説教題: 『羊飼いの約束』
聖書箇所: マルコによる福音書 14章27~31節
説教日: 2023年9月17日・聖霊降臨節第十七主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
主イエスと弟子たちは過越しの食事をいたしました。それは主イエスが弟子たちと取られた最後の晩餐でありました。そして一行はオリーブ山へと出かけたのであります。32節にありますゲッセマネという祈りの場へと向かったのです。今日の27節から31節はそのゲッセマネへと向かう途中での話であります。オリーブ山は彼らが食事をしたエルサレムの中心地から東側の丘陵地帯です。そんなに高い山ではありませんが、今でもオリーブ山に行けば、エルサレム全体を見渡すことができると言われている場所です。主イエスを先頭とした一行は坂道を登って行ったのでありました。そこは祈りの場所として、彼らにとっては行き慣れた道でありました。しかし、時は夜、そして舗装などされているわけではない道、転がっている石を避けて、足元に注意しながら、まさにつまずかないように気をつけながら登って行ったに違いないのです。
■「あなたがたは皆、わたしにつまずく」
その道を歩きながら、主イエスは言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」「つまずく」と訳されておりますこの言葉を辞書で見てみますと、「信仰から離反する、信仰を拒む」とあります。弟子たちが皆、主イエスを救い主と信じる信仰から離反する、私を拒む、私に従ってくることができなくなる。」と言われたのでありました。それはなぜか、主イエスはゼカリヤ書に預言されている言葉を引用して話されました。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」ゼカリヤ書13章7節です。ここでしめされている「わたし」は父なる神、羊飼いは主イエス、そして羊たちが弟子たち、を指していることは明白であります。羊飼いである主イエスが打たれ、殺される。羊飼いを失った羊たちは、どうしてよいかわからず、ばらばらになってしまう。弟子たちは主イエスを失って散り散りになる、と言うのです。主イエスは、あなたがたがつまずくのは、この預言の成就である、と言われたのであります。羊飼いを打つのは「わたし」つまり、父なる神。この羊の群れから羊飼いを取り去り、羊を散らす、それが父なる神のご計画である、ということが示されています。神様はなぜ、羊飼いを打たれるのでありましょう、何故羊たちをばらばらに散らすのでありましょう。これはゼカリヤ書の8節以下を見ますと明確に記されております。このようにあります。「この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。/彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。」預言者ゼカリヤは、イスラエルの民を羊の群れにたとえて語っています。イスラエルの背きの罪ゆえに、神は羊飼いを打ち、羊たちを散らします。三分の二は死に絶えますが、三分の一が残り、神はその三分の一を精錬すると言われます。精錬するというのは、不純物を取り除き、清いものにしていくということです。そして、彼がわが名を呼べば、わたしは「彼こそわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答える、とありますように、神と民との真の応答関係に生きる者たちにされようとしておられます。これが神のご計画なのです。羊飼いを打ち、羊を散らすことが目的なのではなく、罪ゆえに滅びが目的なのではなく、その試練を通して、まことの民を興すこと、神との応答関係に生きる者たちを呼び起こすこと、それが神の御心なのです。
「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」つまずきもまた、神のご計画のうちにあり、そしてその先に真の救いがあるのだ、と主イエスは言われたのでありました。
■ペトロの反応
しかし、主イエスのお言葉を聞いたペトロは、力強く宣言いたします。「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません。」今申しましたように、主イエスのお言葉は預言の成就でありますが、ペトロはその言葉を理解せず、自分の力で、主イエスに従おうとしています。彼は実際にそのように思っていたのです。一番弟子であるという自覚とプライドを持って彼はそう言ったのでありましょう。確かに彼は、自分が主イエスにつまずき、そして信仰をなくしてしまうことなどないと思っていたのです。しかし、実はペトロの言葉はすでに弟子たちを散らしていると言えるのではないでしょうか。ペトロは、こう言いました、繰り返します。「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません。」彼は「他の者たちのことはわかりませんが、」と言ったのです。他の者たちは逃げ出すかもしれない、でも私は違います、と言いました。彼は自分の信仰は他の者たちの信仰よりも立派であると思っていたことがここで露わになっています。彼はここで自分と他の弟子たちの主イエスに従う姿や態度を比べているのです。
このような罪は、私たちも陥る危険性があります。Aさんはキリスト者なのにあんなことを言って、あんなことをして・・・それよりも私の方がマシかしら・・・というような人との比較は、口には出さなくとも、大なり小なりどなたでも思ったことがあるのではないでしょうか。そのような信仰生活に対する決めつけ、こうあるべき、こうあらねば、という決めつけは、信仰生活の妨げであり、時につまずきとなってしまうのです。
