さらに、人々がつまずき、互いに裏切り、憎み合うことについても語られます。外からの迫害だけでなく、共に歩んでいた人々の関係そのものが傷ついていくのです。
■結び
12節には、こうあります。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」「不法」と訳されている言葉は「律法否定、律法違反、律法なき状態」ということです。神が与えてくださった掟、律法を否定し、それがない状態ということです。神が与えてくださった掟とは、全てを尽くして神を愛すること、そして自分を愛するように隣り人を愛するということです。不法とはその神の愛の掟を崩し、無視して、無くしてしまうことです。現代においても、世の中に不正や暴力が広がる時、自分のことだけで精いっぱいになれば、少しずつ愛が冷えていきます。人を大切にすることより、自分を守ること、自分が勝つことが優先される、私たちも、その流れから自由ではありません。だからこそ、主イエスのお言葉を、自分のこととして聞きたいのです。主は、そのただ中で言われます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」ここでいう「耐え忍ぶ」とは、歯を食いしばって、苦しみに耐え続けるということではありません。つらくても助けを求めず、その場所を離れずにいることでもありません。主イエスがここで呼びかけておられるのは、苦しみの中でも主との結びつきを手放さず、主に望みを置き続けるということです。そして、愛が冷えていく世界の中で、主から受ける愛によって、隣人へと向かい直すことです。それは、いつでも強く、揺らがないということではないでしょう。疲れ果てることも、祈る言葉が出てこないことも、誰かを愛する余裕を失うこともあります。そのようなときにも、主イエスの方が私たちを手放されないのです。私たちの愛が冷えかけても、主の愛は尽きることがありません。主に支えられて、もう一度祈る。そのようにして、主と共に歩み続けるのです。ですから「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」というお言葉は、強い信仰を持ち続けた人だけが褒美として救いを受け取れるということではないのです。私たちを救ってくださは主が、苦しみの途中にいる私たちに、救いの約束をもって呼びかけておられて、あなたの歩みを、わたしは最後まで導く、そう言ってくださるのです。私たちの忍耐はその約束に支えられています。イザヤの「わたしは主を待ち望む」という告白も、この忍耐につながっています。御顔が見えないように感じられるときにも、神が私たちを忘れることはありません。待ち望むとは、その約束に身を寄せることです。自分で明日を確実なものにできなくても、明日を御手に持っておられる方に、自分を委ねることなのです。主イエスは、今日の箇所の最後で、こう言われます。「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」戦争の知らせが響く世界に、神の御支配の知らせも響く。人の愛が冷えていく世界に、神が人を愛し、救ってくださるという知らせが届けられる。主イエスは、そのことを約束しておられます。「福音は宣べ伝えられる。」のです。主は、弟子たちを遣わし、その言葉と生活を用いて福音を届けてくださいます。例えば教会に勢いがなく、困難を覚える時であっても、神の御計画が行き詰まることはありません。。福音を前へと進めてくださる主がおられます。教会はこれまで、迫害や混乱、分裂や失敗を経験してきました。教会自身が愛を失い、悔い改めを求められたこともありました。それでも御言葉が語られ、祈りがささげられ、福音が受け継がれてきたのは、主が御自分の教会を見捨てず、立ち帰る道を開いてくださったからです。私たちも、その主の恵みの中に置かれています。教会の確かさは、エルサレム神殿のような建物の壮麗さにはありません。私たち一人ひとりの強さにもありません。十字架にかかり、復活された主イエスが、私たちを御自分の民として集め、共にいてくださる。そのことに、教会の確かさがあります。私たちは、これから何が起こるのか、そのすべてを知っているわけではありません。しかし、誰を信頼して歩むのかを知らされています。誰を待ち望むのかを知らされています。恐れをあおる声に囲まれても、主の御言葉に聞く。愛が冷えそうになるときには、主の愛を受け直す。疲れたときには、互いに支え合いながら、共に主を待ち望む。主は、苦しみの中にいる私たちを御存じです。そして、救いの完成へと導いてくださいます。「わたしは主を待ち望む。わたしは主に望みをかける。」この告白を、私たち自身の告白として、新しい一週間へと歩み出したいと思います。
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