『神の怒りと哀しみ』 2026年10月4日
説教題: 『神の怒りと哀しみ』
聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書13:15-17
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書23:25-39
説教日: 2026年10月4日・聖霊降臨節第20主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日は「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者は不幸だ。」この印象深い言葉が何度も繰り返されている主イエスの律法学者、ファリサイ派への批判の後半の部分から聞きます。この「不幸だ」「災いである」という言葉はギリシア語で「ウーアイ」という、感嘆詞であります。主イエスの呻きの声であり、悲しみ、怒り、痛みが表現されている言葉です。主イエスは当時、最も模範的な信仰生活をしていた律法学者、ファリサイ派の人々に向かって、「不幸だ、災いだ」と言って、呻きの言葉を発せられたのであります。
■盲人の道案内をする盲人
25節、27節で、彼らの不幸が具体的に語られます。「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。」彼らは食器を洗う儀礼的な清めを律法に則って重んじていました。しかし、主イエスは外側をどれほど綺麗にしたところで、杯や皿の内側が汚れているではないかと指摘されます。すでに読んでまいりましたマタイ15章10節以下で、ファリサイ派が食事の前に手を洗うという昔の人の言い伝えを守り、主イエスに対してなぜあなたの弟子たちは守らないのか、と言う場面がありました。その時、主イエスは口に入るもの、つまり、外から取り入れる食事や手洗いと口から出るもの、つまり、心の中から生じる思いを対比させて、何が人の本質的な清さ、汚れを決めるのかを解き明かされました。汚れは外側の不潔さなどではなく、心の中の罪悪であるということです。今日の25節でも「外側だけきれいな杯」を激しく糾弾されました。また、「あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」と言われました。旧約聖書民数記19:6には「野外で剣で殺された者や死体、人骨や墓に触れた者はすべて、七日の間汚れる」という掟が記されています。旧約の時代、死は汚れでありました。この掟に基づいて、人々が誤って墓に触れたり、ふんだりしないように、石灰を使って白く塗って、遠くからでも一目で墓がわかるようにしたそうです。特に過越の祭など、人々が巡礼してくる時期には、道端の墓が白く塗り直されたと言われています。主イエスがお語りになった時は過越の祭の直前であります。ちょうど墓が塗り直されて、美しく見えている時であったのでありましょう。主イエスは、表面上は美しく見えても、心の中が偽善に満ちている様子をこのような比喩を用いて非難されました。15章の14節で、主イエスは彼らのことを「盲人の道案内をする盲人」と呼びました。23章でも前回の16節、24節、そして今日の箇所26節で「ものの見えないファリサイ派の人々」と読んでいます。心の目が閉ざされて、内面の清さ、つまり罪の悔い改めや神への愛、を無視して、外的な規範ばかりを追う姿に対する厳しい言葉が一貫して示されています。
■立派な記念碑
さらに29節からは記念碑のことが語られます。「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。」とあります。彼らは過去の預言者や義人の墓を立派に整備したり、飾ったりしていました。そうすることで、自分たちは預言者を敬う正しい敬虔な人間であると主張していました。しかし、主イエスは、それはただの見せかけ、自分たちを立派に見せるためのパフォーマンスであると見抜き、そのことを指摘されたのです。彼らの最大の問題は、過去の死んだ預言者は、もはや何も語ることはないわけですから、都合よく尊敬の対象とする一方で、今、まさに目の前にいる、生きている預言者、メシアである主イエスの言葉を拒絶して、亡き者にしようとしているということです。主イエスは彼らの偽善、彼らの罪を指摘して批判するために、彼らは受け入れられず排除しようとしているのです。死んだ預言者は墓を建てて敬うが、生きているまことの語り手は殺そうとするという矛盾と愚かさを主イエスははっきりと暴露するのです。そして彼らは「もし先祖の時代に自分たちが生きていたら、預言者を殺すような罪には加担しなかった」というわけですが、主イエスは「あなたがたは預言者を殺した者たちの子孫である、ということを自ら証言しているのだ」と言われます。先祖が持っていた不信仰の罪、傲慢、神への背きを、その子どもであるあなたがたもそっくりそのまま引き継いでいるではないか、と。形式的に過去の義人を讃えることによって、今生きている自分の心の頑なさを隠すことはできないという指摘であります。神が求めておられるのは、立派な墓や記念碑ではなく、今、語られている神の言葉、神の真実、に謙虚に心を向けることであると主イエスは教えておられるのです。
■偽善
