『主に仕える』2026年9月20日
説教題: 『主に仕える』
聖書箇所: 旧約聖書 ヨシュア記24:14-15
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書23:1-12
説教日: 2026年10月20日・聖霊降臨節第18主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話になった。」今日与えられたマタイ23章の始まりにはこのように記されています。この「それから」という言葉は単なる時間の経過を示す「その後」という意味だけではありません。日本語が伝える「それから」という言葉よりも意味に幅のある言葉です。マタイにおいては、大きな転換点を示す時にこの言葉が使われています。この23章においては、直前までのユダヤ教指導者たちとの応答から、今後は弟子たちと群衆たちへの教えへと場面が変わったことが示されています。そしてここ23章から25章にかけては、主イエスがほとんど一方的にお語りになった言葉が記されている、いわば教えのまとめの箇所であると言えます。このマタイ福音書は主イエスの系図に始まり、そして主イエスご自身が洗礼をお受けになり、誘惑を退けたのち、宣教活動が始まっています。そして5章から7章、山上の説教と呼ばれる箇所で、主イエスは宣教の始まりにあたって、群衆と弟子たちに対して教え始められたのでした。そして今、主イエスは死に向かわれる直前に群衆と弟子たちに対して教えを語られたのです。その時と比べますと、とても厳しい口調でありますけれども、山上の説教とちょうど対照をなすように、伝道の最初に語られたお言葉をもう一度ここで繰り返しておられるのです。ファリサイ派や律法学者への非難の言葉が続きますが、単なるファリサイ派批判ではなく、22章までのユダヤ教指導者たちをどう見るべきか、そして弟子としてどう生きるべきか、つまり現代の弟子、私たちが教会としてどのように生きるべきなのか、という視点で語られています。
■ファリサイ派の人々
その始まりである23章はほとんど一貫して律法学者、ファリサイ派に対する非難です。主イエスから徹底して批判される彼らはユダヤの人々の信仰生活においてどのような役割を果たしていたのでしょうか。一般の人々とどのような関わりを持っていたのでありましょうか。当時のユダヤの人々の信仰生活というのは年に3回エルサレムの主の前に出る必要がありました。日常においては、自分たちが生活しているそれぞれの町や村にシナゴーグと呼ばれる会堂を持っていました。日常的にはそのシナゴーグに行き、礼拝を捧げ、そして聖書、旧約聖書に記されている掟、律法を学びました。そのように会堂に集い、生きる人々の中にあって、律法専門の学者として研究し、解釈し、そして人々に教えて聞かせる役割を担っていた人々が律法学者でありました。彼らは人々が律法を守って生活できるように導く者たちです。そしてファリサイ派と呼ばれているのは一つの集団でした。彼らは神の選びの民として、神の約束と教えに忠実でありたいと願った人たちでした。律法の専門家の中にファリサイ派が多くいました。当然であります。彼らはきちんと会堂に行き、礼拝を守り、聖書を読み、聖書に書いてある通りの生活を守ろうとした模範生でありました。そうでありながら、主イエスの厳しい言葉があるのです。主イエスは律法学者やファリサイ派の人々を非常に厳しく非難していますけれども、その教えや存在を否定しているわけではありません。むしろ「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」と言われます。それは彼ら、律法学者やファリサイ派が「モーセの座についている」からだと言われます。モーセはシナイ山で神から2枚の石板に刻まれた十戒を与えられ、イスラエルに神の律法を伝えた人物でありますから、「モーセの座に着く」とはモーセの後継者として神の律法を教える立場にあるということです。ですから、彼らが律法の立場で語ることを行い、そして守るのはイスラエルとして当然のことなのです。
■心と行いの離反
ここで主イエスは「モーセの座」という言葉を痛烈な皮肉として使っておられます。つまり、彼らはモーセの座に座って、律法を教えているが、モーセが伝えた神の御心を彼ら自身が生きているわけではないということです。主イエスは彼らの教える立場そのものを否定しているわけではありません。彼らが聖書、つまりモーセの律法に基づいて教えているその教えに耳を傾けなさいと言っておられます。しかし、問題は彼らが教えていることと、彼らの生き方が一致していないことでした。主イエスは言われます「彼らの行いは見倣ってはならない。」主イエスは3節以下で具体的に指摘されます。「言うだけで実行しない」「人々には重い荷物を背負わせる」「人に見られることを求める」「上席に座りたがる」「先生と呼ばれたがる」というような姿です。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」ファリサイ派がモーセの座について語られる言葉は行動を伴う、実行を求める言葉です。彼らは語ることによって人々に重荷を背負わせます。しかし、それを一緒に担うということはせず、その重荷を少しでも軽くするために指一本貸すということをするわけではないのです。彼らの目的はすべて人に見せるためである、と主イエスは指摘されます。「聖句の入った小箱を大きくする」と5節にありますが、これはすでに22章34節以下の最も重要な掟のところで「テフィリン」と言う名前の箱であるとお話しいたしました。申命記6章4節以下に記されている『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と言うこの掟は「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付けなさい。」と記されているがゆえにこれを忠実に守り、革の箱にシェマーと呼ばれるこの掟を書き記して、平日の朝の祈りの際に、腕のあたりと額に革ひもで巻きつけていました。