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『神の権威』 2025年4月6日

  • NEDU Church
  • 4月7日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『神の権威』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:8-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:5-13

説教日: 2025年4月6日・復活前第2主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

カファルナウムの町、それはガリラヤ湖の北西のほとりにある町です。主イエスのガリラヤにおける伝道の拠点です。主イエスはガリラヤ湖湖畔の小高い山に登って山上の説教を語られました。そして山から降りてこられて舞台が変わるのと同時に、教えの主イエスから癒しの主イエスのお姿を見ることになるわけです。前回の癒しは重い皮膚病の人でした。今回の癒しは百人隊長の僕への癒しです。重い皮膚病の人は、「汚れた人」であり、他人と関わることが禁じられている人でありましたから、主イエスに近づくことは大変なことであり、人々から蔑みと冷たい視線を浴びながら近づいてきたであろう、とお話しいたしました。今日の箇所で近づいてきた人は百人隊長と記されています。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。この百人隊長がローマ帝国軍の軍人であったのか、もしくは当時この地方を治めていたヘロデ・アンティパスに仕えていた人なのか、はわかりませんが、いずれにしてもこの「百人隊長」という言葉が示していることは、この人がユダヤ人ではなかったということです。

 

■異邦人にこそ

さて、このマタイ福音書はユダヤ人に向けて書かれた福音書であるということを何度か申し上げてきました。ユダヤ人が神に選ばれた民であり、ユダヤ人のみに救いがある、当時のユダヤの人々はそのように理解してきました。異邦人は罪人であり、救いから漏れた人々である。そのように考えられてきたわけです。しかし、この主イエスの癒しの出来事の始めに癒された人は、重い皮膚病というユダヤの宗教共同体から切り離された人であり、そしてその次に登場しますのが、このユダヤ人ではない人、つまり異邦人であった、ということには大きな意味があると思うのです。重い皮膚病の人も、百人隊長も、いずれも神の救いから遠い人である、とユダヤの人々は思っていました。しかし、主イエスがいらしたのは、罪人を招くため、私を必要とするのは、医者ではなく病人、私が来たのは、旧約の律法の完成、成就のため。ユダヤの人々が自分たちは律法を守り、それに従っているゆえに神に近いと考えていたその只中において、神から突き放されていたと思われていた人たち、重い皮膚病の人や異邦人、その人たちが主イエスに遥かに近かったのだということを、マタイは明らかに意識してユダヤ人たちに向けてこの癒しの冒頭に記したのであろうと思うのです。

 

■ただ一言

その百人隊長は「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と申しました。百人隊長というのは百人を取りまとめる隊長ということでありますから、わたしの僕、大勢いる部下の一人が寝込んで苦しんでいるということです。それを聞いた主イエスは「わたしが言って、いやしてあげよう。」と言われたとあります。これはもう一つの訳し方があると言われてきました。「わたしが行って、治せというのかね?」というような疑問文です。この二つの訳の言葉だけを見ますと、「癒してあげよう」と言った主イエスはお優しい主イエスで、「わたしが行って治すのか?」と問われた主イエスは何だかちょっと冷たい印象を受けます。どちらの訳が正しいかということは分かりません。この時代の文章には疑問符、クエスチョンマークというものがありませんから、文脈で理解するということになります。私たちが見る限りの聖書訳では「癒してあげよう」というお優しい主イエスのお言葉と理解していますが、聖書学者たちの理解では、否定的な疑問符のついた文ではなかったかという考え方が根強くあります。私もこの箇所を説教するにあたり、読み込んでいると後者の文脈で読む方が良いのではないか、と思うようになりました。つまり、先ほど申し上げたように、異邦人であるこの百人隊長は、ユダヤの人々の救いには関係のない人であったわけです。ユダヤを支配していたローマ軍であれば、なおさら、ユダヤの神なんて、と馬鹿にしていた人々も大勢いました。ですから、そのような人々の中にいる百人隊長が、主イエスのもとにきて懇願する、ぜひ来てください、と乞い願うのです。そのような時代背景、関係性を鑑みますと、主イエスは「異邦人であるあなたが、我々の神に関係のないはずのあなたが、わざわざわたしに来てくれと願うのかね?」とこうお聞きになったのではないかと思うのです。それを聞いた百人隊長はこう答えました。8節です。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」つまり、そうなのです、わたしは異邦人でありますから、あなたがたが信じている神の選びからは漏れている者であり、神の恵みに与る資格のない者なのです。よくわかっております。しかし、私のためではなく、私の僕のために、ただ一言、お言葉をいただけませんでしょうか。」必死な思いで百人隊長はそのように懇願した、そのことがここに記されているのです。

 

