top of page

『復活の主』 2025年4月20日

  • NEDU Church
  • 1 日前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『復活の主』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書12:1-6

聖書箇所: 新約聖書 ヨハネによる福音書20:1-18

説教日: 2025年4月20日・復活日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

皆様、主イエスのご復活おめでとうございます。今日、主のご復活の喜びを共に祝うために与えられた御言葉はヨハネ20章です。主イエスは金曜日の午後に十字架上で死を迎えられました。そしてすぐに日没を迎えることとなります。ユダヤの暦では日没から一日が始まりますので、安息日である土曜日の始まりが迫っていました。このヨハネ福音書では、安息日となる前に、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人が主イエスを丁寧に埋葬したことが記されています。39節以下にはこうあります、「イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」これがアリマタヤのヨセフとニコデモによる主イエスの葬りの記録です。

 

■マグダラのマリア

主イエスの十字架の死、葬り、そして復活、これらの出来事は4つの福音書全てに記載されていますが、それぞれ少しずつ異なっています。このヨハネ福音書ではアリマタヤのヨセフとニコデモによって主イエスのお体にはすでに香油が塗られ、丁寧な埋葬がされていますが、マルコとルカを見ますと、二人によって葬りはされたものの、安息日のあけた早朝にマグダラのマリア、ヤコブの母マリアら女性たちが用意しておいた香料、香油を持って主イエスに塗るために墓を訪れた、とあります。他の福音書では主イエスの墓に行ったのは何人かの女性たちでありますが、このヨハネ福音書では、20章1節、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」とマグダラのマリアだけが訪れています。安息日前にすでに丁寧な埋葬がされておりますから、彼女が香料を塗るなどの必要はありません。彼女が何のために行ったのかといえば、いてもたってもいられず、ただ主イエスの近くにいたかったということでありましょう。私たちでも近しい人が亡くなったと知れば、たとえもう話すことはできなくとも、ただそばにいたい、そのような気持ちになるのはとても自然なことでありますから、彼女の悲しみに満ちた、いたたまれない、どうにもやりどころのない気持ちが、彼女の足を自然と主イエスがおられる場所へと向かわせたのだということは理解できます。そして墓を見つめ、涙の流れるままに、悲しみに浸る、そうすることで、涙が涸れるまで泣くことで、深い悲しみが少しでも癒される、と思っていたのではないでしょうか。主イエスが生きておられた頃の、お声、しぐさなどおそばにいて感じることのできたその恵みを思い出して、慰めを得たかったのでありましょう。私たちも愛する人の死において、同じようなことを思い、同じように行動するでありましょう。そのようにして喪失感が癒され、そして神の平安に満たされる時を待つしかないのです。

 

■空っぽの墓

しかしながら、マグダラのマリアが朝早くに、まだ暗いうちに墓に行ってみますと、石が取り除けられていました。彼女はそれをみて、シモン・ペトロのところへ、また主イエスの弟子のところへ走っていって彼らにそれを告げました。当然ながら彼女は墓の中を覗きました。主イエスのご遺体はそこにはありませんでした。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わかりません。」そのようにいうマリアの言葉から感じられますことは、彼女は主イエスが復活したとは思っておらず、誰かによって奪い去られたと考えたということです。ですから、彼女の心は騒ぎ立ち、走って弟子たちに告げたのでありました。そしてその知らせを聞いたシモン・ペトロともう一人の弟子も走り出しました。マリアの知らせを確認するためでもありますが、全くの想定外の出来事を告げられ、戸惑い、走ったのです。9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とこうありますように、彼らは自分たちの目の前で繰り広げられている事柄、つまり主イエスのご遺体を収めたはずの墓が空っぽになっていて、遺体に巻いたはずの亜麻布が丸めて置いてある、そのような状況を実際に、その場に来て、自分の目で見て確認しても、理解していなかったのです。そして彼らは家に帰ったとあります。どうしたのかといえば、彼らは怖かったのです。そして他の弟子たちと共に、ユダヤ人を恐れて家に籠ったのでありました。

 

■マリアの涙

シモン・ペトロともう一人の弟子は、家に帰って行きましたが、マグダラのマリアは墓に留まりました。「マリアは墓の外に立って泣いていた」11節にはそのようにあります。さて、最初にマリアがここにきたときは、主イエスのご遺体が墓に収められていて、そのおそばで泣くこと、主イエスの死を嘆き悲しんで泣くことによって、なんとか慰めを得たいと思っていたのでした。そのような心の動きは現代の私たちでも変わりません。近しい人の死、それは悲しみしかありません。しかし、心のどこかではもう元には戻ることはない、ということを知っているのです。それでも湧き起こる悲しみは涙という形でしか、処理することはできないのです。泣き疲れるという言葉がありますけれども、とめどなく泣くことによって、この変わらない事柄を受け入れる、そのような時間が必要なのです。しかし、このとき、マリアの涙、マリアの悲しみは到底、納得へのためではありませんでした。そこに主イエスのご遺体、亡骸がありませば、泣くことによって、もう変わらないその現実を受け入れていくための涙となる、そのような時間となったでありましょう。しかし、その主イエスの亡骸がないのです。それはどうにもやるせない、慰めを得られない絶望の涙でありました。さて、そうして今一度、主イエスがおられたはずの墓穴を覗き込んでみましたら、二人の天使がいて、マリアにこう言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。マリアは悲しみの中から、こう言います、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」この彼女の言葉からわかりますことは、死んでしまったけれども、わたしの主である、もう遺体となってしまったけれども、わたしの主、ここに横たわっているはずのわたしの主、その主イエスが奪い去られてしまったことを悲しんでいるということなのです。