そんなペトロに主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。」主イエスはペトロがもつ弱さ、人間の持つ弱さを見抜いておられてそのように言われました。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、つまりユダヤの暦では日没から新しい日になりますから、すでに時は金曜日になっております。最初の鶏が鳴いて暁を告げて、二度目の鶏が鳴いて夜が明けて朝になる。その時までに三度、わたしのことを知らないと言う。「3」というのは三位一体と言いますように、神を表す完全数です。完全否定する、そう主イエスは言われたのです。それを聞いたペトロは力を込めて言い張りました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」このペトロの姿には、自分の強い意志を信じる態度が示されています。信仰は、自分の力、自分の行いによるのではなく、ただ神が触れてくださるときに私たちの中に与えられるもの、主の恵みによって生かされるものであるにもかかわらず、ペトロは自分の信念に従って主イエスに従っているのです。ですから、強く言い張っているのです。そしてそのような自分の信念による信仰はペトロだけでなく、他の弟子たちも同じでありました。ペトロの強い意志表明に対して、他の弟子たちも皆、同じように言ったのであります。
しかしながら、実際、主イエスが逮捕されたときには、主イエスのお言葉通りになったのであります。14章50節「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った。」
■ガリラヤに行く
もし、このとき、ペトロが自らの強さと自負を語るのでなく、自らの弱さと不安を語ったならば、どうなっていたのであろうか、と考えたりもいたしますが、このとき、主イエスがこのように語られ、弟子達が皆、従う者であることを表明するということは神のご計画でありました。弟子たちは主イエスに従う者たちでありながら、このように主イエスを裏切り、主イエスから離れるという挫折を経験するのです。そしてそれゆえに、弟子たちは新たに立ち上がることができるのです。主イエスは言われました。28節「わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く。」ガリラヤ、それはいうまでもなく、主イエスが弟子たちを招かれたところであり、主イエスが弟子たちを伴い、伝道活動を始められたところであります。マルコによる福音書にはガリラヤという言葉が12回出てまいりますけれども、面白いことにほぼ半分が1章に集中しています。1章9節「イエスはガリラヤのナザレから来て」、1章14節「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き」、1章16節「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」、1章28節「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」、1章39節「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」。ここだけを繋げてみますと、主イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨハネの後ガリラヤへいき、ガリラヤ湖で弟子たちを招き、その評判はガリラヤ中に広まり、ガリラヤ中の会堂で宣教し、悪霊を追い出された、と主イエスの伝道活動、御業が、一文でわかるものとなります。マルコはこのように「ガリラヤ」を位置付け、その始まりから印象付けているのです。ガリラヤは弟子たちにとっての生まれ故郷であり、主イエスとの出会いの場であり、主イエスとのすべてはガリラヤにあるのです。
■失意の解散
14章50節に記されていますように、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまい」、そしてペトロは主イエスを三度知らないと言い、15章の死刑の判決から十字架につけられて、主イエスが死をお迎えになり、そして墓に葬られる。これらの箇所に「弟子たち」のことは何も書かれていません。「弟子たち」という言葉も出てこないのです。主イエスが復活された時、それを知ったのは婦人たちでありました。弟子たちではありませんでした。
婦人たちに告げられた言葉はこうです。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」こうして主イエスの約束は告げられたのでした。しかし、彼らはどうしていたのか、彼らは失意の中にありました。彼らは師を失い、主イエスから「復活する」というお言葉を聞いていたにもかかわらず、その意味を理解できませんでした。もうやっていけない、私たちの羊飼いはいなくなってしまった。そうとなれば、元の生活に戻るしか方法はない。彼らはそのように思っていました。とぼとぼと失意の中、それぞれの家へ帰るべく、ガリラヤへと向かったのでありました。それは失意の解散であります。そんな思いでガリラヤへ帰った時、主イエスがそこにおられたのであります。約束はこうして果たされて、絶望の中にあった彼らに、そのようにして希望と喜びが与えられたのです。
ペトロの手紙Ⅰ2章24節以下にはこのように書かれております。実際にペトロの筆によるものかどうかはわかりませんけれども、挫折を経験したペトロ、散らされて迷う羊となったペトロが再び羊飼いのもとに集められ、羊飼いの手の中にいることが記されている御言葉があります。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ帰って来たのです。」
■結び
ペトロを筆頭に、すべての弟子たちが主イエスを見捨てて逃げてしまった、というこの出来事は、人間的な側面から見れば、挫折であり主イエスへの裏切りでありましょう。しかし、神の救いという側面から見た時、それは神の意志であり、そして救いとは人間の業によるものではなく、神の業であるということが明らかになるためには間違いなく必要なことであるのです。私たち人間の弱さ、罪深さをこうして目の当たりにすることは、大きな痛みを伴うものでありますけれども、同時に人間に対する神の赦しの大きさ、その愛の深さにも触れることができる。「あなたがたより先にガリラヤへ行く」、そして再び迷った羊たちを導き養ってくださるお方がおられる。それは今でも変わらないのであります。私たちの羊飼いは養い続けると約束してくださっておられます。この幸いに心から感謝いたします。
Comments