説教題: 『群衆から離れる主イエス』
聖書箇所: マルコによる福音書 3章7節~12節
説教日: 2022年7月24日・聖霊降臨節第八主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
安息日に手の萎えた人を癒された主イエス、その結果、ファリサイ派との対立が決定的となり、ファリサイ派と犬猿の仲のヘロデ派が一緒になって、主イエスをいかにして殺そうかという相談を始めたのでした。そのような対立が前回、読んできた箇所に示されていました。人としてこの世に来られた主イエスは神の権威を表わしつつも、人としてこの世の人々と関わるがゆえに、理解されずに人々の敵意と真正面から向かい合っていかれます。 主イエスの公生涯は始まったばかりです。それゆえ、主イエスは弟子たちを伴って、湖、ホームグラウンドであるガリラヤ湖のほうに立ち去られました。立ち去ると訳されている言葉は、危険から非難するという意味を含んでいるのです。そして主イエスにガリラヤから来たおびただしい群衆が従ったと書かれています。今日の聖書箇所で目立つのは「群衆」という言葉です。7節から12節までの短い単元のなかに、3回もでてきます。おびただしい群衆、群衆に押しつぶされないように…どれほどの数なのでしょうか。その数の多さを説明するかのように、マルコは群衆の出身地を記します。主イエスが伝道活動を開始されたガリラヤを中心に、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンのあたり。聖書の巻末にあります6.新約時代のパレスチナの地図を見てみますと、ガリラヤ湖からヨルダン川、南の死海へ目を移すと、ユダヤ、エルサレム、イドマヤが見つけられます。ヨルダン川の向こう側というのは、東側のデカポリスのエリアを指すのでしょう、ここはユダヤ人の地ではなく異邦人の地と言われるところです。そして、ティルスやシドンは北側、地中海に面したフェニキアと呼ばれる、ここも異邦人の地です。異邦人が大勢集まったというよりは、これらの広い地域に移り住んでいたユダヤ人を指しています。要するにこの新約時代のパレスチナのほぼ全域を網羅する全エリアから主イエスに従う群衆があつまった、とマルコは言いたいのです。
■集まる理由
それほどまでに大勢の群衆が主イエスのところに集まった理由が10節に書かれています。群衆は大半が病に悩む者たちであり、主イエスに触れて治してもらうために集まってきたのです。汚れた霊に取りつかれた男を主イエスが癒され、その主イエスの評判はたちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった、と1章28節に記されていました。主イエスはそのほかにも多くの癒しの奇跡をおこなわれたのでしょう。おびただしい群衆は、「主イエスのしておられることを残らず聞いて」癒し人としての名声にひきつけられて集まってきたのです。「病を癒すことのできるすごいかたがおられるらしい」「この方なら、病を癒し、治していただけるかもしれない」「病気に悩む人々は皆」とありますが、いわゆる病いに限らず、悲しみや苦しみの中にいる人々が救いを求めて集まってきたのです。マルコは「おびただしい群衆」という言葉で民衆の姿を強調しています。主イエスの福音が妨げられずに当時のパレスチナ全土に広まっていたということの強調であり、そして主イエスを受け入れずに殺そうとする相談を始めたファリサイ派やヘロデ派という主イエスをめぐる両極を対照的に描き出しているのです。宗教的・政治的指導者たちは主イエスから離れ、一般の民衆はおびただしい数で主イエスの元に集まってきたのです。この違いは何でしょうか。1章22節には主イエスは「権威ある者としてお教えになった」ことが記されていました。主イエスが最初に語られたお言葉は1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。この言葉はまさに権威ある者の言葉です。一般の民衆は、主イエスを権威ある者として受け入れ、そのお言葉とその癒しの御業に救いを見出して押し寄せました。しかし、自らを権威ある者と考えているファリサイ派にとっては、主イエスの存在は自分たちの地位を脅かすものでした。主イエスの前では自分たちが主であることができなくなると感じたからです。
一方は主イエスを受け入れ、一方では主イエスを拒絶する、これは決してファリサイ派、ヘロデ派に限ったことではなく、私たち人間の姿であり、そしてわたしたち一人一人の中に共存しています。主イエスを受け入れながらも、主イエスを拒んでしまうのです。主イエスを中心に置きたいと願いながらも、自分を中心に置きたがる、それが人間の姿です。しかし、主イエスはそんな私たちを憐れんでくださる、そんな私たちを愛してくださる。そのことを知っている私たちは本当に幸せです。とことん自分中心にならずに、主イエスの元に何度でも立ち帰ることができるからです。
■小舟に乗って
さて、押し寄せてくる群衆をご覧になって、主イエスは弟子たちに小舟を用意させました。「群衆に押しつぶされないためである。」とあります。主イエスは何でもお出来になるお方ですから、本来、群衆に押しつぶされるなどということはないのです。来る人すべてを癒すことだっておできになるのです。しかし、そうはされませんでした。小舟に乗って群衆と距離を置かれました。離れてどうされたのでしょうか。マルコのこの箇所に直接には書かれていませんが、似たような状況がこの後の4章のはじめに出てきます。4章1節です。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」今日の箇所に、今お読みした4章1節が挿入されていても違和感がありません。そうです、主イエスは舟に乗りこまれ、湖の上から御言葉を語られたのです。主イエスは癒しの御業ではなく、御言葉によって群衆と関わろうとなさいました。主イエスのみ言葉の語りかけは、神の恵みのご支配、神の国の福音を告げ知らせるためです。わたしたち一人一人と出会い、魂に触れる交わりを持とうとしてくださっておられるのです。