これをもし、実際に読むのであれば、確かに文字の大きい方が読みやすい、として箱も必然的に大きくなるわけですが、これはイスラエルの民であるならば、子どもの頃から聞かされて暗記しているものでありますので、箱が大きい必要は全くありません。それにもかかわらず大きな箱をつける。また、「衣服の房を長くする」と言うのは民数記15章38節以下に基づくものです。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」ユダヤ人たちはこれに従って、房のついたショールを身につけて祈りを捧げます。聖句の入った小箱も、この房のついたショールも、民数記のこの御言葉に示されている通り、主のすべての命令を思い起こすため、主の御心を忘れないためのものです。つまり、絶えず神に心を向けるために定められているにもかかわらず、彼ら、律法学者、ファリサイ派の人々の心は人間に向けられており、人が自分をどう見るか、敬虔な宗教指導者に相応しい姿に見えるだろうか、と言うことだけのためになっているということです。主イエスはショールの房を長くすることによって目立つこと、自分の信仰を印象付けようとすることを禁じておられます。神に向かうふりをして、実はその目は人を見ているだけのものであり、外に現れていることと、心に願っていることが正反対となっています。主イエスは「そのすることは、すべて人に見せるためである。」と彼らの偽善を批判されたのです。このことはすでにマタイ6章でも指摘されていました。「人の前で善行をしないようにしなさい。」「祈る時には、人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈るのではなく、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
■報いを求めず
さらに続けて、主イエスはこのように言われました。6-10節です。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」。「先生」、ヘブライ語で「ラビ」と言う律法を教える教師に用いられる敬称で呼ばれることは、彼らにとってこの上ない光栄でした。「ラビ」と言う言葉は、我が師、私の主人、という意味を持ちます。彼らは宴会では上座に会堂では上席に座り、広場では相手が立ち止まって挨拶をし、一目置かれることを喜びとし、そのように扱われて当然だと思っていました。しかし、そのような人よりも上に自分を置くことを主イエスは徹底的に戒めます。先生と呼ばれるな、まことの先生と呼ばれる人はただお一人、天から遣わされたキリスト、お一人である。あとは皆平等に兄弟であり、上下ないと主イエスは言われるのです。まことの父は天におられる父だけであるのだから、地上の者を本当の意味では父と呼んではならないとまで戒めておられます。ユダヤ人はアブラハムを父と呼び、またラビに対しても父と呼びかけることがあったといいます。指導者、宣教者に対する尊称が際限無く広がっていく事態があったのかもしれません。ここに示されていますことは、単に先生と呼ばれる人のことだけではなく、すべての人においてひとごとではないのではないでしょうか。人間は人から尊敬され、人から承認され、人から褒められる。そのことに満足を求めがちです。そして神が褒めてくださること、神が報いてくださるということが見えなくなったのです。神がどう見てくださるかではなく、人がどう見てくれるかと言うことに心が向く時、神が見えなくなります。それは彼らだけではなく、私たちも同様です。教会での奉仕も、会社での仕事も、家庭の中でも、この自分の行いについて、誰が認めてくれるのか、誰が報いてくれるのか、そのような思いが積み重なる時、私たちは自分を大きくして、自分を目立つようにするのです。つまり聖句の入った箱を一回り大きくし、ショールの房をちょっと長くして、人の見ている前で何かをしたくなる。誰もが経験しており、そして人間に絡みつく罪の姿であろうと思います。
■結び
そのような私たちに主イエスは言われるのです。「いちばん偉い人は、仕えるものになりなさい。」原文では「あなたがたの中で大きい者」は、つまり、上の立場にいる人、権威を持っている人ということです。どれだけ人に仕えさせたかではなく、どれだけ人に仕える者となったか、が問われています。「仕える」とは自己卑下ではありません。自分がどうしたら上に見えるかではなく、この人のために自分は何ができるかと考えること、それが仕える者の姿です。それは主イエスのお姿そのものであります。すでに読んでまいりましたマタイ20章26節以下でも弟子たちに主イエスは言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」人に仕えよ、とお教えになられただけではありません。主イエスご自身が仕える者となって、ご自身でお示しくださいました。神の子が人となり、もっとも貧しく、もっとも低い僕となられた主イエスご自身のお姿があります。背負いきれない重荷を人の肩に載せて、指一本貸そうともしないのではなく、むしろその重荷を負った人の僕となって、下からその重荷を背負ってくださったのが主イエスであります。主イエスは十字架ですべての重荷を背負ってくださった、これが主イエスの福音なのです。主イエスが小さくなられ、そして私たちに重荷を負わせることはなさらないのです。罪の重荷にあえぐ私たちを招いて休ませてくださるのです。神の前に自分を小さくする者は、同時にその罪を赦し、受け入れて救いを与えてくださる神を知ります。教会はそのような者たちの群れです。罪ある人間の惨めさにもかかわらず、それを愛し、救いを与えてくださる神の恵みを仰いで、主をほめたたえるのです。御言葉によって謙遜にされ、互いに仕えあい、主を賛美し続けましょう。
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