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『幸いと不幸』 2026年9月27日

1 時間前
読了時間: 9分

説教題: 『幸いと不幸』 

聖書箇所: 旧約聖書 アモス書5:21-24

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書23:13-24

説教日: 2026年9月27日・聖霊降臨節第19主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

■はじめに

「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者は不幸だ。」この印象深い言葉が今日の箇所に何度も何度も繰り返されます。「ものの見えない案内人、あなたがたは不幸だ」という言い回しも何度も主イエスの口から語られます。この「ものの見えない」とは律法学者とファリサイ派の人々を指していることは明らかでありますから、主イエスは徹底的に律法学者とファリサイ派の不幸を指摘されています。前回、この23章の始まりのところから、主イエスが地上で語られた最後の説教、教えがまとめられていると申し上げました。そして主イエスが地上で宣教をおはじめになった時、人々に教えられた5章からの山上の説教と対をなしているということもお話ししました。今日の箇所で繰り返される「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者は不幸だ。」は、協会共同訳では、「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。」口語訳聖書では「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。」このように聞きますと、山上の説教、5章3節以下の「幸いである」で始まる祝福の言葉の一連と、相対していることがお分かりになるでありましょう。あの幸いを告げる美しい、心を打つ言葉に対して、ここでは、災いを告げる言葉が向かい合っているのです。36節まで彼らの不幸が示されていますが、今日はその前半部分から聴きたいと思います。

 

■幸いから災いへ

主イエスが地上の伝道をおはじめになった穏やかなあの頃、ガリラヤ湖畔の小高い丘に主イエスはお座りになって、弟子たちや群衆が周りを取り囲んで、そして主イエスは「幸いなるかな」と祝福をお告げになりました。その主イエスが、ガリラヤからエルサレムの都にお入りになって、最後の説教を語っておられ、その教えの始まりに、「災いなるかな」と裁きの言葉を告げておられるのです。主イエスはひたすらに神の国について語ってこられ、神の愛を実践してこられました。神の民であるイスラエルの人々に対して、神について、神の愛について語り続けてこられました。幸いに始まり、幸いに終わるのではなく、「災い」を「不幸」を語らなければならない主イエスがここにおられます。しかし、主イエスは「不幸だ」「災いあれ」「わざわいである」と語られますけれども、彼らを呪っているのではないのです。この災い、不幸と訳されている言葉は、ギリシア語で「ウーアイ」という言葉であり、悲しみの感嘆を表す言葉です。痛みやうめきを表す言葉であります。悲惨だ、と訳すこともできるでありましょう。確かに主イエスに怒りはありましょう。裁きもありましょう。しかし、それにも増して、悲しみがある。悲しみと怒りとが一緒になった言葉が繰り返されているのです。幸い、祝福の宣言で始まった主イエスの宣教は、最後にはこうして不幸、災いの宣告をしなければならなくなりました。そこに現れている人間の罪の現実を、今を生きる私たちをも見て、この宣告を聞かなければならないでありましょう。

 

■彼らの不幸1・2

主イエスが悲しみを持って語られた不幸の最初は、律法学者とファリサイ派の人々が天の国を閉ざして、人々を入れようとしないことです。自分たちは律法を守っていると確信し、本来の完成者である主イエスを受け入れないのです。それは彼ら自身も天の国に入ろうとしていないということを意味しており、本来、彼らを通してイスラエルの民が神の国に導かれるはずであるのに、その妨げとなっています。ヨハネ14:6に「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」とありますように、この道を否定するのであれば、天の国へ辿り着くことはできないのです。そして海と陸を巡り歩く、つまり、ユダヤ教への改宗者を熱心に獲得しようと活動するにも関わらず、神を愛し、神に従うことを教えるのではなく、人間の規則を教えるだけになっていました。神に近づけるために教えているのに、実際には神から遠ざけているということが起きていました。彼らは神に仕えるよりも、自分たちの正しさを示すことが中心になってしまっていたからです。そのことを主イエスは偽善であると指摘されます。

 

■彼らの不幸3

16節からは誓いに関わる事柄です。対をなすマタイ5章33節以下で、主イエスは一切の誓いを禁じられました。34節以下にこうあります。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。」今日の箇所で主イエスは、「『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。」と彼らを非難されました。神殿にかけて、祭壇にかけて誓った誓いは果たさなくても良いが、黄金にかけて、供え物にかけて誓った誓いは果たさねばならない、あなたがたはそう言っているではないか、ということですが、神への責任を果たすことよりも神殿を飾っている黄金や、供え物の方が大切だなどということは誰が考えても、馬鹿げたことでありますけれども、彼らのやっていることが結局そういうことになってしまっているではないか、ということを主イエスは言われたのであります。礼拝は一生懸命にやっている、真面目な信仰生活を送っている。しかし、神殿において、神の御前に生きているということをわきまえて、神を畏れるのではなく、目に見えている神殿の栄光にこだわり、その建物としての栄光を作っている黄金に心を奪われているではないか、ということです。別の言い方をすれば、神殿は黄金で飾られているから神殿なのかということです。目に見える信仰の営み、目に見える宗教的な儀式に目が向けられて、それで信仰生活が成り立っているように思い込んでしまっているではないか、という指摘であります。これは私たちとて無縁ではありません。立派な教会、大きな教会、数の多い礼拝、そのようなことにとらわれず、全ての者たちが神の御前にひれ伏し、心からの礼拝を捧げ、神を讃美する、そのようでありたいと願います。