しかし、群衆たちはそれを理解したでしょうか。主イエスに触れようと思ってやってきたのに、主イエスは小舟に乗って離れてしまった。教えを聞いても、病が治るわけではないのに、期待外れだ、せっかく遠くからやってきたのに、と群衆は思ったのではないでしょうか。そのように群衆は失望していきました。主イエスを自分都合で見ていたからです。私達も神様を自分の都合で見ることがあります。自分の期待していた結果でない時、自分の思った通りに答えが与えられない時、自分の良いように神様を変えようとするのです。そのような自分都合による失望は、その結果どうなっていったのか、人々の失望の声は、やがて「イエスを十字架につけろ」という大きな力を持つものとなりました。主イエスの十字架の死は、ファリサイ派とヘロデ派が相談して願っているだけでは実現しませんでした。群衆が一緒になって、「十字架につけろ」と叫んでいったときに、総督ピラトは群衆を満足させるために、十字架の死刑の判決を下したのです。つまり、主イエスを十字架に付けて殺したのは、主イエスの周りに押し寄せてきたおびただしい群衆でありました。悲しみや苦しみの中にある群衆は、主イエスを権威ある者として受け入れ、そのお言葉とその癒しの御業に救いを見出して押し寄せた、と先ほど申しました。しかし、悲しみや苦しみのゆえに救いを求める人間は、自分の都合の良い救いを求める弱さも併せ持っているのです。自分の期待する救いこそが救いであり、それを与えてくれないとそれを拒絶する強情さを持っています。それが群衆の姿であり、そして私たちの姿なのです。
■汚れた霊ども
さて11節には汚れた霊が登場いたします。押し寄せてきた群衆の中には、汚れた霊に取りつかれた者もおりました。汚れた霊のことは、1章にも出てまいりました。汚れた霊は主イエスがすでに神の子であられ、救い主であることを見抜いていました。その時、会堂に入られた主イエスに向かって、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか、正体はわかっている。神の聖者だ。」と叫んだのでした。今日のこの箇所でも汚れたたくさんの霊は、主イエスに向かって「あなたは神の子だ」と叫んだのです。そして悪霊は主イエスにひれ伏していました。
このマルコ福音書は不思議な書き方をしています。おびただしい群衆、それらの人々は主イエスの元にやってはきたものの、その彼らの声は記されていません。押し寄せてきたおびただしい群衆が、「あなたは神の子です」と言って、ひれ伏すというのが本来、自然ともいえるストーリーでなかったでしょうか。しかし、そうは記されていないのです。むしろ、群衆からは主イエスが舟に乗って離れてしまったことへの無言の不満を感じ取ることができます。彼らは、この人には癒す力があると思って、一生懸命触れようとはいたしましたけれども、その触れるお方は「神の子」であることには気づいていないのです。そしてそのことに気付いたのは、汚れた霊たちでありました。「あなたは神の子です。」この言葉は、私たちの信仰告白の言葉であります。マルコによる福音書は徹底して、主イエスが神の子であることを書き記します。「神の子イエス・キリストによる福音のはじめ」で始まり、ローマの百人隊長が、十字架上で息を引き取られた主イエスの姿を見て「本当にこの人は神の子だった」と告白して終わるのです。汚れた霊は、神から最も遠い存在であり、汚れた霊は人間に働きかけて、神との真実の交わりから引き離す存在でした。しかし、そのような存在にも「あなたは神の子だ」と叫ばせ、ひれ伏させる。主イエスがそのような力を持った存在、神の子であることを明らかにしているのです。
■禁止命令
そのような汚れた霊たちに向かって、主イエスはどうされたか、最後の12節に書かれています。「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。彼らに沈黙を命じられました。ここでまた、「メシアの秘密」が出てきました。1章29節以下で、多くの悪霊を追い出された時、悪霊に沈黙をお命じになりました。「悪霊はイエスを知っていたからである。」人々は、主イエスが神の子であられることは知らず、しかし、悪霊は知っていた。主イエスが神の子であることはまだ秘密にしておかなければならなかったので、沈黙を命じられたのです。その後の40節以下で重い皮膚病の人を癒された時も、その人に「誰にも話さないように」とお命じになりました。しかし、かれは大いにこの出来事を告げ広め、その結果、人々が押し寄せる結果となったのでした。
「神の子イエス・キリストの福音」は主イエスの生と死、ご受難と十字架、そして復活、その全体を通してのみ、「神の子」はあらわにされ、語られ、宣べ伝えられるべきものであり、十字架と復活以外のあらわし方で「神の子」であることを告白することは許されないのです。
■結び
癒しを求めてくる群衆とは小舟で距離をとり、「あなたは神の子だ」と叫びひれ伏す汚れた霊には沈黙を命じられる。主イエスがお一人で歩まれる神の子の厳しさが示されています。それはイエス・キリストの十字架と復活によってあらわされる福音の大きさとまさに比例しています。主イエスはその厳しさをわたしたちに対しても、求めておられます。たとえ私たちが信仰告白をしようとも、わたしたちが主イエスの道に従いゆくまでは、主イエス・キリストはわたしたちに知られないままです。私たちは正しく主を知らなければならないのです。
自分都合で主に触れようとするのではなく、一人一人への主イエスの呼びかけに耳を傾け、応え、従ってゆかなければなりません。私たちは、この福音のはじめから神の子としての主イエスを仰ぐよう、導かれています。大いなる恵みであります。弱く危うい私たちですが、愛と犠牲、献身の道を歩まれた主イエスに倣い、従う者として歩めるよう、主が伴ってくださいます。主が求めておられるものを問い続け、従いゆく者であるよう祈り願いたいと思います。
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