■権威の下に

そして、百人隊長はこう続けています。9節です。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」なぜ、このようなことを言ったのでしょう。軍隊の権威の話をしています。百人隊長という名前の通り、百人の部下を率いる権威を持つ存在です。「行け」、「来い」、「これをしろ」と命令をすれば、その通りに皆、いうことを聞く。軍隊という組織においては、それは当たり前といえば、当たり前なことで、それによって成り立っています。百人隊長はそのことをよく知っていました。しかし、この百人隊長はそのことを誇っているのではないのです。むしろ、逆なのです。そのような権威があっても、自分の大事な僕の病は癒せない。自分の小さな権威など何の役にも立たないということをこの百人隊長は知っているのです。それゆえに、主イエスの権威の前にひれ伏しているのです。あなたの権威であれば、あなたのお言葉があれば、私の部下の病は癒される、それを信じているゆえに、御言葉を、と願っているのです。ここで言われていることは、主イエスの言葉にはそのような権威と力がある、そして主イエスが語られたならば、それは必ず実現する、と信じていること、それがこの百人隊長の信仰であるということです。

 

■主イエスの驚き

自らの持つ権威をかなぐり捨てて、ひれ伏すこの百人隊長の言葉に、主イエスは感心した、と聖書は記しています。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」繰り返しますが、この百人隊長の「信仰」とは、主イエスに祈り願えば病は治ると疑わずに信じたことではなく、主イエスの御言葉の力、御言葉の権威を信じて、それを求めたことです。旧約聖書イザヤ書55章8節1以下にこうあります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのようにわたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」ここで語られていますのは、神の権威です。主イエスのお言葉もむなしく消えることなく、必ず、主イエスが、神が望まれたことが実現するのです。まさにこの神の権威を信じる、そのことによって、この百人隊長の僕は癒されました。主イエスは言われました。「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」百人隊長は主イエスの権威に依り頼み、そして主イエスはその信仰を受け止めて、救いの御業が実現したのです。

 

■救いに与る者

さて、11節、12節にはこのように書かれています。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」東や西から大勢の人、とは、つまり、ここで示された異邦人たちのことです。異邦人たちは天の国でアブラハム、イサク、ヤコブ、つまりイスラエルの信仰の父祖たちと共に神の民として救いに与るということです。異邦人である者たちもその信仰ゆえに、天の国に迎え入れられるということです。しかし、「御国の子ら」つまり、もともと神の民とされていたはずのイスラエルの民は、その救いに与ることはできずに、外の暗闇に追い出され、そして泣き喚く、歯ぎしりする、と主イエスは言われました。イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であるという理由により、救いから漏れることはないと考えていました。そして律法を守る生活をすることによって、それは増すと考えていたのです。律法学者たちは、律法のことは誰よりもよく知っているという自負を持っていました。そのような律法学者にとっての権威は何にあるでしょうか。律法に書かれている通りにする、律法が絶対である、ということでありますから、権威は律法にあるのです。少し前の7章28節以下、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とありますように、主イエスに従ってきた人々は律法学者との違いに驚いたのです。

 

■結び

私たちもこの区分から言えば、異邦人であり、元々の神の選びの民、イスラエルには属していません。異邦人ながら、救いに与った百人隊長、そして前回ともに聴きました重い皮膚病の人、共に、主の前にただひれ伏し、その御言葉の力、神の権威を信じた人と、自らの正しさを積み上げて、それゆえに救いに与れると信じるイスラエルの民、その二種類の対比がここで示されました。私たちもこの百人隊長のように、ただ神の権威に従う者でありたいと思います。これまで示されてきた主イエスの教え、山上の説教が机上の空論ではなく、自らの行いとして一方踏み出せるように、御言葉に聞き従う者となりたいと思うのです。主イエスの御言葉に驚くだけではなく、その言葉をさらに求めていきたいと願います。私たち自身は、この百人隊長が言うように、主イエスをお迎えできるような者ではありません。しかし、この百人隊長のように、重い皮膚病の人のように、ただ主イエスの御言葉を慕い求めると言うことはできます。それは日々の祈りに始まり、そして礼拝で御言葉に聞くことでもあるでしょう。私たちもそのような信仰に生きることができるのです。私たちがどれだけ救いに相応しくない罪人であっても、主イエスは神の権威を慕い求めるそのような私たちの信仰を受け止め、そして「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」と私たちをそれぞれの生活へと送り出してくださいます。さらにはこの百人隊長の僕は僕の信仰によってではなく、百人隊長の信仰によって癒されたことも覚えたいと思います。私たちが誰かのために祈り、主イエスに願う時、神はその祈りを聞き届けてくださいます。ここで示されているのが執り成しということです。私たちの周りには主イエスの救いの恵みに触れておられない方々がたくさんおられますけれども、この百人隊長の祈りによって、その僕が癒されたと言う執り成しは、私たちにとって、大きな慰めであり、励ましであり、そして希望です。今日の箇所からはそのことをも聴き取りたいと思うのであります。

 
 
 

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