 

■彼らの不幸4

そして「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。」と主イエスは言われました。当時の人々は自分の収入の十分の一を捧げていました。創世記28章でヤコブは神に「与えられるすべてのものの十分の一を必ずあなたに捧げます。」と約束したことに始まり、レビ記27章30節以下では、「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。」と寄付ではなく、主のものとして聖別された物であると記されています。薄荷、いのんど、いのんどというのはハーブ、英語名ではディルと呼ばれます。また、茴香も同様にハーブで、こちらはフェンネルといった方がわかるかもしれません。いずれもスパイスとしてほんの少し、料理に加えるという類いのものです。このようなわずかなものが手に入った時でも、十分の一は神に捧げようときちんとその通りにしたというのです。それは結構なことだけれども、律法の中で重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている、ということを主イエスは批判なさいました。十分の一を捧げることだけで神に忠実なのではなく、正義、慈悲、誠実を伴ってこそ、神への捧げ物として意味があるのだと言われたのです。細かな規定を忠実に守って、いかにも律法に従っているように見えても、その実、律法の心である正義、慈悲、誠実をおろそかにしているのです。律法に通じ、律法の案内人であるはずの彼らが、律法の本質の見えない案内人になっているのです。それは「ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」という比喩で語られています。つまり、ぶよというのは、小さな虫であって、非常に不浄な虫とされていました。一方、らくだは常に大きなもののたとえであり、さらに汚れた動物とされていました。つまり、小さな汚れは一生懸命取り除くのに、もっと大きな汚れはそのまま飲み込んでしまうという本末転倒なことになっているではないか、と主イエスは言われたのです。

 

■主イエスによって

このように主イエスは次々と律法学者、ファリサイ派の人々の偽善を指摘されました。偽善という罪はこのように共に生きる他者を殺す大きな罪となります。そして彼らの中にみる偽善を、今を生きるこの私たちの中にも見る時、私たちはどのように救われるのだろうかと思うのであります。私たちの行いは、神を悲しませ、神を怒らせるものばかりであります。神を見失い、自分のことだけが見えてしまい、他者のことが見えなくなる私たちであります。そのような盲目の罪を犯し続けている私たちなのです。今日与えられた旧約聖書はアモス書の5章です。神は徹底して、偽りを退けられました。外見が整っていても、神の御心から離れていれば、なんの意味もないのだということをイスラエルの民に厳しく問われました。神が喜ばれることは礼拝と日々の生活が一つに結びついているものなのです。ここから送り出された私たちは存分に神の恵みを受け取って、そしてその恵みは正義、憐れみ、誠実へと変えられなければなりません。「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」と神は言われます。正義が滔々と流れる社会、生き方を実現せよ、という命令です。しかし、私たちは自分の力では正義や恵みの業を尽きることなく流し続けることができないのです。正義や憐れみを行うことができない者たちなのです。そのような神の正しい要求に対して自分の無力さと罪深さを知らされます。そのように私たちが流し続けることのできなかった正義と恵みの業を流し続けてくださるお方、それが主イエスであられます。十字架と復活によって完全に成し遂げてくださいました。神の律法の本質、愛、正義、憐れみを完全に成就してくださったのです。主イエスご自身が、ヨハネ4:14で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われたように、自分の力ではなく、主イエスによって与えられた赦しと聖霊の恵みによって私たちは満たされて、隣人との愛を実らせてゆくことができるのであります。

 

■結び

主イエス・キリストは「ウーアイ」という悲しみ、痛み、嘆き、そして怒りの声を発しながら、十字架へと歩まれました。主イエスは慰めに満ちた、喜びに満ちた幸いの言葉だけを語られたのではなく、裁きを語り、不幸を告げる厳しい言葉を語られました。そしてその言葉のもとでこそ、幸いへの招きは真実の言葉となるのではないでしょうか。なぜならば、神は不幸を退け、死をも退けて、わたしたちを命の祝福の救いへと招いておられるからです。そのおかげで、私たちは十字架の主と出会うのであります。民の不信仰を深く嘆き、悲しみながら、十字架へと向かわれた主イエスのお姿を私たちはしっかりと心に刻みたいと思います。

 

 
 
 

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