 

■振り向いたならば

そのように彼女は言った後、「後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた。」こう聖書は記しています。彼女は亡骸が取り去られてしまった悲しみの中で、薄暗い墓穴を覗き込んでいました。しかし、振り向いたならば、そこに復活した主イエスが立っておられた。復活して生きておられる主イエスと出会ったのです。私たちそれぞれも主イエスへの信仰を与えられているわけですが、それは主イエスとの出会いであり、それは悔い改め、回心という出来事でもあるわけです。この回心、悔い改めということは、心の向きを変えることであり、神の方を向く、ということです。その様にして私たちは神と出会う。ここでも同じことが実現しています。マリアが「振り向くと」私たちも、いつも自分が見ている世界ではなく、全く異なる世界が与えられました。体と心の向きを変えなければならないのです。この「振り向くと」という言葉は14節と16節に2回も使われています。主イエスがおられない虚しさ、どうしたら良いかわからない虚脱の思い、まさに一点を見つめる様な思いのマリアであったのです。その様な世界から新たな世界の始まり、それは振り返ることによって始まるのです。

 

■誰を探しているのか

しかし、彼女は、はじめはそれがイエスだとはわかりませんでした。14節にそのように書かれています。それは無理のないことでありましょう。きっと私たちも同じなのではないかと思います。「神は生きておられる」「主イエスは復活されて生きておられる」言葉の上では私たちはそのように理解していますし、信仰の問題としてもそのように信じていても、マリアのそばに主イエスがおられても、「わたしにはわかりません」と言ったように、私たちもきっとわからないのではないでしょうか。今日の少し前の御言葉、2節にも同じような表現があります。ここでは「わたしたち」となっていました。つまり、シモン・ペトロをも含む弟子たち全てを指している言葉でありましょう。キリスト教の歴史、それは学問的に出来事として研究され、語ることができますけれども、復活の出来事、これは信仰の出来事であって、歴史学的に語れる出来事ではないのです。今までにも何度か、クロノスとカイロスという言葉についてお話をいたしました。いずれも「時」を表す言葉でありますけれども、クロノスという歴史的経過として辿る時間の中に、神が介入される出来事、それがカイロスであり、この復活という出来事なのです。

主イエスはマリアに言われました。「だれを探しているのか」私は生きてここにいる、と告げておられるのです。墓の中に置かれている遺体を探しているが、それは間違っている、と言っておられます。私たちにとってもこの復活、という信仰の核心はとても難しいことです。ともすれば、私たちは主イエスを墓の中に探す、もしくは過去の人としてとらえてしまいがちです。つまりは、すでに死を迎えて墓に眠っている自分の両親や家族と同じような位置付けに主イエスをおいてしまうのです。私たち人間の理論で言えば、その方が簡単だからです。つまり、時に自分に近しい、死んでしまった家族に話しかけたりもするようなことに似ています。そしてそれは日本古来の宗教観から言えば、ご先祖様が見守っていてくださる、というような感じです。しかし、主イエスは復活して、今も生きておられ、私たちと共にいてくださるのです。主イエスは神であられます、神は私たち人間のスケールに閉じ込めることはできないのです。主イエスを信じる、主イエスの復活を信じるということは、主イエスはこういう方で、こういうことをしてくださるとわかってしまうことではなくて、新たに出会うことなのです。主イエスは「マリア」と呼びかけられました。主イエスは私たちにもそのように名を呼んでくださいます。それがカイロス、特別な時であり、再び新たに神との出会いが与えられる時ということです。

 

■父のもとへ

主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」主イエスに呼びかけられたと知ったマリアはその足に縋り付きたかったのでした。しかし、復活した主イエスは天の父のもとにのぼられるのです。現実にお姿を見ることはできなくとも、主イエスが共にいてくださることを信じて歩むのが私たちの歩みであります。主イエスは言っておられます。ヨハネ福音書8章58節「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」。この『わたしはある』という日本語訳は、元の言葉ではエゴー・エイミ、モーセを召し出された時、神はご自身を「わたしはあるという者だ」エゴー・エイミ、と言われました。この17節の主イエスのお言葉は、かつても、そして今も、そして未来も「わたしはある」存在である、ということをお語りになっておられるのです。

 

■結び

ヨハネ黙示録1章17節以下にはこうあります。「その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」マリアに現れた主イエスはこうしてヨハネの前に現れ、そして代々の聖徒たちに現れて、そして私たちとも出会ってくださるのです。混沌から世界を創造された神は、死からいのちを、絶望から希望を、今もなお造り出してくださるのです。イザヤ書12章4節から6節「その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。/主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。/シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」私たちも、こうして出会ってくださる「主を見ました」と語り続け、私たちのただ中にいてくださる方を讃えたいと思います。

 
 
 

最新記事

すべて表示
『癒しをくださるお方』 2025年4月13日

説教題: 『癒しをくださるお方』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書53:1-13 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:14-17 説教日: 2025年4月13日・復活前第1主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに...

 
 
 
『神の権威』 2025年4月6日

説教題: 『神の権威』  聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:8-11 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:5-13 説教日: 2025年4月6日・復活前第2主日  説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに カファルナウムの町、それはガリラヤ湖の北西のほとりにある...

 
 
 
『御心を尋ね求める』 2025年3月30日

説教題: 『御心を尋ね求める』  聖書箇所: 旧約聖書 レビ記13:1-8 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:1-4 説教日: 2025年3月30日・受難節第4主日  説教: 大石 茉莉 牧師 ■ はじめに...

 
 
 

Comentários


bottom of page