今日の箇所で、主イエスは外面を重んじて、内面を問うことをしない偽善について問題にしておられます。この「偽善」という言葉は、ヒュポクリテースという言葉ですが、「〜の下で」という「ヒュポ」と、「答える」という「クリノー」が一緒になった言葉で、「役者、舞台俳優」とか「応答する者」を意味する言葉です。古代ギリシアの演劇では、大きな仮面をかぶって演じました。仮面で隠して、役割を演じる人を意味していました。そこから、本来の自分とは異なる姿を演技によって見せるという意味に広がり、最終的には批判的な「表向きは良いふりをして内面は異なる思いや行いをする人」=偽善者という批判的な意味に変わっていきました。私たちは聖書において、たびたび登場するファリサイ派=偽善者として理解するわけですけれども、私たちとて偽善者の集まりであります。人間は誰しも人の目を意識して生活するわけで、外側で正しい生活、つまり、人から正しく見える生活というものを覚えるのではないでしょうか。つまり、ファリサイ派、律法学者の道をたどるということです。そしてこの内と外との違い、内側に潜んでいる偽善を見抜くのは神だけであるということです。そして大切なことは、神の見るところにおいて、自分がどんなに卑しむべき偽善者であるか、ということを神によって悟らされ、神の前にこうべを垂れる、ということによって信仰が生まれるということでありましょう。誰もが偽善と無縁であり得ず、誰もが偽善から始まるというのはなんと悲しいことであろうかと思います。そのことを主イエスが嘆き、悲しんでおられるということです。主イエスがこれほどに悲しまれた、そして怒りをも覚えられたのはなぜであるのか、25節を今一度見てみたいと思います。「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」強欲と放縦、つまり、欲であり、それを自制できないことである、と主イエスは言われました。律法の原点である十戒の第十戒はまさにこの「むさぼること」を禁じています。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」十戒のこの第十戒以外は外に現れる行動や言動が具体的に示されていますけれども、この第十戒だけは、唯一、心の中、内面の動機、欲望について語られています。律法学者やファリサイ派の人々は十戒やモーセの律法を外面的な行動規範として守ることには優れていました。そしてそのことによって自らの正しさを主張していました。しかし主イエスは行動に出ていなくとも、心の中がむさぼり、欲で満ちていたならば、それは神の前においては律法全体を破っているのと同じであるという内面を問題にされました。外側の儀式で覆い隠された内面のむさぼりが問題であると言われたのです。内面の欲、むさぼりを隠すための手段が外面を装うこと、偽善である、ということです。
■今に至る拒絶
「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」33節で主イエスは彼らに厳しい言葉を宣告されます。主イエスの怒りと嘆きが集約されています。マタイ3章7節では洗礼者ヨハネが彼らに向かって「蝮の子らよ」と呼びかけました。またマタイ12章34節では主イエスが「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」と糾弾されました。蝮が持つ猛毒があなた方のうちに満ちていることをすでに主イエスは指摘しておられました。外面的には正しく見えようとも、神の前においては隠し立てすることはできないということを、神の裁きの厳しさを正面からお語りになっておられるのです。「だから」と主イエスは34節で語ります。「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」彼らは自分なら過去の預言者を殺さなかったと言っていましたが、主イエスは、「これから送られる神の使いの者たち、つまり、この私、そして弟子たち、使徒たちをあなたがたは迫害し、そして殺すのだ。」とその罪をここで告発します。自分の名誉を守るために、過去の義人をダシにするという偽善の罪を犯し、自分の立場や権力を守るために目の前の真実を排除するという欲、むさぼりの姿を指摘されます。先祖と同じ、いえ、それ以上の罪を重ねようとしているのです。35節には「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。」とあります。アベルは創世記において最初に殺された義人として登場します。バラキヤの子ゼカルヤとは歴代誌下の24章20-24節に登場する祭司ヨヤダの子ゼカルヤを指しているのでしょう。つまり、ヘブライ語聖書の順序である創世記から最後の歴代誌まで、聖書の最初から最後までに流されたあらゆる義人の血ということです。天の父から遣わされて、神の言葉を語る預言者を迫害し、殺害するということは、まさに天に唾をするようなものであり、それは必ず自分に降りかかってくるのです。時代の要所要所で差し出された神の警告をことごとく拒絶してきた人間の歴史的拒絶は、主イエスを拒絶するここにおいて、まさに頂点に達したということをも意味しています。ここで主イエスが律法学者、ファリサイ派を用いて非難された「偽善」と「むさぼり」は単なる個人個人の小さな落ち度ではなくて、歴史を通じて神の救いのご計画を拒絶し続ける人間の根深い罪なのです。
■結び
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」主イエスはこう言って嘆かれました。神は旧約聖書を通じて、忍耐強く預言者たちを遣わして、神の民を招き続けてこられました。神の愛は、雛たちをその羽の下で温かく包み込もうとする親鳥のような慈愛に満ちています。しかし、それを望まなかったのです。「エルサレムよ、エルサレムよ」と繰り返される主イエスのお言葉は悲しみに満ちています。そして神を拒み続けた結果としてもたらされるのは、神殿の崩壊であり、そして霊的に荒れ果ててしまうのです。しかし、悔い改めを持って「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と語る時、神の祝福のもとに集められる。主イエスはそのように希望をも語っておられるのです。「わざわいなるかな」という主イエスの怒りと哀しみは、主イエスの血によって、主イエスの十字架によって、そして主イエスのご復活によって、「さいわいなるかな」となります。私たちはただ、主イエスのもとに立ち、そして主イエスの広げる途方もなく大きな翼の内側に安心して置かれていることを知ります。今日の主イエスの深い嘆きの言葉を通して、私たちは私たちの罪の深さを知ります。そして同時に神の哀しみの深さを知るのです。私たちの不信仰を深く嘆きながら、十字架へと赴かれる主イエスのお姿をしっかりと心に刻みたいと思います。
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